第二話 抜かれた銀杭
第二話 抜かれた銀杭
王宮を出て四半刻もしないうちに、雨は石畳を白く煙らせるほど強くなった。
「第十三測点へは大通りから行けますが、馬車は大聖堂前で止めてください。地盤が弱っているなら、車輪の重みも避けたいのです」
向かいに座るカイ閣下は、一度もうなずきをためらわなかった。
「御者に伝えます。ほかに必要なものは」
「灯りを二つと、細い鉄棒、それから封蝋用の布を。測点に細工があれば、触れる前に記録したいので」
私は膝の上で方位盤を握っていた。王城を指していた針は、南へ向かうにつれて小刻みに震え、何度も北へ引き戻されそうになる。地脈は本来、低い場所へゆるやかに逃がすものだ。それが逆らって王城へ吸い上げられている。
「指は」
問われて、私は血の固まった親指を見た。
「測量士ならよくある傷です」
「よくあるから手当てが要らないとはなりません」
閣下は座席脇の箱から清潔な布を取り出した。私が受け取ろうとすると、馬車が大きく揺れたため、彼の手が私の指を支える形になった。
「失礼」
「いえ……ありがとうございます」
丁寧に巻かれる白い布を見ているうち、指輪の跡が妙に目についた。婚約を失ったばかりの女に、かける言葉を探しているのだろうか。そう思ったのに、カイ閣下が口にしたのは別のことだった。
「地図を壊してまで止める判断は、簡単なものではなかったでしょう」
「壊したのは、私の地図ではありません。もうあれは、人を守るための線ではなかった」
言ってから、自分の中で何かが定まる音がした。
「それでも、皆の前で私が手を加えた事実は使われます。殿下は私を妨害者に仕立てるでしょう」
「ならば、先に地面へ聞きましょう。宮廷で都合よく言い換えられない答えを拾えばいい」
その言い方が、ひどく測量士らしくて、私は初めて閣下の前でわずかに笑った。
馬車は大聖堂の西裏門で止まった。雨のせいで祝祭の飾りつけは途中のまま放り出され、広場を横切る花綱が暗闇で濡れている。七日後にはここが人で埋まるはずだった。
私は地面に片膝をつき、方位盤を置いた。
「第十三測点はこの下です。通常なら、広場中央の紋章石から西へ九歩」
カイ閣下が灯りを低く掲げる。九歩目には、小さな月桂樹の刻印がある石板が埋まっていた。鉄棒を差し入れると、点検口の蓋は拍子抜けするほど軽く開いた。
「鍵が外されています」
「測量院の作業では?」
「解錠したなら、縁に日付の蝋印を残します。ありません」
点検口から、雨より冷たい空気が噴き上がる。梯子を降りた先は、大人二人が並ぶのがやっとの保守路だった。壁には導線を保護する白い陶管が走り、その先に第十三測点の銀杭がある。
あるはずだった。
「……ない」
石床に穿たれた杭穴は、空だった。銀杭を固定していた三本の留め具は刃で切断され、代わりに細い金色の棒が穴の奥へ差し込まれている。
私は灯りを近づけかけ、息を止めた。
「閣下、下がってください。これは銀ではありません」
「金に見えますが」
「表面だけです。中は吸脈石です。地脈の流れを安定させるのではなく、一方向へ引きずります」
北へ。
金の棒から壁沿いに伸びた髪ほどの細線は、陶管の陰に隠され、王城へ向かう古い排水路へ消えていた。
カイ閣下は手袋をした手で切断跡の寸法を測り、携帯していた黒紙へ炭筆で写し取る。
「持ち去られた銀杭があれば、交換の証拠になるのですね」
「はい。杭には測点番号と私の検査印が刻まれています。けれど、どこへ――」
かすかな音がした。
雨水が流れ込む音に混じって、石を蹴ったような響き。保守路の奥、排水路へ続く曲がり角で、灯りが一瞬だけ揺れた。
「誰です!」
カイ閣下が私の前へ出る。返事の代わりに、袋がこちらへ投げ込まれた。
床へぶつかった袋から、砕いた黒石が散る。
「伏せて! 震石です!」
私は閣下の外套を掴んで倒れ込んだ。黒石が金の棒に触れた途端、地下道全体がうなりを上げた。
頭上で石が割れる。灯りが一つ消え、暗闇の中で轟音が何度も重なった。
「セレナ嬢、出口へ!」
「いけません、上には民家があります!」
第十三測点の西側は染物職人の通りだ。ここで流れを放置すれば、排水路の上に建つ家から崩れる。
私は揺れる床に手をついた。震動は金の棒から北へ逃げようとして、抜かれた銀杭の場所で渦を巻いている。塞ぐ物が必要だ。正規の銀杭ほど持たなくても、一度だけ流れを散らせる物。
「閣下、剣をお借りできますか」
「剣?」
「銀を含んでいれば、十分です。折れるかもしれません」
彼は何も問わず、腰の細剣を鞘ごと抜いた。
「領民の命を守るための剣です。王都の民でも使い道は同じでしょう」
私は鞘を外し、柄近くの紋章を確かめた。北境の領主剣には、雪崩除けとして銀が鍛え込まれている。
「留め具を切ります。私が合図したら、杭穴に剣を真っ直ぐ入れてください」
「あなたは」
「吸脈石の線を切り離します。三つ数えたら、必ず」
私は腰の測量小刀を抜き、金の棒へ近づいた。足元の亀裂から冷たい光が漏れる。一。細線に刃を当てる。二。流れが逆巻き、腕まで痺れた。
「三!」
小刀を振り下ろした。
同時にカイ閣下の剣が空の杭穴へ深く刺さる。青白い光が剣身を駆け上がり、柄の獅子紋を覆った。閣下は片腕を震わせながら、剣を離さなかった。
細線が切れる。
地下道を押し潰そうとしていた音が、ふっと遠のいた。代わりに、上から赤子の泣き声と慌てた人の声が落ちてくる。
「まだ上が崩れます。避難を!」
私たちは梯子を駆け上がった。広場西の路地では、染物屋の壁に縦の亀裂が入り、二階の窓から女性が幼子を抱いて叫んでいる。
カイ閣下は雨の通りへ飛び出した。
「全員、家から出ろ! 北境辺境伯の名で命じる、荷物は捨てて広場へ!」
夜中の突然の声に戸惑う住民たちへ、私は石畳を指さした。
「青い光が見える場所を踏まないで! 建物から離れて、西の噴水まで一直線に!」
人々が動き出した直後、染物屋の片側が音を立てて沈んだ。飛び散った瓦が雨に弾かれる。
けれど、誰もその下にはいなかった。
広場の噴水前で幼子を抱く母親が泣きながら私に礼を言った。私は答えるより前に、その場に膝をつきそうになる。カイ閣下の腕が肩を支えた。
「座って。あなたまで倒れる必要はない」
「証拠を、地下に残したままです」
「私の従士を呼びます。触れずに見張らせる。今の崩落そのものも、証人がこれだけいる」
閣下の声は落ち着いていたが、右手の手袋が裂け、剣を握った掌が赤く滲んでいた。
「お怪我を……」
「あなたが借りた剣が少々熱かっただけです」
「少々ではありません」
私は自分の予備布を取り出した。彼にしてもらったように巻こうとすると、閣下は一瞬驚いた顔をし、それから黙って手を預けた。
「測量の助手としては、役に立てましたか」
「助手にしては命令を聞きすぎです。領主様なのに」
「現場で正確な指示を出す者が指揮官です。私が爵位を出す場面ではありません」
濡れた髪を額に貼りつかせたまま、閣下は笑った。
「作業中は、カイと呼んでください。『閣下』と呼ばれるたび、振り向く時間が惜しい」
胸のあたりが、ほんの少し熱くなった。
「では……カイ様。次は証拠を拾いに戻ります」
「様も削って構いませんが、それは次の課題にしましょう」
従士たちが駆けつけ、崩落した家の周囲へ縄を張った。私とカイは再び点検口へ降りた。揺れが止んだ地下道には、先ほど襲撃者が逃げた際に落としたらしい革袋が転がっている。
中には、銀杭が一本入っていた。
泥を拭えば、刻まれた文字ははっきり読める。
第十三測点。検査印、セレナ・アルヴェイン。
「見つけた……」
安堵に息を吐いた私の脇で、カイが袋の口をつまんだ。
「こちらも見てください」
紐に、ちぎれた封蝋が絡んでいた。青い蝋に押された半分の紋章は、王太子府の飛竜だ。
さらに袋の底から、濡れて文字の滲んだ紙片が出てくる。
『……黎明祭第一鐘、全導線を戴冠井へ……』
読み上げた私の声が、地下の冷気に吸われた。
「戴冠井とは」
「王城の基礎にあるという、王族の儀式井戸です。今は封じられているはずです。地脈院の古文書でしか見たことがありません」
「封じられた井戸へ、王太子府の者が王都の地脈を集めている」
カイの視線が険しくなる。
「その文書の原本はどこに」
「王立地脈院の原図室です。測点の交換記録も、戴冠井を封じた地図も、そこなら確認できます」
地上から、鐘の音が響いた。深夜の急報鐘だ。
続いて、馬に乗った触れ役の声が雨を切り裂いた。
「王太子殿下より布告! 元婚約者セレナ・アルヴェイン、聖女の救国地図を破壊し、市街に崩落を招く! 民は同女の測量に協力せず、発見した異変は王太子府へ届け出よ!」
救ったばかりの染物屋の女性が、青ざめて私を見た。けれど彼女は幼子を抱き直すと、触れ役ではなく私に向かって深く頭を下げた。
「私たちは、誰が逃がしてくださったか知っています」
その一言に、折れかけていた呼吸が戻る。
カイが封蝋のついた袋を証拠布で包んだ。
「夜明けまでに地脈院へ行きましょう。殿下が布告を急いだなら、記録を消す手も急いでいる」
「はい」
私の名前を消すために、測点まで引き抜いた人がいる。
ならば、消される前にすべてを読み取るだけだ。
雨の向こうにそびえる地脈院の尖塔へ向け、私たちは再び馬車へ乗った。




