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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第四章:橋姫と日常

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第九十七話「鎌鼬の風」

風が三度、切れた。


一度目は夕刻の門前で。二度目は庭の松の枝先で。三度目は縁側の板の上、我の前足から三寸さんずんほど先に。


音がある。刃物が空気を裂く、あの薄い音だ。しかし切ったものが何もない。松の葉が一枚落ちた。門の柱に、細い線が入った。縁側の板には、跡すら残らなかった。


敵意はない。


むしろ、いたずらに近い気配だった。


我は縁側から一歩も動かず、風の来た方向を順に読んだ。東、北東、真北と少し東。移動している。しかも速い。地上ではなく、屋根の高さを走っている。


「くろまろ、何か来てる?」


藤原真白(ふじわら の ましろ)が障子の内側から声をかけてきた。松の葉が落ちた音に気づいたらしい。


我は庭の松を見た。枝が二本、揺れていた。風はないのに。



四度目は来なかった。


代わりに、庭の隅の梅の木の下に、何かが降りてきた。


三匹だった。


いたちの体をしているが、爪が異様に大きい。鋭く、弓なりに曲がった爪が、前脚についている。毛の色は灰白色で、目が細く、尾が長い。大きさは通常の鼬より一回り大きいか、同じくらいか。


三匹が並んで、我を見ていた。


その目に、遊び飽きて別の獲物を探している者の光があった。


鎌鼬かまいたちだ、と我は判じた。


ことわざに言う。一匹が転ばせ、一匹が切り、一匹が薬を塗る。三匹でひと組の妖怪だ。転ばせた者が傷に気づく前に切り、気づいた時には薬で癒やされている。だから痛みがない。


三匹が、じっと我を見ていた。



真白が縁側に出てきた。


三匹を見て、一拍置いた。驚きをしまう速度が、最近さらに早くなっている。


「鎌鼬さんですか」


三匹が同時に耳を動かした。名前を知っている人間には、そういう反応をする生き物らしい。


「転ばせたり、切ったりするんですよね」


一番右の一匹が前脚を上げた。動作が早すぎて残像のように見えた。次の瞬間、縁側の端に置いてあった花瓶かびんの傍の空気が、さっと切れた。花瓶は無傷だった。


「上手ですね」


真白が言った。脅えた風もなく、ただ感心した声だ。


三匹がまた耳を動かした。今度は少し違う角度に。褒められた、という種類の反応だった。



鎌鼬は声を持たない、と我は知識として知っていた。


しかし言葉を理解しないわけではない。人の声の意味を聞き取る。ただ返す手段が、身体の動きしかない。


真白が縁側に腰を下ろして、三匹と目線の高さを合わせた。


「何か用があって来たの?」


真ん中の一匹が、梅の木の方へ顔を向けた。それから我を見た。我を見てから、また梅の木を見た。


木のことわりの話か、と我は判じた。


風を操る技を持つ者が、木の理を扱う者を探してきた。それだけの話かもしれない。あるいは別の何かか。


我は梅の木に向かって半歩出た。


三匹の目が、我に向いた。


「教えに来た、ということかしら」


真白が言った。三匹が同時に頷いた——頷く、という動作ではなく、頭を一度だけ前に傾けた。それが肯定の合図らしかった。



葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が庭に来たのは、少し後だった。


鎌鼬を見て、一度だけ目を細めた。敵対する気配ではない、と判断したのか、特に何も言わなかった。ただ、少し離れた場所に立って、成り行きを見ていた。


三匹のうち一番左の一匹が、庭の中ほどへ出た。


そこで止まり、体を低くした。次の瞬間に動いた。


速かった。


地面すれすれを走り、梅の木の根を回り、松へ向かい、また元の場所へ戻る。全部で十数間じゅうすうけんの距離を、一息で走った。走りながら、爪が空気を切った。音の軌跡だけが残った。


体が止まり、その直後に庭の数か所で風が渦巻いた。梅の葉が舞い、松の枝が揺れ、砂利の上の砂が小さく円を描いた。


移動した後に、風が来る。それも一点ではなく、走った軌跡に沿って順番に。


我は息を整えた。


これは木の理の話ではない。


動くことで風を作り、その風に時差を持たせて、複数の場所を順番に動かす。理として見れば、運動の波を空気に伝えて、受け取る場所を選ぶ、ということになる。


言葉では説明できないが、あの一匹は今それをやって見せた。



真名井実俊(まない の さねとし)が来たのは、夕餉の前だった。


陰陽寮おんみょうりょうからの帰りに立ち寄ったらしく、書付を小脇に抱えたままだった。庭の三匹を見て、目を細くした。警戒ではなく、観察の目だ。


「鎌鼬ですね」


「知ってる?」


「文献に記録はありますが、実物を見るのは初めてです。三匹でひと組、と記録にあります」


三匹の真ん中が、実俊を見た。


実俊が書付を抱えたまま、三匹の前に膝をついた。


「伺いたいことがあるのですが」


三匹が耳を動かした。


「あなた方が使う風の技——あれは鎌そのものが切っているのか、それとも風圧で切っているのか、どちらですか」


三匹が顔を見合わせた。真ん中が前脚を挙げて、爪を見せた。次に空気を軽く切った。爪が当たる前に、指先の近くの空気がわずかに揺れていた。


「風が先に来て、爪が後に来る」


実俊が独り言のように言った。


「爪で切っているのではなく、爪の動きで作られた圧の波で切っている」


三匹の真ん中がまた頭を前に傾けた。肯定だった。


「陰陽の理として見ると、金のかなのことわりに近い。音の振動が空間を伝わるのと同じ構造だ」


実俊がそこで真白を見た。


「玄丸殿の金の理(理)と、この方々の技は、根の部分が共通しているかもしれない」


我は実俊を見た。実俊が我を見た。


三匹が我と実俊を交互に見た。



夕刻、三匹が帰る前に、一番右の一匹が我の前に来た。


他の二匹より一回り小さい。三匹の中で末弟にあたるのかもしれない。


その一匹が、我の前で体を低くして、止まった。


来なさい、という動作に見えた。


我は一歩出た。


一匹が走った。速いが、先ほどよりずっと遅い。我がついていける速度に合わせていた。梅の根を回って、砂利の上を斜めに横切って、戻ってくる。


走り終えた後に、その一匹の通った線の上で、小さく空気が動いた。


次に、我が同じ線を歩いた。


我が歩いた後に——何も起きなかった。


当然だ。我はただ歩いたのだから。


しかし、一匹が首を傾けて我を見ていた。足の運び方を見ていた。


体の軸と地面の接し方が、風の作られ方に関係する、ということか。


これは教えに来た、ということだ。理屈ではなく、体で示すことで。


我は再び同じ線を歩いた。今度は体の重心を意識しながら。腹を低く、脚の運びを一定に。


一匹の耳が前を向いた。


我の通った後で、ごく小さく砂利が動いた。


風ではない。我の歩き方が作った、ごく小さな空気の流れだ。


三匹が揃って我を見た。その目に、先ほどとは別の光があった。



真白が夕の空を見上げた。


「また来てくれますか」


三匹が動いた。風のように庭を走り、松の木を一周して、屋根の上へ上がった。それだけで姿が見えなくなった。


しばらくして、遠くで一度だけ、あの刃物が空気を裂く音がした。


返事だろうと、我は判じた。


実俊が書付を開いたまま縁側に座っていた。


「来年また来ると思います。あの方々は同じ場所に何度も来る習性があると記録にあった」


真白が「どうして分かるの?」と聞いた。


「庭の砂利を見てください」


真白が庭を見た。


砂利の上に、細い線が何本か描かれていた。三匹が走った軌跡だ。意図して残したものか、それとも結果として残ったものか、判じかねた。しかし線は確かに、整然と描かれていた。


「目印のようなものかもしれません。自分たちが来た場所だと覚えておくための」


「次に来る時のための道しるべ」


「仮説ですが」


真澄が少し離れた場所から言った。


「来るかどうかは、来た時に分かりますでござろう」


それだけ言って、廊下へ戻った。


我は砂利の線を見ていた。


鎌鼬が残した線は、梅の根から松の根へ、そこから縁側の端へと、屋敷の主な場所を結んでいた。



秋の夜が落ちた。


我は縁側に一人で座り、風の理について考えた。


風を起こすことは木の理の範疇だ。しかし鎌鼬が使った技は、風そのものを操ることではなかった。体の動きが波を作り、その波が空気を伝わっていく。受け取る場所と時差を、走り方の中に組み込んでいた。


我が今持てる力でどこまで近づけるかは、分からない。


しかし今日の末弟が、我の重心の変化に反応したことは確かだった。


体があれば、風は作れる。


それが大きな教えだとは言わない。ただ、知っておく価値のある理だった。


梅の木が夜風に揺れた。


自然の風だった。鎌鼬の作った風ではない。ただ、夜の空気が動いている。


我はその風を、しばらく体で受けていた。

【妖怪図鑑】


鎌鼬かまいたち

【分類】風系妖怪・獣型

【危険度】★★☆☆☆(中。ただし敵意がない場合は無害)

【レア度】★★★☆☆(やや珍しい。三匹揃っての目撃は希少)

【出現場所】風の強い野原、峠道、晩秋から冬にかけての街道


【特徴】

三匹でひと組で行動する妖怪。一匹が人を転ばせ、一匹が刃のような爪で切り傷を作り、一匹が薬を塗って癒やす——という順番で動くため、被害者は傷ができた事実に気づいても痛みを感じない。刃物が通ったような切り傷が体に残る現象の説明として各地で語られてきた。

声を持たない。代わりに身体の動きで意思を伝える。人の言葉は理解するが、返す手段が動作のみという制約がある。

今回の三匹は敵対的な目的で来たのではなく、木の理を扱う者の存在を聞き知り、接触を試みた。風と体の動きの関係について、言葉ではなく実演で示すことを好む。


【得意技】

・瞬速移動:地上を走る速度が並の生き物とは比較にならない。残像が見える程度の速さ

・風圧切断:体の動きで作られた空気の圧の波が、刃のように対象を切る。爪が当たる前に風が先行する

・時差制御:走った軌跡に沿って、時差を持って風を発生させる。複数の場所を順番に動かすことができる


【弱点】

・声を持たないため、複雑な意思疎通が困難

・三匹がバラバラになると力が落ちる。ひと組で機能する

・静止している時間が長いと落ち着かない


【生態】

秋から冬にかけて活動が活発になる。理由は、乾燥した空気の方が風圧を遠くまで伝えやすいためと考えられる。同じ場所に繰り返し来る習性があり、気に入った場所の砂地や土に独自の線を残していくことがある。これが次回訪問の目印になっているとする説がある。


【玄丸の評価】

「風の技とは体の使い方の話だった。理論より先に体が教える——鎌鼬という存在は、そういう種類の知を持っている。金の理と構造が近い、という実俊殿の指摘は正確だ。音も風も、波として空間を伝わる点で同じだ。末弟が我の歩き方を見ていた理由は、歩きながら何かが変わったからだろう。変わったのは重心だ。それだけのことだが、風が動いた」


【遭遇時の対処法】

理由なく切りかかってくることはほぼない。切り傷が残った場合、痛みがなくとも放置せず手当てすること。鎌鼬が傍にいると感じたら、急に走ったり大声を上げたりしないこと。声で呼びかけると耳が動く——それが反応の合図だ。敵意がないと分かれば、相手からの接触を待てばよい。


【豆知識】

鎌鼬の伝承は全国に広く残る。特に信州地方では「かまいたち三兄弟」として語られることが多く、三匹の役割分担が明確に記録されている。現代では、突風による切り傷や、強い風圧が皮膚を傷つける現象の民間的説明として用いられることもある。「鎌鼬にあう」とは、知らないうちに傷を負うことの喩えとしても使われる。


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