第5話①「秘密と、秘密と、秘密」
五月に入りゴールデンウィークが明けてから、制服が冬服から夏服に切り替わり教室の窓が開くようになった。風が入って緑の匂いがする。校庭の木々が青々として空が高い。
高校生活、一か月と少し。少しずつ、本当に少しずつだけど「普通」の輪郭が掴めてきた気がする。朝起きて学校に行って、授業を受けて、昼休みに雫たちと喋って、放課後に帰る。繰り返すたびに「普通」の手触りを体が覚えていく。
ただし「慣れた」とは言えない。慣れたと思った瞬間にボロが出る。先日の教訓だ。油断するな。ルーの受け売りだけど。
◇
放課後、教室に雫と二人で残っていた。
雫は何かを迷っていた。さっきからスマホを手の中で回している。画面を点けて消して、また点けて。指が画面の上を行ったり来たりしている。何度目かに雫がスマホを机に置いて、深呼吸をした。
「栞」
「ん」
「あのさ。見せたいものがあるんだけど」
雫の声がいつもと違った。昼休みに推しの話をするときの弾んだ声でもなく、バレーの練習中の明るい声でもない。低く少し震えている。真剣だった。
「引かないでね。マジで引かないでね」
「引かない。たぶん」
「たぶんって言うな!」
雫が差し出したスマホの画面にはSNSのアカウントページが開いていた。アイコンは青い星のイラスト、ヘッダーは夜空の写真。アカウント名は「sk」。フォロワー三人の鍵アカウント。画面をスクロールするとツイート、というか考察が並んでいた。
「4/15 渋谷区○○交差点付近に爪痕を確認。深さと角度から、戦闘が空中で行われた可能性が高い。セイントは上空からの急降下攻撃を多用する傾向があるため、戦闘高度は推定50〜80mか」
「目撃情報の時系列を整理。出現頻度は月平均12回、ただし冬季は減少傾向。これは怪物側の活動パターンか、セイント側の体調管理に起因するか不明」
「3/2 足立区の建物損壊、壁面の焦げ跡を分析。セイントの主要攻撃手段は衝撃波と推定されるが、この焦げ跡は熱エネルギーを含むことを示唆。攻撃バリエーションが増えた可能性」
正確すぎて胸が凍った。戦闘高度の推定、攻撃パターンの分析、出現頻度の統計。足立区の焦げ跡は私が初めて「フレアバースト」を使った戦闘のものだ。冬季に出現頻度が減っていたのは、十二月に肋骨を四本折って二週間動けなかったからだ。雫にそこまではわからないだろうが方向性が合っている、恐ろしいほど。
さらにスクロールした。目撃情報の整理、戦闘痕跡の写真コレクション、地図上にプロットされた出現ポイント、時間帯の分析、使用された攻撃手段の推測。フォロワー三人の鍵アカウントの中に、私の三年間がすべてがデジタルに整理されて並んでいた。
「……これ」
「スカイブルーセイントの考察アカウント。三年くらいやってる」
三年。私が戦っていた三年間と同じ長さ。
「リアルでは誰にも見せたことない。グループの子たちにこんなの見せたら一発で引かれる。都市伝説オタクなんてキモいでしょ」
雫は笑っていたが目が笑っていなかった。私に引かれることを怖がっている。これを見せたことを後悔する覚悟をしている。
雫がこの一か月間かぶっていた仮面。「カースト上位の、明るくて社交的な内田雫」の仮面の下に隠していたものはフォロワー三人の誰にも見せない世界。私はスマホを雫に返して首を振った。
「引かない」
「……ほんとに?」
「こういうのすごいと思う」
本心だった。素人がここまでの精度で戦闘データを分析できるのは、並大抵の観察力と執着ではない。三年間、誰にも評価されず、誰にも共有されず、一人で積み上げてきた記録。それがどういうことか私にはわかる。三年間、一人で戦い続けた人間だから。
「ただ、一個だけ」
「え、何」
「この考察、冬季に出現頻度が減った理由。怪物側の活動パターンじゃなくて、たぶんセイント側の事情だと思う」
「え? なんでわかるの」
しまった。
「……勘。なんとなく」
雫が一瞬だけ目を細めた。でもすぐに表情を戻して「栞の勘、当たってるかもね」と笑って追及はしてこなかった。雫はそういう子だ。踏み込みすぎない。自分が踏み込まれたくないことを知っている子は、人の領域にも踏み込まない。
教室に西日が差していた。机の上のスマホの画面が光って、フォロワー三人の鍵アカウントが金色に染まった。
◇
帰宅後。ベッドの上でスマホをいじっていた。雫に言われて以来、気になっていたことがある。
「矢野くん、SNSで夜空の写真上げてるの知ってる?」。
知らなかったが、聞いた瞬間から見たくてたまらなくなって検索した。
アイコンは三日月の写真。プロフィールには「夜空を撮っています。高1」。フォロワーは二百人ちょっと。フィードを開いた。
夜空の写真が並んでいた。星。月。雲。夕焼けの残照。夜明け前の空。東京の空は明るいから星はあまり写らないはずなのに、晴の写真にはちゃんと星が写っていた。長時間露光で光を集めているのだろう。暗い公園や河川敷から、空に向かってレンズを向けてじっと待って光を捉える。一枚一枚がきれいだった。
私はかつてあの星々の間を飛んでいた。でも飛んでいるときに、空がこんなにきれいだと思ったことはなかった。戦闘中に風景を楽しむ暇はない。晴の写真は、私が見落としていた空の美しさを一枚ずつ教えてくれた。
フォローボタンが目に入った。
迷った。この猫アイコンのアカウントでフォローしたら晴にはわからない。アカウント名から私だと特定するのは難しい。投稿は猫の写真一枚だけ。フォロワーは雫一人。
フォローした。そして一番新しい投稿にいいねを押した。河川敷から撮った半月の写真。月の周りに薄い雲がかかっていて、虹色の光環が出ている。キャプションには「月暈。久しぶりに出た」。
いいね。
心臓がどくんと鳴った。ルーが肩の上から画面を覗いた。
「匿名での情報収集活動か。悪くない」
「情報収集じゃない」
「では何だ」
「……いいなと思ったから、いいねを押しただけ」
「それを情報収集と言う」
「言わない」
ルーと私の辞書はいつまでたっても合わない。
晴の写真を一枚ずつ遡って見た。最初の投稿は中学二年の冬。暗い夜空に一筋の光。ブレた写真。上手くない。でも、それが最初の一枚だった。たぶん晴が空の写真を撮り始めたのは、私を見た夜のあとだ。
スマホを胸に当てた。画面の光が消えた。暗い部屋の中で鼓動が早かった。




