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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第四章:橋姫と日常

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第九十五話「三者三様」

秋の縁側は、夏と違う光の落ち方をする。


真横から差してくる午後の陽が、板の木目に細い影を引く。白砂の庭がその光を跳ね返して、縁側の奥まで届く明るさが、夏のそれよりずっと穏やかだ。暑さが退いて、気だけが残る。


我は縁側の端に四肢を折り畳んで、その光の中にいた。


庭ではふきが梅の根回りの草を取っている。厨の方からわらべの声が時おり漏れてくる。母君の居室は静かで、午睡に入っているらしかった。


真白ましろはいない。


近くの染め物屋へ使いに出たと、出がけに我の頭に手を乗せていった。「すぐ戻るから」と言い置いて。そのすぐが、もうひといっときになろうとしている。


蕗が草を取りながら鼻歌を歌っている。


我はその音を聞きながら、光の中に沈んでいた。


特に何かを考えていたわけではない。しかし何も考えていなかったとも言えない。庭の色が変わるにつれて、この数月の出来事が、順を追わず断片のまま浮かんでくる。


葛の葉が風に裏返った。


そこから、始まった。



——真澄ますみのことを、思う。


雨の中の縁側に立って、真白に向かって「姫君を想っております」と告げた男の声を、我はまだ覚えている。言葉の温度が低かった。感情が高ぶっているのに、声が冷えていた。長い時間をかけて冷やしてきた感情が、ただ一度だけ外へ出た声だった。


そして同じ息で、身を引く、と言った。


その後の真澄は変わらなかった。いつも通り廊下を音もなく歩き、いつも通り用件だけを告げ、いつも通り庭の手入れに目を光らせている。外に出た感情を、また仕舞い直した。どこへ仕舞ったのかは分からない。分からないが、仕舞える場所があるということは、それだけ深い場所を持っているということだ。


身を引く、という決断の重さを、我は想像する。


引いた者は、引いた後もそこにいる。姫君の笑顔を見て、姫君の声を聞いて、姫君が誰かに告白されたことも知っている。知りながら、傍にいる。それを選んだ。


なぜそれができるのか。


理として説明できない選択というものがあると、この世界に来てから何度も思い知った。真澄の選択も、その類だ。


草を取り終えた蕗が、道具を持って厨の方へ戻っていく。



——実俊さねとしのことを、思う。


葉桜の下で告白した夜から、あの男の顔が少し変わった。


以前は、感情を理詰めで隠そうとしていた。真白の傍にいたい、という気持ちを、用件を作ることで正当化しようとしていた。それが今は、少しだけ違う。用件がなくても来る。来て、真白と並んで縁側に座る。話がなければ黙って書き物をする。理屈で正当化しなくなった分、行動が直接になった。


保留中だ。


真白は「今すぐには答えられない」と言い、実俊は「待ちます」と言った。その保留が今も続いている。実俊が急かすことはない。真白が返事を迫られることもない。ただ、その間に積み重なるものがある。


我にはそれが何かが分かっている。


真白の心の中に、実俊の占める場所が少しずつ形を持ってきている。きっかけは分からない。しかし「実俊様の話をする時もいつもくろまろのことが出てくる」と真白が気づいたあの夜から、何かが変わり始めた。


我のことを——大切なものを語る文脈の中で、一緒に語る。


それが何を意味するのかを、真白はまだ言葉にしていない。「まるで——」と言いかけて止まった。その続きを、我は聞きたいような、聞きたくないような。



縁側の板が、日差しでわずかに温まっていた。


我は前脚に顎を乗せ、庭を見た。


梅の葉が少し色を変えている。まだ落ちてはいない。落ちると分かっていても、落ちるまでは枝についている。



——我自身のことを、思う。


恋、という言葉を自分の内側で使ったのは、初夏のことだった。


真澄が真白を見る目を見て、同じ構造が自分の中にある、と悟った。それからずっと、その言葉と一緒に生きている。言葉を持ってしまったので、なかったことにはできない。


問題は、この言葉が行き場を持たないことだ。


真澄は告げた。実俊は告げた。言葉にした。声にした。それによって何かが変わった。——真澄は傷つき、実俊は待っている。どちらも変わったことに間違いはない。


我には、告げる手段がない。


声がない。言葉がない。人の言葉で語る喉を持っていない。


鳴き声で気持ちを伝えることはできる。仕草で意思を示すことはできる。しかしそれは「恋している」という言葉の重さを持てない。言葉というのは、言う側にとっても聞く側にとっても、言う前と後とで何かが変わるものだ。言葉にしない限り、変わらない。


我は猫だ。


真白は人間だ。


この先が——ない。


先がないと分かっている恋を、それでも恋と呼ぶのか。呼ぶしかない。他に名前がないから。


砂かけすなかけばばあが言った言葉が、また浮かんだ。「見られていると知ると振る舞いが変わる」。我が縁側から見ているのと同じことをしている、と言った。


我は何かを見守っている。真白の日々を、真白の選択を、真白が誰かを選んでいくその過程を。


それが我にできることだ。



縁側に影が落ちた。


葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が廊下の端に立っていた。


いつ来たのか、気配がなかった。この男は屋敷にいる時でも音を立てない。それが意識的なのか習慣なのか、長く共に過ごしても判じかねる。


真澄が庭を見た。我が前脚に顎を乗せたまま見ていたのと、同じ方向だ。


「玄丸殿」


声が低く、問いかけではなかった。ただ名を呼んだ。


我は顎を前脚から上げて、真澄の方を向いた。


真澄が庭から視線を外さないまま言った。


「梅が色づいてきましたでござろう」


我は庭を見た。確かに、梅の葉の端が少し黄みを帯び始めていた。


「姫君が戻られたら、お知らせいたしますでござろう」


それだけ言って、真澄は廊下を戻っていった。


その背中を見ながら、我は考えた。


あの言葉は何のためだったのか。真白が戻ることを教えるだけなら、告げる必要はない。我が縁側で待っていることを知っていて、声をかけた。


あるいは——我が一人で考え込んでいることに気づいていて、話しかけた。


どちらとも取れた。



真白が戻ってきたのは、それから少しした後だった。


小さな包みを抱えて、白い足袋の先を庭石に乗せながら縁側に上がってくる。染め物屋の主人に引き留められて話が長くなったらしく、少し頬が赤い。


「ただいま、くろまろ」


我は縁側の端で起き上がった。


真白が我の横に腰を下ろした。包みを脇に置いて、庭に目を向ける。夕刻に向かって傾いた光が、梅の葉を横から照らしていた。


「秋らしくなってきたわ」


誰へともなく言った。


我は梅の木を見た。


「ねえ、くろまろ」


真白が膝の上で手を重ねた。


「今日、染め物屋の奥さんが言っていたの。大切なものは、言葉より先に体が知っている、って」


我は真白を見た。


「どういう意味か聞いたら——会いたいと思う前に足が向いている、そういうことだ、って」


真白が手の中を見た。


「あなたが庭の端にいる時と、部屋の隅にいる時とでは、気持ちの置き場が違う気がするの。うまく言えないけど」


我は答えない。


答えられないのではなく——答えてしまうと、何かが変わる気がして。しかしそれを恐れているのでもない。ただ、今はまだ、真白の言葉の続きを聞いていたかった。


真白が、我の頭の上に手を乗せた。


重さは軽い。しかし温度がある。


「ありがとう、今日もいてくれて」


我が何かをしたわけではない。ただここにいただけだ。それでもこの人は礼を言う。いてくれることを、当たり前と思わない。


その礼の言い方が——恋、と呼ばずにいられないものを、また胸の底で揺らした。


夕の光が梅の葉を染め、縁側に長い影を引く。


猫である我には、何もできぬ。


声もなく、言葉もなく、告げる手段を持っていない。真澄のように告げることもできない。実俊のように保留のまま待ち続けることもできない。我にできるのは——こうして傍にいることだけだ。


傍にいて、真白が笑う時に隣にいて、真白が泣きそうになる夜に縁側で見張っていて、言葉を持たないままこの温もりの近くで過ごす。


だが。


だが、と我は思う。


この「だが」に続く言葉が、まだない。


見つかっていない。あるいは、見つけようとしていないのかもしれない。見つけてしまったら——何かが変わる。変わった後に、我が受け取れるものがあるかどうか、分からない。


真白の手が、我の背を一度だけ撫でた。


夕風が庭を通り抜けて、梅の葉をひとつ、揺らした。


揺れて、元に戻った。


三者が三様の場所にいる。


真澄は傍にあって身を引いた。実俊は離れたところで待っている。我は傍にあって、告げることもできず、引くこともできない。


どれが正しいとも、言えない。


それぞれが、それぞれの理の中にいる。


——だが。


その続きを、我はまだ持っていない。


持っていないまま、夕の光の中にいた。


縁側の板が、日の落ちる前の最後の温もりを蓄えていた。

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