第1話②「普通の女子高生になります」
放課後、なんとなく足が向いて屋上に出た。鍵は開いていて、この学校は屋上に出入りできるらしい。私が三年間拠点にしていた場所は屋上の鍵が壊れているか、そもそも屋上が吹き飛んでいたかのどちらかだった。
フェンスに手をかけて、夕焼け空を見上げた。西の空がオレンジと紫のグラデーションで染まっていて、雲の端が金色に光っていた。
三ヶ月前まであの空を飛んでいた。風を切って雲を突き抜けて、街の灯りを眼下に見下ろしながら。時速二百キロで夜空を駆けるとき、ビルの窓、車のヘッドライト、コンビニの看板。全部が線になって流れていく。あの感覚は——。
「未練か?」
ルーが訊いた。
「ううん」
自分でもわかるくらい、はっきりと声が震えた。ルーは何も言わなかった。
しばらくして、屋上のドアが開く音がした。
「あ、藤咲。ここにいたんだ」
晴だった。右手にカメラを持っている。
「ここ、夕焼けがきれいに撮れるんだ。入学式の日に下見してて見つけた。え、なんで知ってるの?」
「なんとなく」
なんとなく高い場所が好きなのだ。三年間の習性が抜けない。
晴はフェンスの近くに立って、カメラを構えた。ファインダーを覗きながら何枚か撮る。シャッターの音が静かな屋上に小さく響いた。
「ここ、夕方の光がいい角度で入るんだよ。西向きだから直接光が」
晴はカメラの話を始めた。絞りがどうとか、ISOがどうとか。正直、半分くらいしかわからなかった。でも、晴が楽しそうに話しているのを見るのは嫌じゃなかった。
ベンチに並んで座った。私たちの影が長く伸びて、コンクリートの床に重なった。
「消えかけてる。あと二分くらいで沈む」
夕焼けのことだと思った。でも次の瞬間、空の色がわずかに変わった。雲の隙間からオレンジの光が最後のひと筋、屋上に差し込んだ。
晴が弾かれたように立ち上がった。ベンチを蹴倒す勢いで飛び出して、フェンスの際まで走ってカメラを構え直した。レンズを替えた。角度を変えた。しゃがんだ。立った。またしゃがんだ。シャッターを切る。切る。切る。
さっきまでの会話を完全に忘れている。私はベンチに座ったまま、その背中を見ていた。夢中になると周りが見えなくなるタイプ。了解。ルー、メモ。ルーが「既に記録した」と言った。数枚撮って、晴はようやく振り返った。
「あ、ごめん。なんだった?」
「いや……別に」
ちょっと呆れた。でも、その横顔に胸がちくっとした。変な感じだった。戦闘中にナイフで切られたときとは違う痛み。もっとずっと小さくて、でもなぜか残る。
晴がカメラを膝に乗せてまた座った。空は暮れかけていた。最初の星が一つ、二つ、滲むように現れ始める。
「俺さ、中一のとき、すごいもの見たんだ」
「……すごいもの?」
「空を飛んでる女の子」
心臓が跳ねた。比喩じゃない。物理的に、心臓が胸骨を叩いた。肩の上でルーが身じろぎした。小さな爪が制服の肩に食い込んだ。晴は空を見上げたまま続けた。
「夜だった。帰り道、でかいバケモノが出てマジで死ぬかと思った。動けなくて声も出なくて。そしたら上から光が降りてきて」
知っている。覚えている。中学一年の冬。任務のさなかに、逃げ遅れた民間人を一人救出した。男子中学生。怪物に追い詰められて路地の行き止まりでうずくまっていた。私は上空から急降下して、怪物を蹴り飛ばして、男の子を抱えて離脱した。よくあることだった。毎週のように誰かを助けて毎週のように忘れた。いちいち覚えていたら心が持たないから。でも、あの男の子が晴だったのか。
「銀色の髪ですっげーきれいだった。怖かったけど。あの子が俺を抱えて飛んだとき、東京の夜景が全部見えて」
晴の声が、少しだけ熱を帯びた。
「ずっと探してるんだ。あの子」
私は黙って空を見た。隣の男の子が探しているのが自分だとは言えなかった。
風が吹いた。四月のまだ少し冷たい風。制服のスカートが揺れた。ルーが肩の上で小さく息を呑んだ。
晴が探しているのは、銀色の髪の魔法少女だ。空を飛ぶ、光の戦士。今の私はただの藤咲栞だ。スマホの使い方も怪しい、友達の作り方もわからない、入学式でメモを取るようなちょっと変な女子高生。同じ人間なのにこんなに違う。
「……きっと、見つかるよ」
自分でも驚くくらい、自然に嘘が出た。晴は「だといいな」と笑った。ルーは何も言わなかった。
◇
帰り道は一人だった。商店街を抜けて住宅地に入る。春の夜は静かで、どこかの家のカレーの匂いがした。三年間、コンビニ飯とカロリーメイトで繋いできた嗅覚が「家庭の夕食」という概念を久しぶりに思い出していた。
「今日の成果を整理する。クラスメイト一名と接触に成功、幼馴染と再会、秘密は維持。概ね良好だ」
「作戦報告みたいに言わないで」
「事実の要約だ」
「だからそういうところ」
自分の部屋に帰った。六畳一間。ベッドと机と本棚。引退後に引っ越してきた、ごく普通の部屋。壁に穴は開いていないし、天井も無事だし窓ガラスも割れていない。素晴らしい。
制服を脱いで部屋着に着替えた。ベッドに倒れ込み天井を見る。スマホを取り出したら通知が来ていた。誰かが作ったらしいクラスのグループチャット。「3-C入学おめでとう」。
ルーが画面を覗き込んだ。
「情報共有ネットワークか。加入せよ」
「……そうだね」
参加ボタンを押した。メッセージがどんどん流れてくる。
「よろしくー!」
「同中いる?笑」
「明日から早いの無理なんだけどwww」
みんなスタンプを送り合っている。猫のスタンプ。クマのスタンプ。意味のわからないおじさんのスタンプ。私のメッセンジャーアプリのアイコンは初期設定のままだった。丸い灰色の人型シルエット。
「……スタンプって、どうやって送るの」
「画面下部のアイコンを——その右だ。いや、もう一つ右。違う、それはカメラだ」
二分かけてスタンプの送り方を習得した。任務中に新しい戦術を覚えるより時間がかかった。「猫」と書かれた黄色い猫のスタンプを送った。
既読がついた。誰からも返信はなかった。別にいい。最初はこんなものだ。敵地に潜入した初日に友好関係を築けるわけがない。
「反応がないな」
「いいの。普通ってたぶん、こういうことだから」
スマホを置いてまた天井を見た。ひび一つない白い平和な天井。
普通の女子高生になるんだ。三年間飛んだ空を忘れて。三年間戦った夜を忘れて。あの銀色の自分をしまい込んで。なれる。きっと。
そう思っていたのにスマホが震えた。ニュースアプリの通知。自分では入れた覚えのないアプリだった。たぶん、購入時にプリインストールされていたやつ。三年間、一度も開いたことがない。見出しが目に入った。
「○○区で原因不明の道路陥没 半径三十メートルにわたり路面が崩落」
写真が添付されていた。アスファルトがめくれ上がった道路。ガードレールが飴のように曲がっている。周囲に立ち入り禁止のテープ。警察車両。そして、道路の端に、引っかき傷。
三本の平行な溝。
私は、その傷を知っている。怪物の爪痕だ。後任の子がもう戦っている。中学一年生の女の子。名前は奥村結。魔法少女「グリーンアロー」。引継ぎのとき一度だけ会った。小さな手が震えていた。「先代みたいになれますか」と訊かれて、「大丈夫。あなたならできる」と答えた。本当に大丈夫なのかは、わからなかったけど。
ルーも写真を見ていた。何も言わなかった。私も、何も言わなかった。
スマホの画面を消した。部屋が暗くなった。天井が見えなくなった。代わりに、瞼の裏に夜空が見えた。あの空はもう私のものじゃない。布団の中で、誰にも見えないところで拳を握った。
明日も、明後日も、普通の女子高生をやる。その次も。いつかそれが「やる」じゃなくて「である」になる日まで。
目を閉じた。肩の上でルーが小さく言った。
「おやすみ、栞」
「……おやすみ、ルー」
春の夜は、静かだった。




