第1話①「普通の女子高生になります」
その夜、世界で一番高い場所に立っていたのは、たぶん私だった。正確には、新宿区某所のオフィスビル、地上四十二階の屋上。気温は三度、風速は体感で秒速十二メートル前後。着地時の衝撃で左足首の靭帯が悲鳴を上げている。右の肋骨は三本目がたぶん折れた。口の中に鉄の味がする。
足元には、さっきまで暴れていた「それ」の残骸が広がっていた。ビルの三フロアぶち抜きサイズの怪物だった。腕が六本あって、目が十三個あって、口からビームを吐いた。ビームはさすがに反則だろうと思ったけど、反則だろうと何だろうと殺しにくるものは殺しにくる。だからこっちも全力で応えた。それだけの話。
肩の上で小さな声がした。
「栞、最終任務完了だ」
手のひらに収まるサイズの、白い毛並みの妖精。名前はル=フレイア。私はルーと呼んでいる。三年間、ずっと肩の上にいた相棒。
空を見上げた。冬の夜空は澄んでいて、東京にしては星がよく見えた。変身の光が解けていく感覚があった。銀色の髪がするすると色を失って、いや、色を取り戻して元の黒に戻っていく。視界の端で制服のスカートが風に揺れた。破れてるけど。
「終わった」
声に出したら急に実感が湧いた。ルーが静かに言った。
「三年間お疲れ様、栞」
涙が出た。頬を伝ってあごから落ちて、怪物の残骸の上にぽたっと落ちた。泣いているのに顔は笑っていた。自分でもよくわからない。ただ、思ったのは——もう、飛ばなくていい。
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桜が咲いていた。
四月。空気がやわらかくて、風が甘くて、どこからか吹奏楽部の音が聞こえる。正門の前には真新しい制服の集団がひしめいていて「こっちこっち」「写真撮ろう」「やばい知り合い誰もいない」みたいな声が飛び交っている。私はその人波の中に立っていた。県立桜森高校の入学式。肩の上でルーが言った。
「栞よ。偵察の結果を報告する。前方に人員およそ三百。敵性体の反応は……ない」
「当たり前でしょ」
小声で返す。ルーは一般人には見えない。だから私が独り言を言っているように見える。入学式の朝に正門前でブツブツ言ってる女子。最悪の第一印象になりかねない。
「しかし警戒を怠るな。三年間の任務でお前が最も苦手だったのは」
「奇襲と早起き。知ってる。今日は起きてるからセーフ」
正門をくぐった。校舎は白くてきれいで、壁に穴が開いていなかった。当たり前だけどちょっと感動した。私がこの三年間で出入りしていた建物は、だいたい壁に穴が開いていたか、天井が崩れていたか、そもそも建物の形を保っていなかったので。
体育館での入学式。
「起立」
背筋を伸ばし、両足を肩幅に開き、右手を腰の後ろに回して、そこに武器がないことに気づいて慌てて手を前に戻した。隣の席の女子がちらっとこっちを見た。大丈夫、気づかれてない。たぶん。
校長先生が壇上に立って話し始めた。
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。本日より皆さんは桜森高校の一員として」
私の手が無意識にペンを握っていた。ノートを開いてメモを取り始めていた。
【作戦概要】
・指揮官(校長)より訓示。目標:三年間の活動を通じた人材育成
・戦力構成:新規兵員約三百名、八個中隊に編成
・補給拠点:購買部(北棟一階)
隣の席の女子がまたこっちを見た。今度はちゃんとこっちを見ていた。
「……真面目だね」
言われて手が止まった。ペンを置いてノートを閉じた。
「あ、いや、これは……癖で」
「いいじゃん。私、入学式で寝そうだったから助かる。あとで見せて?」
その子はにこっと笑った。ちょっと派手めのメイクで、髪はゆるく巻いてあって、制服のリボンの結び方がおしゃれだった。こういうのをたぶん「陽キャ」と言うのだと思う。三年間の戦闘生活でもそのくらいの語彙は知っている。
「内田雫。よろしくね」
「藤咲栞。……よろしく」
握手を求められた。右手を差し出す。力加減がわからない。強く握りすぎないように、壊れ物を持つみたいにそっと。雫は少し不思議そうな顔をして、でもすぐに笑った。
これが高校生活、最初の接触だった。ルーが耳元で「友好的な接触だ。継続が望ましい」と囁いた。わかってるよ。
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入学式が終わって教室移動のとき、廊下を歩いていたら声をかけられた。
「藤咲? 藤咲栞?」
振り返った。男子。背はそこそこ高くて、髪は短くて、制服をきっちり着ていて、首からカメラを下げている。——カメラ?
「久しぶり! うわ、マジで栞? 全然変わんないな」
データベースを検索する。顔、声、話し方。マッチする情報を探す。小学校時代の記憶がヒットした。矢野晴。
幼馴染。小学校を卒業してからほとんど会っていない。中学の三年間、私は魔法少女をやっていたから連絡もろくに返せなかった。
ルーが耳元で囁いた。
「友好的な接触だ。笑顔で応答せよ」
笑顔を作ろうと、口角を上げ頬の筋肉を持ち上げ目を細める。戦闘時のヘルメットのバイザーを上げるより複雑な作業だった。頬がひきつった。晴が一瞬黙って、それから言った。
「……大丈夫? 腹痛い?」
「だ、大丈夫。元気。超元気」
超元気って何だ。私はいつから「超」をつけるようになったんだ。ルーが肩の上で小さくため息をついた。聞こえてるよ。
「同じ高校だったんだ。俺、二組」
「私、三組」
「隣じゃん。いいな、また同じ学校」
晴は笑った。あの頃と同じ屈託のない笑顔だった。小学校のとき、放課後に公園で鬼ごっこをして遊んだ。。晴はいつも足が速くて、私はいつも捕まっていた。まあ、今やったら私が鬼ごっこで負ける未来は見えないけど。
「また話そうぜ。栞」
晴は手を振って隣のクラスに入っていった。廊下に残された私は、数秒間、動けなかった。「栞」と呼ばれた。三年間、私を名前で呼んだのはルーだけだった。あとは「スカイブルーセイント」か、怪物の咆哮だけ。
「……心拍数が上がっているぞ」
「うるさい」




