第2話②「クラスの権力構造を把握せよ」
放課後、二年三組の教室で佐伯弦は窓際の席で頬杖をついて、隣の席の矢野晴を見ていた。
晴はスマホの画面を見ていた。さっきから何度も同じ画面を開いては閉じ、開いては閉じている。弦にはそれが何のアプリかまで見えている。メッセンジャーアプリ。そして相手は——まあ、見なくてもわかる。
「お前さ」
弦が低く素っ気なく声をかけると晴が顔を上げた。
「あの藤咲って子のこと、気にしてるだろ」
「え? いや、まあ幼馴染だから」
弦は幼馴染という言葉を口の中で転がした。
「中学の間、ほとんど連絡よこさなかったやつだろ?」
弦は晴のことをよく知っている。中学三年間、同じクラスだった。晴が夜空の写真を撮り始めたのも知っている。「空を飛ぶ女の子」の話を聞かされたのも一度や二度ではない。晴がたまに小学校の幼馴染の話をしていたのも覚えている。「栞」という名前が出るたび、晴の声が少しだけ柔らかくなることも。でも、その「栞」は中学の三年間、ほとんど音信不通だったはずだ。
「久しぶりに会っただけだって。嬉しくて、つい」
「ふーん」
弦は窓の外を見た。校庭を横切る生徒たちの影が夕日で長く伸びている。
別に面白くないわけじゃない。いや。面白くないのかもしれない。ただ、晴の視線がスマホに吸い寄せられるたびに、胸のどこかがちくちくした。弦は晴の親友だ。中学一年のとき、クラスの空気が読めなくて浮いていた弦に、晴が何の屈託もなく「隣いい?」と座ってきたのが始まりだった。弦は口が悪いし愛想もない。でも晴は気にしなかった。気にしないことの良さを弦は晴から学んだ。
その晴の「隣」に、三年間いなかった女がひょっこり現れた。晴に幼馴染がいたって、再会して嬉しそうにしてたって別にいいのだ。。弦は自分のノートの端に無意識にペンを走らせていた。
藤咲栞。
その名前の横に、短い線を引きかけて消した。消した跡が残った。
「弦? どうした?」
「何でもない」
弦は立ち上がって鞄を引っ掴み教室を出た。廊下を歩きながら弦は思った。
なんで俺が気にしてんだ。あほらし。
でも足は速かった。何から逃げているのか自分でもわからないまま。
◇
放課後。帰り道。
私は一人で歩いていた。雫たちとは校門で別れた。「一緒に帰ろう」と誘われたけど方向が違った。嘘じゃない。でも正直、もし同じ方向だったとしても一人で帰りたい気持ちがあった。
一日中「普通」を演じると、脳が消耗する。戦闘のほうがまだシンプルだった。敵が来る。倒す。終わり。人間関係には「倒す」がない。正解がない。ずっと続く。
道の途中で、野良猫に遭遇した。朝のトラ猫とは別の猫。灰色のハチワレ。道端の植え込みの影にうずくまっている。猫がルーを見た。正確にはルーの方向を見た。普通の人間にはルーは見えない。でも、「魔力に触れたことがある生物」には見える。犬や猫は微量の残留魔力に反応するのだ。
猫がにゃあと鳴いた。ルーに向かって。ルーが肩の上で身構えた。
「敵性体、いや猫だ」
「わかってるよ」
猫がすり寄ってきた。ルーの匂いを嗅ごうとしている。ルーは肩の上で後ずさった。手のひらサイズの妖精が、猫に追い詰められている。
「し、栞よ、この生物を排除せよ」
「排除って。猫だよ」
「わかっている! わかっているが近い! 顔が近い!」
猫がルーに顔を寄せた。ルーが私の髪の中に逃げ込んだ。猫が不思議そうに首を傾げた。笑ってしまった。声を出して。
通りかかった人が振り返った。一人で猫を見ながら笑っている女子高生。端的に言って不審者だ。
猫をなでて別れた。帰り道の続き。住宅地を抜けて駅前の通りに出た。チェーン店の看板が並んでいる。牛丼屋、ラーメン屋、ファストフード。
足が止まった。
牛丼屋。オレンジ色の看板。自動ドアの向こうにカウンター席が見える。三年間の戦闘生活で、私はこの店の常連だった。任務の合間に、一人で手早く食事を済ませる。カウンター席に座って並盛を頼んで、五分で食べてまた戦場に戻る。効率的で安くて、誰とも話さなくていい。完璧な補給ポイントだった。
習慣で、入ってしまった。
カウンター席。端っこ。壁際。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか」
「はい」
並盛と味噌汁。食券を買ってカウンターに置く。三年間で何百回と繰り返した動作。
牛丼が来た。割り箸を割る。ルーが肩の上で言った。
「普通の女子高生は、一人で牛丼を食べるのか?」
箸が止まった。周りを見た。
カウンター席に座っているのは、サラリーマンのおじさんが二人と、作業着のお兄さんが一人。同年代の女子はいない。テーブル席のほうを見た。カップルが一組。大学生くらいの男子グループが一つ。やっぱり、高校生の女子はいない。
「……わからない」
「何がだ」
「普通の女子高生が一人で牛丼を食べるかどうか。わからない」
ルーは答えなかった。
牛丼を食べた。並盛。いつもと同じ味。紅生姜を少し多めに載せるのが好きだ。七味はかけない。これも三年間変わらない。
食べ終わって店を出た。
夜の街。一人。さっきまで教室で「推し」の話をして笑っていたのが、遠い昔のことみたいだった。あの輪の中にいるときの私と、一人で牛丼を食べている私は同じ人間なのだろうか。同じだ。どっちも私だ。そう思おうとしてうまくいかなかった。
◇
帰宅。
部屋のドアを開けて電気をつける。鞄を下ろして靴を脱ぐ。部屋着に着替えてベッドに座る。
ルーが机の上に降り立った。小さな足でちょこちょこと歩いて、スマホの横に座った。
「今日は何を学んだ?」
いつもの質問。任務時代の習慣だ。毎晩、その日の戦闘を振り返って改善点を洗い出す。ルーはそれを「デブリーフィング」と呼んでいた。引退してからもこの習慣だけは続いている。私は天井を見た。
「……普通の人は、三年分の空白をどう埋めるんだろう」
「空白?」
「みんな、中学三年間の思い出がある。友達、部活、修学旅行、好きな子。私にあるのは怪物の倒し方と空中戦の軌道計算と、ルーとの作戦会議だけ」
「……それは空白ではないだろう」
「でも、誰にも話せないよ」
ルーが黙った。私も黙った。静かな部屋に時計の音だけが響いていた。何となく音が欲しくてテレビをつけた。。天気予報が終わってニュース番組に切り替わった。
「続いてのニュースです。○○市の公園で大木が倒壊し、遊具が損壊する事故がありました。原因は調査中ですが」
公園と倒れた大木、根こそぎ引き抜かれたように土がめくれ上がっている映像が流れた。。砂場の遊具がひしゃげ、周囲にロープが張られて警察官が立っている。
画面の隅に一瞬だけ、ほんの一フレームだけ緑色の光が映ったのを、私の目は見逃さなかった。三年間の戦闘で鍛え抜かれた動体視力が、テレビ映像の中の「異常」を自動的に捕捉した。
後任の子、グリーンアローが戦っている。。中学一年生の奥村結。
ルーが言った。
「……若いな」
声のトーンがいつもと違った。ルーの声には、いつも事務的な硬さがある。報告と分析と提言。それがルーの言語だ。でも今の一言には何かが混じっていた。心配だろうか。それとも。
私は拳を握った。リモコンを持っている手が白くなるほど強く。あの子は一人で戦っている。私がいた場所に一人で立っている。
助けに行きたいと思った。体が覚えている。飛んで、降りて、戦って、守る。それが三年間の私のすべてだった。でも、もう飛べない。
変身能力は引退時に返還した。空を飛ぶ力も、怪物を倒す力ももうない。残っているのは、反射神経と空間認識とボールを破裂させるくらいの握力。
テレビを消した。画面が暗くなって、普通の女の子の自分の顔が映った。
ルーが言った。
「寝るか」
「……うん」
歯を磨き電気を消して布団に入った。目を閉じても、緑色の光が瞼の裏にちらついた。
あの子は大丈夫。大丈夫だと信じるしかない。だって私は、もうただの藤咲栞なのだから。ただの藤咲栞が、普通の女子高生のふりをして、友達を作って、メッセンジャーアプリのスタンプを覚えて、SNSに猫の写真を上げて、一人で牛丼を食べて、帰って寝る。それが今の私の日常だ。
嘘でできた日常。でも、嘘は毎日つき続ければいつか本当になるのだろうか。わからないまま眠りに落ちた。




