第5話②「秘密と、秘密と、秘密」
週末の夜。
雫とカラオケに行く予定が流れた。雫が家族の用事で行けなくなったのだ。メッセンジャーアプリで「ごめん! 来週リスケで!」とスタンプ三連発が来た。びっくりしている猫のスタンプ。泣いてる猫のスタンプ。土下座してる猫のスタンプ。私は「大丈夫」と返した。スタンプはまだ一つしか持っていないので、あの黄色い猫を送った。
予定がなくなった。
ルーが「夜間偵察でもするか」と言った。偵察というか散歩だけど、ルーに「散歩」という概念はない。外に出る行為はすべて「偵察」に分類される。
近所の公園に行った。大きめの公園で、木が多くて夜は暗い。街灯が等間隔に並んでいるが、木の陰になる場所はかなり暗い。こういう場所は得意だ。三年間、夜の街が私の職場だったから。
公園の遊歩道を歩いていると茂みが揺れた。重心を落とし右足を半歩引き、左手を前に出す。防御姿勢。視線は揺れの発生源に固定。ルーが肩の上で身構えた。
「敵性体反応」
茂みから飛び出してきたのはタヌキだった。丸っこい体。黒い目。ふさふさの尻尾。夜の公園をてとてとと横切って、反対側の茂みに消えていった。私は防御姿勢のまま固まっていた。
「タヌキだ」
「……わかってる」
「前回は猫、今回はタヌキ。次は何が来るか賭けるか?」
「賭けない」
「私はハクビシンに賭ける」
「賭けないって言ってるでしょ」
立ち上がって膝についた土を払った。公園のベンチに座って深呼吸した。心臓がまだ速い。タヌキ相手に戦闘態勢を取った自分が恥ずかしい。
三年間のクセが抜けない。暗がりで物音がすると、怪物が出てくると思って体が勝手に反応する。ここは戦場じゃないのに。
公園の丘の上に人影が見えた。三脚を立ててカメラを空に向けている。晴だった。偶然じゃない。晴がここで夜空を撮っていることは何となく推測していた。でもそれを言うわけにはいかないから、散歩のついでに来たという体で。
「あれ、晴?」
「え——藤咲? 何でこんなとこに?」
「散歩。近所だから」
嘘ではない。近所ではある。徒歩二十五分かかるけど。
晴は三脚を立てて、カメラを空に向けていた。液晶画面には設定数値が並んでいて長時間露光の準備をしているらしかった。
「座ってく?」
晴が丘の上のベンチを指した。並んで座った。
夜風が吹いた。五月の夜は四月よりあたたかい。虫の声が遠くに聞こえる。晴がカメラの設定をいじりながら言った。
「消えちゃうものを残したいんだ」
「……消えちゃうもの?」
「夜空って毎日違うんだよ。同じ場所から同じ時間に撮っても、星の位置も月の角度も全部違う。一回見逃したら、もう二度と同じ空は見られない。だから」
言いかけて、晴の目が空の一点に釘付けになった。
流れ星。一筋の白い光が、天頂から北西に向かって走った。ほんの一秒。晴が三脚に飛びついた。カメラを掴んで空に向け、シャッターを切った。もう流れ星は消えているのにまだ切っていた。
「……聞いてた?」
「ごめん! 流れ星!」
晴は本気で申し訳なさそうだったが、目がきらきらしていた。カメラの液晶を確認して「映ってない……映ってないか……」と呟いている。会話は完全に中断された。
またこれだ。夢中になると周りが見えなくなる。屋上の夕焼けのときと同じ。この人は、目の前の一瞬に全部を持っていかれるタイプだ。
ルーが耳元で囁いた。
「記録済みだ。行動パターンの再確認。矢野晴は特定の視覚刺激に対して他のすべての情報処理を放棄する傾向がある」
「それ、悪口になってない?」
「客観的事実だ」
まあ、客観的事実ではある。
晴がカメラを置いてため息をついた。
「映ってなかった」。
残念そうだったが、すぐに切り替えて空を見上げた。
晴が話し始めた。
「あの夜のこと、もうちょっと話していい?」
「あの夜?」
「中一のとき。バケモノに襲われた夜」
私の背筋が伸びた。ルーが肩の上で息を止めた。
「……うん」
「怖かった。マジで死ぬかと思った」
晴の声が震えていた。さっきまで流れ星に興奮していた声とは、まるで別人だった。低くて固くて、喉の奥から絞り出すような声。
「塾の帰り道だった。暗い道で急に地面が揺れて。振り返ったら、いた。でかくて黒くて、目がいっぱいあって」
覚えている。目が八つある三メートル級の中型怪物。分類名は「クローラー」。あの頃の私でも苦戦する相手だった。
「足がすくんで動けなかった。声も出なかった。手が震えて頭の中が真っ白になった。あ、死ぬんだって思った」
晴の手が膝の上で握られているのが、月明かりで見えた。
「そしたら上から銀色の光が降りてきた。女の子が俺を抱えてすごい速さで飛んだ。街が全部下に見えた」
あのとき私は上空から急降下して、晴を抱えて離脱した。怪物は後から来た支援部隊——凛が片付けた。
「助かった。生きてた。でも」
晴が空を見た。
「あの子の顔、ちゃんと見られなかった。速すぎて。覚えてるのは銀色の髪と、空を飛ぶ感覚と、あの子が俺を抱えてる腕の力。すごく強い力だったけど震えてた」
息が止まった。私の腕が震えていたことを覚えている。
あの夜。中学一年の冬。あの怪物はきつかった。私も怖かった。震えていた。でも民間人を——晴を、落とすわけにはいかなかった。
「藤咲? 大丈夫? 顔色悪い」
「大丈夫。続けて」
「……あの夜の後から、俺、夜空の写真を撮り始めた。最初は空を飛ぶ女の子をカメラで探してた。ずっと空を撮ってたら見つけられるかもって」
銀色の光は消え変身能力は返還した。あの空にはもういないから、晴がどれだけ空を撮ってももう映らない。
「でもさ、撮ってるうちに空がきれいだって気づいたんだ。あの夜の空もきっときれいだった。俺は怖くて見られなかったけど」
晴が小さく笑った。
「だから、怖い夜をきれいに撮りたい。上書きしたいんだ。怖い記憶をきれいなものに」
上書き。
私も同じことをしようとしているのだろうか。三年間の戦闘の記憶を「普通の高校生活」で上書きしようとしている。でも、それは上書きであって消去ではない。下にはまだ元の記憶がある。
晴がカメラのストラップを指でなぞりながら、空を見ていた。その横顔が月明かりに照らされていた。私はその横顔を見ていた。
◇
帰り道、公園を出て晴と並んで夜道を歩いた。住宅地の裏道なので街灯の間隔が広くなって、人通りはほとんどない。暗い道に差しかかったとき、晴がすっと前に出た。
「俺が前行くよ。暗いし」
自然な動作だった。意識してやったというより、体が動いたという感じ。
私は、少し引っかかった。暗い道が怖いのは晴のほうだ。さっき、あの夜の話をしたとき声が震えていた。晴は暗い場所がまだ怖いのだ。
でも晴は私の前に出た。「暗いし」と言って私を守ろうとした。三年間、夜の街を一人で戦ってきた私を。晴は知らないのだから仕方ない。晴にとって私は「普通の女子高生」で、暗い夜道は怖いもので、男子が前を歩くのが「普通」なのだ。
少しだけ引っかかった。何が引っかかっているのか、うまく言葉にできない。優しさだとは思う。守ろうとしてくれているのだとは思う。でも。
「……ありがとう」
言って、後ろに回った。晴の背中を見ながら歩いた。
晴の広い背中。私より少し背が高い。でも私のほうが圧倒的に強い。この暗い道に何が潜んでいても、私のほうが速く反応できるし、速く動けるし、相手を制圧できる。それは変身できなくなった今でも変わらない。
晴の背中を見ながら思った。守られるのはこういう気持ちになるものなのか。嬉しいような。もどかしいような。ちょっとだけ悔しいような。
ルーが耳元で囁いた。
「矢野晴はお前を『守るべき弱い存在』として認識している。これは」
「わかってる。今はいい」
「しかし」
「今は、いいの」
今はいい。晴がそう思っているなら今はそれでいい。今の私は「普通の藤咲栞」だ。暗い道が怖い女の子でいい。
分かれ道で別れた。
「じゃあな。気をつけて」
「うん。おやすみ」
手を振った。晴の背中が街灯の光の中に消えていった。
暗い道を一人で歩いたが怖くなかった。当たり前だ。こんな暗闇、あの頃に比べたら昼間みたいなものだ。でも晴の「気をつけて」が胸に残っていた。あたたかくて、少しだけ苦しかった。
◇
家に着いた。玄関の鍵を開けて靴を脱ぎ、部屋に入って電気をつけた。
ルーが机の上に降り立った。
「報告事項が一つ」
「何」
「本日の偵察において、矢野晴の行動パターンをさらに分析した結果」
「パターン分析はいいってば」
「違う。お前の行動についてだ」
ルーが私を見上げた。小さな顔に真剣な表情が浮かんでいた。
「栞よ。お前はなぜ、あの公園に行った」
沈黙。
「……散歩」
「嘘だな」
「近所だし」
「徒歩二十五分の場所は近所ではない」
「日本語的にはぎりぎり近所だと」
「栞」
ルーの声が、静かに私の言い訳を遮った。
「矢野晴があの公園で撮影していることを特定し、偶然を装って接近した。そうだろう」
「…………はい」
「なぜだ」
なぜだろう。晴の写真をもっと見たかった。違う。晴の隣にいたかった。晴が空を撮っている横で同じ空を見ていたかった。
「……写真部の夜間撮影、私も参加していい?」
言ってしまった。ルーが目を丸くした。手のひらサイズの妖精が、驚いた顔をすると目が顔の三分の一くらいを占める。
「……それは、写真に興味があるからか。それとも」
「どっちだと思う」
「どちらが本当の動機だ?」
答えなくても自分の頬が熱いことは知っていた。ルーは小さくため息をついた。呆れたようでもあり、何か別の感情が混じっているようでもあった。
「……了解した。ただし、夜間撮影は暗所での行動を伴う。お前の異常な暗視能力と身体制御が露呈するリスクがある。行動指針を策定する必要が」
「わかった。ルーに任せる」
「任されたくないが」
ルーは文句を言いながらも、机の上でノートを広げ始めた。小さなペンで何かを書いている。「夜間撮影時における身体能力の制限プロトコル」とでも書いているのだろう。
私はベッドに倒れ込んで天井を見た。
晴の隣にいたい。その気持ちがもう、隠せないくらい大きくなっている。でも晴の隣にいるために私は嘘をついている。銀色の自分を隠して、三年間を消して「普通の藤咲栞」として晴の隣に立っている。晴が探しているのは銀色の少女だ。晴のことを好きになりかけているのは私だ。その二つは同じ人間なのに。嘘と本当の境界がわからなくなっていく。
目を閉じた。
瞼の裏に晴の写真が浮かんだ。月暈の写真。流れ星を追いかける横顔。「消えちゃうものを残したい」と言った声。
あなたが残したいと思っているその空に私はいた、と言えたらどんなに楽だろう。でも言ったら「普通の藤咲栞」は消えてしまう。秘密の上に秘密を重ねて、嘘の上に嘘を重ねて、その上に「好き」を積もうとしている。その「好き」は本物なのだろうか。わからないけど、胸は苦しい。苦しいのだけは嘘じゃない。




