第2話①「クラスの権力構造を把握せよ」
高校生活、二週目。私はこの七日間で一つの結論に到達した。「普通」が何なのかまったくわからない。
わからないこと自体はわかっている。問題は「何がわからないのかがわからない」という、情報戦における最悪の状態にあるということだ。敵の戦力がわからないなら偵察すればいい。地形がわからないなら地図を作ればいい。でも「普通の女子高生の行動パターン」は、偵察しても地図にしても正解があるのかすら怪しい。
だから私は、得意なことから始めることにした。状況分析。ノートを一冊潰してクラスの勢力図を作った。机の上に広げたそれをルーが覗き込む。
「ほう」
我ながら力作だった。クラス三十二名の名前を配置し、交友関係を矢印で結び、矢印の太さで親密度を三段階に分類した。点線は「接触はあるが関係性が不明」、二重線は「強固な同盟関係」、波線は「潜在的な敵対関係の可能性あり」。右上に凡例、左下には補足欄、内田雫の名前の横には赤字で「※情報源として有用。友好関係を維持せよ」と書いてある。
「素晴らしい分析だ」
ルーが真顔で言った。
「でしょう?」
「敵対勢力の浸透ルートが一目でわかる」
「……いや、敵対勢力はいないんだけど」
「では何のための図だ」
「……友達を作るため?」
沈黙。ルーと私は、ノートの上の矢印と記号の群れを見下ろした。友達を作るための資料としては明らかに方向性がおかしい。わかっているのだが他にやり方を知らないのだ。三年間、私が分析してきたのは怪物の行動パターンと都市の破壊ランクだけなので。
「……まあいい。情報は力だ」
「そうだね。情報は力」
二人して頷いた。完全に方向を間違えている自覚がうっすらあった。
◇
昼休み。
教室で昼食をとる。問題は席の選択だった。私はまず窓際の後方を確保しようとした。背後を壁に預けられて出入り口が視認できて、窓からの脱出ルートも確保できる完璧なポジション。ルーが肩の上で囁いた。
「それは塹壕の選び方だ」
「……え?」
「教室での着席位置と防御陣地の選定は異なる基準で行うべきだ。少なくとも、窓からの脱出ルートは考慮に入れなくていい」
なるほど。窓からの脱出ルートは不要。いや、メモすることじゃない。普通の人はそんなことメモしない。たぶん。
結局、雫の近くの席に座った。雫は三人くらいの女子と固まっていて、その輪に私を手招きしてくれた。
「栞、こっちこっち」
手招きされるという経験が新鮮で嬉しかった。。三年間、私に向かって手を振る存在は「攻撃目標をこちらに誘導しろ」という意味でルーが手を振るケースしかなかったので。
女子の輪に入りお弁当を広げる。私の弁当は自分で作った白米と卵焼きと冷凍のからあげ。見た目は質素だが、タンパク質と炭水化物のバランスは完璧に計算してある。三年間の戦闘生活で叩き込まれた栄養管理だ。
「栞のお弁当、シンプルだねー」
「……戦闘——あ、いや。体力つけたくて」
危なかった。
話題が飛び交う。ドラマの話。芸能人の話。コスメの話。流行っているショート動画の話。情報量が多い。処理が追いつかない。怪物が三体同時に出現したときより脳のリソースを消費している。雫が言った。
「で、推しが最新のライブでさ、もう泣いちゃって」
「推し」
私の口が勝手に反応した。
「推しって、守護対象のこと?」
場が一瞬静まった。
「……守護対象?」
「その、命を懸けて守るべき存在というか」
雫が吹き出した。
「ちょ、栞、重い重い! 推しはもっとこう、応援する感じ! 推しに命懸けるのは比喩としてはあるけど!」
「比喩なの?」
「比喩だよ!?」
周りの女子も笑っている。「藤咲さんって独特だよね」。笑われているのだと思うが悪意は感じない。三年間の戦闘で培った「敵意の有無」を判別するセンサーが、ここには脅威がないと告げている。ルーが耳元で「推し=応援対象。修正完了」と囁いた。遅い。
◇
五時間目の英語のあと、雫が私の席に来た。
「ねえ栞、SNSのアカウント教えて」
「SNS」
「SNS、やってるでしょ?」
「……やってない」
雫の表情が凍った。比喩ではなく、本当に時間が止まったような顔をした。
「え、マジで?」
「マジで」
「嘘でしょ? 今どきSNSやってない高校生いる?」
ここにいる。三年間、SNSをやる余裕がなかった元魔法少女が一名。怪物と戦っている最中にSNSのストーリーを上げるわけにはいかないのだ。「渋谷でナイトバトル中☆」とか投稿してたら秘密もへったくれもない。
ルーが耳元で緊急提言を行った。
「アカウントを作成せよ。情報戦において通信インフラの未整備は致命的だ」
正しいのだが、言い方。
放課後、スマホと格闘してSNSのアカウントを作った。問題が三つあった。
一つ目。ユーザーネームが決まらない。
「shiori_matsumoto でいいんじゃないの」
「本名の露出は避けろ。顔写真もだ」
「……じゃあ何にするの」
「記号と数字を組み合わせた無機質な文字列が望ましい」
「それ絶対フォローされないやつ」
結局「shio_daily」にした。「shiori」の「shio」と「daily(日常)」を組み合わせた。ルーは「暗号性が低い」と不満そうだったが、そもそもSNSのアカウント名に暗号性は求められていない。
二つ目。アイコンが決まらない。
自撮りを設定するのが普通らしい。雫のアイコンは可愛く加工された自撮りだった。でもルーが「顔写真は避けろ」と言う。過去の戦闘映像との照合リスクがあるらしい。……ないと思うけど。
通学路の途中で野良猫を見つけた。茶色いトラ猫が塀の上で丸まって日向ぼっこをしている。スマホを向けたらこっちを向いた。撮れた。
「これでいいか」
「猫か。……まあ、悪くない。猫の顔なら身元特定のリスクは最小限だ」
猫のアイコンに設定した。
三つ目。投稿するものが何もない。
アカウントを作った。アイコンを設定した。プロフィールに「高1です」と書いた。雫をフォローした。そこまでやって、投稿ゼロであることに気づいた。
他の子のアカウントを見た。友達との写真。食べ物の写真。出かけた場所の写真。日常の切り取り。
私の日常は、二週間前まで「怪物との戦闘」だった。その前は「怪物との戦闘」だった。さらにその前も「怪物との戦闘」だった。投稿できるわけがない。空っぽのフィードを見つめた。ルーが言った。
「猫の写真があるだろう」
「……さっきの?」
「他に候補がない」
フィルターの使い方がわからなかったので、そのまま猫の写真を投稿した。キャプションに何を書けばいいかわからなかったので「猫」とだけ書いた。一時間経って、いいねが一つついた。雫だった。まあ、一歩ずつだ。
◇
授業中、事件が起きた。
五時間目の世界史。窓際の席で春の陽気にさらされていると先生の声が遠くなっていく。三年間の戦闘で染みついた仮眠スキルが、最悪のタイミングで発動した。前線では十五秒でも眠れるときに眠る。瞼を閉じた瞬間に意識を落として、危険を察知した瞬間に跳ね起きる。便利な技術だが高校の教室では不要だ。問題は机の上にあのノートが開いたままだったこと。クラスの勢力図、矢印と記号の群れや「※内田雫:情報源として有用」の赤字。前の席の男子が振り返って目線がノートに落ちる。まずい。
ルーが動いた。肩の上から私の髪の中に潜り込み、小さな手で毛を一本、思いきり引っ張った。
「いっ——!」
跳ね起きたら前の席の男子が目が合ってびくっとした。彼の視線がノートの上にある。矢印や記号、「敵対関係の可能性あり」の波線が見えている。
「あ、これ」
ノートを両手で押さえて閉じた。心臓がバクバクしている。
「ただの落書き。落書きです」
「……ああ、うん。そう」
男子は気まずそうに前を向いた。たぶん信じていないが追及もしてこないのはありがたい。
「秘密が漏れる」恐怖が体の芯を走った。任務中、正体がバレそうになったことが何度かあった。変身が解けかけたとき。顔を見られそうになったとき。そのたびに心臓が喉まで跳ね上がって、指先が冷たくなって、世界が一瞬モノクロになった。
ノートの中身はただの勢力図で魔法少女の秘密とは関係ない。でも体は「バレてはいけない」という恐怖を覚えている。三年間、毎日、毎晩、抱え続けた恐怖を。ルーが耳元で囁いた。
「大丈夫だ。見られていない」
そう思い込むことにした。




