第4話②「嘘の練習」
放課後、帰り道を一人で歩いていた。商店街を抜けて橋を渡って、川沿いの遊歩道を歩く。夕日が川面にオレンジの光を散らしていた。
遠くで何かが光った。西の空の低い位置。ビルの間から一瞬だけ白い閃光。私の目が自動で捕捉した。方角は南西、距離およそ三キロ。光の色と強度から推測される魔力属性は。
足が止まった。ルーが肩の上で同じ方向を見ていた。
「……行かないのか?」
ルーの声は静かだった。
行ってどうする。変身はできない。武器もない。飛べない。戦えない。行ったところで足手まといになるだけだ。後任の結は、あの光の色からして戦っている最中だ。私が行けば結は私を庇わなければならなくなる。それは結の負担を増やすだけだ。
「行っても、何もできない」
自分に言い聞かせるように声に出した。ルーは黙っていた。
光が消えた。戦闘が終わったのか、あるいは場所が移動したのか、どちらにしてももう私の目には追えない。拳を握った。爪が掌に食い込んだ。三ヶ月前まであの光は私だった。
歩き出した。光があった方角を見ないようにして。
◇
夜。
風呂からあがって髪を乾かしている間に、ルーが机の上でノートを広げていた。小さな手でページをめくっている。
「何してるの」
「嘘の練習プログラムを組んでいる」
「……は?」
「栞よ。お前は嘘が下手だ。入学してから三週間、何度ボロを出しかけた? 偵察ノートを見られかけた件、バレーボール破裂の件、文化祭のプレゼンが精密すぎた件」
「多いな……」
「多い。このままでは秘密の維持が困難になる。よって、系統的な訓練が必要だ」
ルーは真剣だった。ノートには小さな文字で訓練メニューが書かれていた。妖精の文字なので人間には読めないが「日常会話における情報管理」「中学時代に関する質問への対応マニュアル」「身体能力の過失的露出の防止策」などの項目が並んでいるらしい。
「まず基本だ。中学時代について聞かれた場合の回答テンプレート」
ルーが指を立てた。
「質問一。『中学の部活は?』の模範回答は?」
「……帰宅部」
「間が長い。〇・五秒以内に返答しろ。間があると嘘に聞こえる」
もう一度。
「中学の部活は?」
「帰宅部」
「よし。では質問二。『中学でどこに住んでたの?』」
「引っ越しが多くて……いろいろ」
「悪くない。ただ、目を逸らすな。嘘をつくときに視線を外すのは典型的なシグナルだ。相手の目を見なくていいから眉間を見ろ。眉間なら目を見ているように見えて、実際には焦点が合っていないから表情に出にくい」
「……細かいね」
「三年間、お前の嘘を横で見てきた。パターンは把握している」
訓練が続いた。
質問三「中学のとき友達いた?」に「あんまり多くなかったかな」。
質問四「なんでメッセンジャーアプリ全然使ってなかったの?」に「スマホ苦手で」。
質問五「その反射神経どこで鍛えたの?」に「小さい頃から運動神経だけは良くて」。
目線の位置。声のトーン。表情。間のタイミング。言葉の選び方。一つずつ回答を磨いていく。
ルーは的確だった。どの嘘が不自然か、どの表現が引っかかりやすいかを瞬時に指摘してくる。三年間、私の隣で私の嘘を——そして自分の嘘を——管理してきた妖精。嘘の専門家。
三十分ほどで基本パターンの練習が終わった。私はベッドに座って、ルーは机の上に立っていた。
三週間前より確実に嘘が上手くなっている。質問されてから回答するまでの間が短くなった。目線が安定して声が揺れなくなった。「普通の藤咲栞」を演じる精度が上がっている。
同時に気づいた。ルーも嘘の教え方が上手くなっている。最初の頃は「情報を秘匿せよ」としか言わなかった。今は「声のトーンを半音下げろ」「『あはは』の後に二秒の間を入れろ」「相手が頷いたら自分も頷け、同調行動は信頼を生む」。具体的で繊細で的確。まるで嘘をつくための教科書を一ページずつ書いているみたいに、二人とも嘘が上手くなっていく。
「……上達が早いな」
「ルーの指導がいいから」
「そうだな。だが」
ルーの小さな目がまっすぐ私を見ていた。
「上手くなるほど、お前の顔から光が消えていくのは気のせいか」
私は何も言えなかった。ルーもしばらく黙っていた。部屋の時計が、秒を刻む音だけが聞こえていた。
「なぜそこまでして、嘘をつく」
答えは、もう決まっていた。ずっと心の中にあった。
「……晴に、今の私を見てほしいから」
言った瞬間、胸が熱くなった。晴に見てほしい。銀色の髪の魔法少女ではなく今の私を。スマホの使い方がわからなくて、友達の作り方がわからなくて、バレーボールで力加減ができなくて、でも普通になりたくてここにいる私を。
「だが栞よ」
声が低かった。ルーがこのトーンで話すのは、作戦の核心に触れるときだけだ。
「魔法少女だった三年間を消した『今の私』は本当にお前なのか」
ルーの言葉が、胸の奥に刺さった。三年間の戦闘では何度も傷を受けた。骨が折れ血を流した。でもこんなふうに痛んだのは初めてだった。
魔法少女だった三年間は毎日が戦いで毎晩が孤独で、怖くて、つらかった。でも世界を守ったのは紛れもなく私だった。その三年間をなかったことにして、中学時代は「帰宅部でした」「引っ越しが多くて」なんて嘘で塗りつぶして、塗りつぶした上に立っている「今の私」は本当に私なのか。
「…………」
答えられなかった。ルーは答えを待たなかった。待っても出てこないことを、三年間の相棒は知っていた。
「寝ろ。明日も早い」
「……うん」
電気を消して暗い部屋の中で、目を開けたまま見えない天井を見ていた。
嘘が上手くなっていき「普通の藤咲栞」が完成されていく。完成したとき私は何になるんだろう。魔法少女でもなく嘘でできた「普通の女子高生」でもない。どこにも属さない、何者でもない、空っぽの——。
考えるのをやめた。
今日は文化祭の企画で雫に助けてもらった。初めて「助けられる」経験をした。嬉しかった。あれは嘘じゃない。嘘の中にも本当はある。その本当を手放さなければ、たぶん大丈夫。たぶん。
目を閉じた。肩の上にはもうルーの重みはなかった。机の上の定位置に戻ったのだろう。小さな寝息が聞こえる。ルーは嘘の教え方が上手くなっている自分自身のことを、どう思っているのだろう。
聞けなかった。聞いたら、もう一つ答えの出ない問いが増えてしまうから。春の夜はまだ少し肌寒かった。




