第6話「きっと届いてると思う」
文化祭まで一か月を切った。
実行委員になった私は、毎日放課後に準備作業をしていた。暗幕の発注、通路レイアウトの確定、BGM音源の選定、お化け役の配役、やることは山ほどあった。問題は私がやりすぎたことだ。
設計図を描いた。教室の見取り図。縮尺は五十分の一。通路の幅は七十センチ。曲がり角の角度は九十二度(直角より二度開けることで、曲がった先が一瞬だけ見えそうで見えない恐怖を生む)。天井から吊るす布の長さと垂れ下がりの計算。お化け役の出現タイミングを秒単位で設定したタイムチャート。来場者の平均歩行速度から算出したグループあたりの所要時間。想定処理人数は一時間あたり四十八人。我ながら完璧だと思った。
A3用紙に製図用のペンで描き起こした設計図を教室の黒板に貼り出したとき、クラスメイトたちの顔がちょっと変だった。
「……すごいね」
「これ藤咲が一人で描いたの?」
「建築学科の課題みたい」
褒められている声のトーンが「すごいね(引いてる)」のほうだった。雫が横から救いの手を差し伸べてくれた。
「栞って凝り性なんだよね。前にプレゼンしたときもすごかったじゃん。こういうの得意な子がいると助かるよね!」
雫のフォローで空気がほぐれた。「確かに」「ここまでやってくれるなら楽だわ」という声が上がって、私の設計図は正式に採用された。
ほっとした。でも、一人だけ別の目で私の設計図を見ている人がいたことに、私はまだ気づいていなかった。
◇
放課後の図書室。
佐伯弦は閲覧席の端に座っていた。目の前に広げているのはスマホではなくノートだった。弦はスマホよりノートのほうが思考を整理しやすい。晴に「おっさんくさい」と言われるが知ったことではない。ノートの見開きのページに、いくつかの単語が書かれていた。
藤咲栞。
その名前の下に、短い箇条書き。
——中学三年間、音信不通(晴の証言)
——転入ではなく通常入学。中学は市内の公立校
——バレーボールでボールを破裂させる身体能力
——文化祭の設計図。縮尺が正確で、動線設計が合理的。素人にできる仕事ではない
弦は昼休みに三組の教室を覗いた。文化祭の設計図が黒板に貼ってあった。晴に会いに来たふりをしてちらっと見ただけだが、すぐに異常がわかった。
弦の親は建設会社に勤めていて実家には施工図面や現場の資料が転がっている。見慣れた目には、あの設計図が素人の手遊びではないことが一目でわかった。縮尺の取り方、寸法の記入ルール、動線の設計思想。高校一年生がどこであんなスキルを身につけた。弦はペンを走らせた。
「藤咲栞はどこでこういうスキルを身につけたのか?」
弦は図書室のパソコンに移動して新聞データベースにアクセスした。桜森高校の図書室は、過去十年分の全国紙のデータベースが使える。キーワードで検索した。
「原因不明 建物損壊」「夜間 爪痕」「道路陥没 原因不明」
ヒットは多かった。過去三年間に、都内近郊で発生した原因不明の破壊事件。建物の倒壊、道路の陥没、公園の大木の倒壊、ガードレールの変形。警察の調査では「原因不明」「調査中」とされたまま、続報のない事件が数十件。弦はそれらの事件の発生場所と日時をノートに書き出した。図書室の閉館時間が近づいていた。
一時間半かかって書き出した地名を眺めた。藤咲栞の中学の学区と、発生場所の分布に重なる部分があるようなないような、はっきりとは言えないが完全に無関係とも言い切れない。
弦はノートを閉じた。閉じる前にページの端の前回のメモに目が行った。藤咲栞の名前の横に引いた線、書きかけて消した跡。あのとき何を書こうとしたのか自分でも覚えていないが、跡は残っている。消しゴムで消してもペンの圧で紙に溝がついている。
なぜこいつだけ晴が。たぶんそう書こうとした。弦は小さく舌打ちした。それは今どうでもいい。問題は藤咲栞の経歴の不自然さであって、晴がどうとかいう話ではない。感情と分析を混ぜるな。弦は自分にそう言い聞かせた。じゃあなぜ藤咲栞の経歴を調べている?
弦は立ち上がってノートを鞄に突っ込み、図書室を出た。廊下で晴とすれ違った。
「おー弦。図書室? 珍しいな」
「……本を返しに来ただけだ」
「へえ。何の本?」
「関係ない」
弦は足早に通り過ぎた。晴が後ろで「なんだよ」と呟いたのが聞こえた。
藤咲栞は何かを隠している。証拠はまだないがそれは確信に近かった。あの身体能力、あの設計図、あの三年間の空白。何か大きな秘密があると直感が言っている。その秘密のほうに目を向けていれば、自分の中のもう一つの感情を見なくて済む。弦はそのことに、半分気づいていて半分気づかないふりをしていた。
◇
金曜日の放課後。文化祭の準備が早めに終わった日。
私と雫は教室に残って机を元の配置に戻していた。他の委員はもう帰った。窓の外には夕日が沈みかけていて、教室がオレンジ色に染まっていた。机を運びながら雫が言った。
「ねえ栞」
「ん?」
「魔法少女って信じる?」
手が滑って机の角を指にぶつけた。
「……どうしたの急に」
声を平静に保った。ルーの訓練が活きている。間は〇・五秒以内。視線は雫の眉間。声のトーンは半音下げない。いや、机に指をぶつけたから多少不自然でも許されるはずだ。
「この前見せた鍵アカウントのことなんだけどさ。栞は引かなかったでしょ。それが嬉しくてもうちょっと話したいなって」
雫は机の上にちょこんと座って、足をぶらぶらさせて窓の外を見ながら話し始めた。
「中学のとき実際に見たことがあるの。魔法少女」
呼吸を止めた。止めたことを悟られないようにゆっくりと吐いた。ルーが教えてくれた平静を装うための呼吸法。
「夜。家の近くの公園ですごい音がして、窓から覗いたら光ってた。青い光、すごくきれいだった」
雫の声が変わった。いつもの明るくて社交的で、カースト上位の、ふわふわした雫ではなかった。静かで、遠いところを見ているような声。
「光の中に銀色の髪の女の子がいた。私より少し年上くらい。制服みたいなの着ててでっかい何かと戦ってた。怖かった」
雫が私を見た。
「すごくきれいだったけどすごく孤独に見えた」
孤独。その言葉が、胸の奥の、ずっと触れないようにしていた場所に当たった。
あの三年間。毎晩一人で空を飛んでいた。ルーは肩の上にいたけどそれでも孤独だった。それをたった一人の観客として雫が窓から見ていた。自分でも気づかないうちに私は目を伏せた。
「……きっと、届いてると思う」
自分の声だと思えないくらい小さくてかすれた声。
「届いてる?」
「その、孤独に見えたかもしれないけど、見てくれてた人がいるって。きっとその人に届いてると思う」
何を言っているのだろう、私は。嘘のプロトコルを完全に逸脱している。こんなことを言ったらバレるかもしれない。ルーが激怒する。でも言わずにいられなかった。
雫が「孤独に見えた」と言った私のことをフォロワー三人の鍵アカウントで、三年間、痕跡を追い続けてくれた。嬉しいなんて言葉では足りないくらい、胸が熱かった。
雫は少し不思議そうな顔をした。そしてわずかに私の横顔に目を止めた。何を見たのだろう。何を思ったのだろう。私にはわからなかった。雫はすぐに視線を外して、いつもの笑顔に戻った。
「そうだよね。きっと届いてる。ありがと、栞」
「……うん」
机を運ぶ作業を再開した。教室はオレンジ色から紫色に変わりつつあった。窓の外の空が暮れていく。雫が何かを感じたことはわかった。でも雫は追及しなかった。いつもそうだ。雫は踏み込みすぎない。自分の秘密を持っている人は、他人の秘密の匂いに敏感で、でも、そこに触れることの重さも知っている。
教室の片づけが終わった。鞄を取って、二人で廊下に出た。
◇
帰り道。校門を出たところで雫と別れ、一人になった途端にルーが肩の上から声を上げた。
「栞よ。さきほどの発言は危険だった」
「……わかってる」
「『届いてる』という発言は、スカイブルーセイントの当事者であることを強く示唆する。雫はスカイブルーセイントの考察を三年間続けている人間だ。わずかな不自然さも見逃さない可能性が高い」
「わかってるよ」
「わかっているなら、なぜ言った」
足が止まった。夕暮れの通学路、人はまばらだった。風が吹いて、街路樹の葉がさわさわと鳴った。
「……嬉しかったんだよ」
ルーが黙った。
「三年間、誰にも見られてないと思ってた。毎晩一人で戦って、誰にも知られないまま終わるんだと思ってた。でも雫は窓から一人で見てくれてた」
声が震えた。最近よく震える。戦闘中は一度も震えなかったのに。
「それが嬉しくてつい。ごめん」
ルーは長い間黙っていた。やがて小さな声で言った。
「……私も見ていた。三年間。ずっと」
「ルーは相棒でしょ。当たり前じゃん」
「当たり前ではない。しかし、まあ。……いい。以後気をつけろ」
ルーの声が、いつもよりも少しだけ柔らかかった。怒っているのだと思ったけどそうじゃなかった。ルーも雫が見ていてくれたことが嬉しかったのかもしれない。
歩き出した。夕焼けが消えかけ空に最初の星が一つ。
◇
帰宅してスマホを開くと晴のSNSに新しい投稿があった。屋上から撮った夕焼けの写真。オレンジと紫のグラデーション。キャプションには「放課後の空。今日のは特にきれいだった」。
いいねを押した。晴はこのアカウントが誰だか知らない。毎回いいねをしてくる猫アイコンのフォロワーを、たぶん不思議に思っているだろう。あるいは気にも留めていないかもしれない。フォロワー二百人もいれば、猫アイコンの一つくらい埋もれる。
でも私は晴の写真を見るたびにいいねを押す。それが今の私にできる「好き」の表現だから。名前を隠して顔を隠して、猫のアイコンの後ろから好き。今はそれしかできない。
スマホを置いて天井を見た。
私は魔法少女だった過去を。雫はオタクの自分を。晴はあの夜のトラウマと探し続けている銀色の少女への想いを、凛先輩は「普通にできている」ふりの下にある何かを。設計図を見ていたあの男子——佐伯弦。彼も何かを隠しているのかもしれない。全員が何かを隠して、笑って「普通」を演じている。それが救いなのか、それとももっと切ないことなのかわからなかった。
ルーが机の上で帰還申請の書類を広げていた。小さな手でページをめくっていて表情は見えない。ルーも、何か隠しているのだろうか。春が終わってもうすぐ夏が来る。




