第一話 署名のない救国地図
第一話 署名のない救国地図
王宮大広間の床いっぱいに広げられた地図から、私の名前だけが削り取られていた。
羊皮紙ではない。王都近郊で採れる白岩を薄く磨き、百二十七本の銀線を地下の地脈どおりに埋め込んだ、起動用の地図盤だ。六年をかけて泥に膝をつき、雨の中で方位盤を抱え、時には崩れる穴から助手を引き上げて完成させた。
南端の余白にあるはずの刻印――セレナ・アルヴェイン、一級地脈測量士――は、刃物で浅く削られ、代わりに金粉で百合の紋章が描かれている。
「素晴らしいでしょう、セレナ様」
声をかけてきたミレイユ・ラセル嬢の白いドレスにも、同じ百合が刺繍されていた。聖女候補として王宮へ迎えられて半年。柔らかな金髪を揺らしてほほえむ彼女の後ろで、貴族たちは今夜の目玉を一目見ようと身を寄せ合っている。
「わたくしの祈りに、地脈が光で答えてくださるのですって。殿下がそう名づけてくださいました。『聖女の救国地図』と」
喉がひりついた。
「この地図の南中央、導線を変えましたか」
「ええ。黎明祭では大聖堂前を金色の光が巡るほうが、民も希望を感じますもの。暗い脇道を通る線は、殿下が不要だと」
暗い脇道。
あれは見栄えのために引いた線ではない。大聖堂前広場の地下には、昨冬から音の鈍い空洞が育っている。人が何千人も集まる黎明祭では、地脈の力を西側の細い道へ逃がさなければならない。
「起動してはいけません。今すぐ銀鍵を地図から離してください」
ミレイユ嬢が小さく目を見開いたとき、高らかな楽の音が会場を満たした。
玉座前の階段から、ルシアン殿下が降りてくる。銀髪に王太子の青い礼装。かつて私が、長旅の測量から帰るたび真っ先に会いたいと思った人だった。
殿下の手には、婚約を結んだ日に交換した青玉の指輪があった。
「皆、今宵は王国の新たな守護を祝ってほしい」
ざわめきが静まり、数百の視線が殿下に集まる。
「聖なる力に目覚めたミレイユが、沈みゆく王都を救う地図を示してくれた。旧来の測量院は不安を煽り、完成を遅らせ続けたが、真の導きはかくも美しく明快だ」
心臓の奥が冷たくなる。私の父でさえ、列席者の中で顔を青ざめさせていた。
「そして、セレナ・アルヴェイン」
「はい」
逃げるわけにはいかない。私は地図盤を踏まぬよう、その縁に立ったまま礼をした。
「君との婚約を、本日をもって破棄する。聖女の働きを嫉み、黎明祭の準備を妨げた者を、未来の王妃には置けない」
どよめきが波のように押し寄せた。ミレイユ嬢が殿下の隣へ進み、傷ついた者をいたわるような表情で胸に手を置く。
「併せて、君が管理していた方位盤と原図を王立地脈院へ返納せよ。以後、救国地図への関与を禁ずる」
婚約を失う痛みより、最後の命令のほうが深く刺さった。
関与を禁じられれば、危険を知る者が誰も止められない。
「婚約破棄は承りました。ですが、地脈測量士として申し上げます。その地図は起動できません。大聖堂前の第十三測点を迂回する導線が消されています」
「まだ成果を自分のものだと言い張るのか」
「成果の話ではありません。祭礼の日に広場が落ちます」
一瞬、広間から音が消えた。
殿下の顔に浮かんだのは不安ではなく、侮辱された怒りだった。
「不吉な脅しまで使うとは。ミレイユ、起動を。民に祝福の証を見せれば、虚言など消える」
「お任せください、殿下」
「待って!」
ミレイユ嬢が、百合の柄のついた銀鍵を地図中央の穴へ差し込んだ。
きん、と澄んだ音がした。
銀線に金色の光が走る。北門から市場、王立劇場、そして大聖堂へ。会場から感嘆の声が上がり、ミレイユ嬢は誇らしげに両手を広げる。
けれど私には、光の下から響く音が聞こえていた。
ごり、という、濡れた石臼を無理に回したような低い震え。
地図の上で、大聖堂前広場に当たる白岩が黒く濁った。金色の線が流れ込むほど、その染みは薄い亀裂となって四方へ伸びていく。
「第十三測点が受けきれない。鍵を抜いて!」
「触らないでくださいませ! これはわたくしの祈りです!」
ミレイユ嬢が鍵を庇った。護衛が私の前へ腕を出す。
次の瞬間、地図盤の端が跳ねた。
見物のため最前列へ来ていた幼い小姓が、驚いて足を滑らせる。その足元をめがけて白岩の割れ目が走った。
考えるより先に体が動いた。護衛の腕の下を潜り、小姓の襟を掴んで地図の外へ投げ出す。同時に私は、帯の内側に隠していた小さな真鍮の方位盤を亀裂へ押し当てた。
「原盤登録者、セレナ・アルヴェインの名において、導線を閉じます!」
親指を盤の針へ押しつける。鋭い痛みとともに血が一滴落ちた。
光が弾けた。
床を揺らす衝撃に膝を打ちつけたが、金色の奔流は止まった。広場を示す箇所には拳ほどの穴が開き、その底で砕けた銀線が鈍く光っている。もしこれが本物の測点と同期したまま祭礼を迎えていれば、あの穴は人で埋まった広場に開いていた。
「セレナ! 何をした!」
殿下がミレイユ嬢を抱き寄せながら叫んだ。
「起動を遮断しました。被害はこの地図盤だけです」
「貴様が壊したのだろう! 自分の名がないから!」
「いいえ、殿下」
広間の奥から、低く通る声がした。
礼装の群れが道を開ける。その向こうから歩いてきたのは、黒に近い濃紺の外套をまとった長身の男性だった。北境辺境伯、カイ・レインフォード閣下。冬ごとに崩れる北街道の改修のため、私は二年前、彼の領地へ測量に赴いたことがある。
閣下は割れた地図の前で片膝をつくと、穴の縁を手袋越しになぞった。
「導線の破裂は内側からです。外から方位盤で割ったなら、銀線は底ではなく表面へめくれる。それに――ご覧になったほうがよろしい、陛下」
彼が割れ目のそばに落ちた金粉を払った。
血印で起動を止めたためだろう。削られていた余白の下から、青白い文字が浮かび上がっていた。
セレナ・アルヴェイン。原盤測量士。
誰かが息を呑んだ。国王が玉座の肘掛けを握り、ゆっくりと身を乗り出す。
「ルシアン。これはどういうことだ」
「原図を作った者の古い登録が残っていただけです、父上。完成させたのはミレイユで――」
「地脈地図に古い登録などありません」
私の声は、不思議なほど震えなかった。
「改訂するなら、現測量士が各測点を再検査し、新しい血印で登録します。私の血印が応答したということは、これは私の原盤の導線を削り、未検査の線を上から足したものです」
ミレイユ嬢の唇が白くなる。
「わ、わたくしは、殿下から……光を大聖堂へ通せばよいと。そんな危険なものだなんて、聞いておりません」
「黙れ、ミレイユ」
「殿下こそ、迂回路はセレナ様が意地悪で入れた無駄な線だと――」
祝宴の空気が崩れていく。さっきまで拍手を送っていた者たちは、今度は聞き漏らすまいと静まり返っていた。
殿下は私を鋭く睨んだ。
「衛兵、セレナを拘束しろ。危険を承知で披露の場まで黙っていた責任を調べる」
「発言をお許しいただきたい」
カイ閣下が立ち上がり、胸元から黒鉄の筒を取り出した。北境領主にだけ許される、災害急報の封筒だった。
「私は三日前、北街道の測点にも同様の異音があるとして、王立地脈院へ急報を提出しました。添付した接続図の作成者はセレナ嬢です。彼女は危険を黙っていたのではない。記録を提出していた」
「辺境伯、これは王家の内事だ」
「地面が崩れる際、王家の内事かどうかを選んで民を呑むとは存じません」
穏やかな言い方なのに、殿下は一歩も言い返せなかった。
カイ閣下は国王へ向き直る。
「起動中の地脈地図に崩落兆候が出た以上、緊急測量令の適用を願います。登録測量士であるセレナ嬢を私の監督下に置き、黎明祭までに王都全測点を再検査させてください。拘束も審問も、その結果を得てからで遅くはありません」
国王は割れた地図を見た。それから、震える小姓を抱きしめて泣いている母親を見た。
「認める。黎明祭は七日後だ。カイ・レインフォード、セレナ・アルヴェインを伴い、危険域を確定せよ。祭礼の実施はその報告まで保留する」
「御意」
私も深く頭を下げた。
「必ず、民が歩ける地図を持ち帰ります」
立ち上がると、殿下の握っていた青玉の指輪が目に入った。
「セレナ。測量を許されたからといって、婚約破棄が撤回されたと思うな」
かつてなら、その冷たい言葉に胸が裂けたかもしれない。
私は殿下の前まで進み、左手から同じ青玉の指輪を外した。六年つけていた跡が、白く指に残る。
「撤回は望みません、殿下」
指輪を差し出す。
「私は、名前を消された地図の飾りになるために測量士になったのではありませんから」
殿下の頬が強張った。私はもう一度礼をし、背を向けた。
夜の王宮前には、雨の匂いが漂っていた。広い石段を降りる足に、先ほど打った膝の痛みが遅れて戻ってくる。
「歩けますか」
隣に並んだカイ閣下が、抑えた声で尋ねた。
「走る必要があるなら走れます。助けていただき、ありがとうございました」
「私は二年前、あなたの図のおかげで北街道の集落を冬崩れから逃がせた。今夜は借りを返したのではなく、また正しい地図に賭けただけです」
正しい地図。
婚約者から一度も向けられなかった信頼を、その言葉の中に感じてしまい、私は握った方位盤へ目を落とした。
「まずは第十三測点へ。改竄された線がどこから地脈を引いたか、夜のうちに確かめます」
「馬車を用意しています。あなたの指示で進みましょう、測量士殿」
呼び名に、胸の奥で固まっていたものがわずかにほどけた。
私は方位盤の蓋を開く。通常なら針は、異音を起こした大聖堂前、南東を指すはずだった。
しかし、血を吸った針は震えながら反転し、私たちの背後へ真っ直ぐ向いた。
光の消えた王城。その地下へ。
「閣下」
「どうしました」
「広場は出口にすぎません。地脈を無理に引き寄せている場所が、王城の下にあります」
カイ閣下の表情から、わずかな柔らかさが消えた。
「では、これは美しい祭礼のためだけの改竄ではない、と」
「はい。誰かが、王都の足元を使って何かを動かしています」
私は指輪の消えた左手で方位盤を閉じた。
名前を削った者が、私の仕事まで消せると思ったのなら間違いだ。
「測り直します。今度は、私の名で」
降り始めた雨の中、北境伯の馬車が静かに扉を開いた。




