第九十五話「三者三様」
秋の縁側は、夏と違う光の落ち方をする。
真横から差してくる午後の陽が、板の木目に細い影を引く。白砂の庭がその光を跳ね返して、縁側の奥まで届く明るさが、夏のそれよりずっと穏やかだ。暑さが退いて、気だけが残る。
我は縁側の端に四肢を折り畳んで、その光の中にいた。
庭では蕗が梅の根回りの草を取っている。厨の方からわらべの声が時おり漏れてくる。母君の居室は静かで、午睡に入っているらしかった。
真白はいない。
近くの染め物屋へ使いに出たと、出がけに我の頭に手を乗せていった。「すぐ戻るから」と言い置いて。そのすぐが、もうひと刻になろうとしている。
蕗が草を取りながら鼻歌を歌っている。
我はその音を聞きながら、光の中に沈んでいた。
特に何かを考えていたわけではない。しかし何も考えていなかったとも言えない。庭の色が変わるにつれて、この数月の出来事が、順を追わず断片のまま浮かんでくる。
葛の葉が風に裏返った。
そこから、始まった。
——真澄のことを、思う。
雨の中の縁側に立って、真白に向かって「姫君を想っております」と告げた男の声を、我はまだ覚えている。言葉の温度が低かった。感情が高ぶっているのに、声が冷えていた。長い時間をかけて冷やしてきた感情が、ただ一度だけ外へ出た声だった。
そして同じ息で、身を引く、と言った。
その後の真澄は変わらなかった。いつも通り廊下を音もなく歩き、いつも通り用件だけを告げ、いつも通り庭の手入れに目を光らせている。外に出た感情を、また仕舞い直した。どこへ仕舞ったのかは分からない。分からないが、仕舞える場所があるということは、それだけ深い場所を持っているということだ。
身を引く、という決断の重さを、我は想像する。
引いた者は、引いた後もそこにいる。姫君の笑顔を見て、姫君の声を聞いて、姫君が誰かに告白されたことも知っている。知りながら、傍にいる。それを選んだ。
なぜそれができるのか。
理として説明できない選択というものがあると、この世界に来てから何度も思い知った。真澄の選択も、その類だ。
草を取り終えた蕗が、道具を持って厨の方へ戻っていく。
——実俊のことを、思う。
葉桜の下で告白した夜から、あの男の顔が少し変わった。
以前は、感情を理詰めで隠そうとしていた。真白の傍にいたい、という気持ちを、用件を作ることで正当化しようとしていた。それが今は、少しだけ違う。用件がなくても来る。来て、真白と並んで縁側に座る。話がなければ黙って書き物をする。理屈で正当化しなくなった分、行動が直接になった。
保留中だ。
真白は「今すぐには答えられない」と言い、実俊は「待ちます」と言った。その保留が今も続いている。実俊が急かすことはない。真白が返事を迫られることもない。ただ、その間に積み重なるものがある。
我にはそれが何かが分かっている。
真白の心の中に、実俊の占める場所が少しずつ形を持ってきている。きっかけは分からない。しかし「実俊様の話をする時もいつもくろまろのことが出てくる」と真白が気づいたあの夜から、何かが変わり始めた。
我のことを——大切なものを語る文脈の中で、一緒に語る。
それが何を意味するのかを、真白はまだ言葉にしていない。「まるで——」と言いかけて止まった。その続きを、我は聞きたいような、聞きたくないような。
縁側の板が、日差しでわずかに温まっていた。
我は前脚に顎を乗せ、庭を見た。
梅の葉が少し色を変えている。まだ落ちてはいない。落ちると分かっていても、落ちるまでは枝についている。
——我自身のことを、思う。
恋、という言葉を自分の内側で使ったのは、初夏のことだった。
真澄が真白を見る目を見て、同じ構造が自分の中にある、と悟った。それからずっと、その言葉と一緒に生きている。言葉を持ってしまったので、なかったことにはできない。
問題は、この言葉が行き場を持たないことだ。
真澄は告げた。実俊は告げた。言葉にした。声にした。それによって何かが変わった。——真澄は傷つき、実俊は待っている。どちらも変わったことに間違いはない。
我には、告げる手段がない。
声がない。言葉がない。人の言葉で語る喉を持っていない。
鳴き声で気持ちを伝えることはできる。仕草で意思を示すことはできる。しかしそれは「恋している」という言葉の重さを持てない。言葉というのは、言う側にとっても聞く側にとっても、言う前と後とで何かが変わるものだ。言葉にしない限り、変わらない。
我は猫だ。
真白は人間だ。
この先が——ない。
先がないと分かっている恋を、それでも恋と呼ぶのか。呼ぶしかない。他に名前がないから。
砂かけ婆が言った言葉が、また浮かんだ。「見られていると知ると振る舞いが変わる」。我が縁側から見ているのと同じことをしている、と言った。
我は何かを見守っている。真白の日々を、真白の選択を、真白が誰かを選んでいくその過程を。
それが我にできることだ。
縁側に影が落ちた。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が廊下の端に立っていた。
いつ来たのか、気配がなかった。この男は屋敷にいる時でも音を立てない。それが意識的なのか習慣なのか、長く共に過ごしても判じかねる。
真澄が庭を見た。我が前脚に顎を乗せたまま見ていたのと、同じ方向だ。
「玄丸殿」
声が低く、問いかけではなかった。ただ名を呼んだ。
我は顎を前脚から上げて、真澄の方を向いた。
真澄が庭から視線を外さないまま言った。
「梅が色づいてきましたでござろう」
我は庭を見た。確かに、梅の葉の端が少し黄みを帯び始めていた。
「姫君が戻られたら、お知らせいたしますでござろう」
それだけ言って、真澄は廊下を戻っていった。
その背中を見ながら、我は考えた。
あの言葉は何のためだったのか。真白が戻ることを教えるだけなら、告げる必要はない。我が縁側で待っていることを知っていて、声をかけた。
あるいは——我が一人で考え込んでいることに気づいていて、話しかけた。
どちらとも取れた。
真白が戻ってきたのは、それから少しした後だった。
小さな包みを抱えて、白い足袋の先を庭石に乗せながら縁側に上がってくる。染め物屋の主人に引き留められて話が長くなったらしく、少し頬が赤い。
「ただいま、くろまろ」
我は縁側の端で起き上がった。
真白が我の横に腰を下ろした。包みを脇に置いて、庭に目を向ける。夕刻に向かって傾いた光が、梅の葉を横から照らしていた。
「秋らしくなってきたわ」
誰へともなく言った。
我は梅の木を見た。
「ねえ、くろまろ」
真白が膝の上で手を重ねた。
「今日、染め物屋の奥さんが言っていたの。大切なものは、言葉より先に体が知っている、って」
我は真白を見た。
「どういう意味か聞いたら——会いたいと思う前に足が向いている、そういうことだ、って」
真白が手の中を見た。
「あなたが庭の端にいる時と、部屋の隅にいる時とでは、気持ちの置き場が違う気がするの。うまく言えないけど」
我は答えない。
答えられないのではなく——答えてしまうと、何かが変わる気がして。しかしそれを恐れているのでもない。ただ、今はまだ、真白の言葉の続きを聞いていたかった。
真白が、我の頭の上に手を乗せた。
重さは軽い。しかし温度がある。
「ありがとう、今日もいてくれて」
我が何かをしたわけではない。ただここにいただけだ。それでもこの人は礼を言う。いてくれることを、当たり前と思わない。
その礼の言い方が——恋、と呼ばずにいられないものを、また胸の底で揺らした。
夕の光が梅の葉を染め、縁側に長い影を引く。
猫である我には、何もできぬ。
声もなく、言葉もなく、告げる手段を持っていない。真澄のように告げることもできない。実俊のように保留のまま待ち続けることもできない。我にできるのは——こうして傍にいることだけだ。
傍にいて、真白が笑う時に隣にいて、真白が泣きそうになる夜に縁側で見張っていて、言葉を持たないままこの温もりの近くで過ごす。
だが。
だが、と我は思う。
この「だが」に続く言葉が、まだない。
見つかっていない。あるいは、見つけようとしていないのかもしれない。見つけてしまったら——何かが変わる。変わった後に、我が受け取れるものがあるかどうか、分からない。
真白の手が、我の背を一度だけ撫でた。
夕風が庭を通り抜けて、梅の葉をひとつ、揺らした。
揺れて、元に戻った。
三者が三様の場所にいる。
真澄は傍にあって身を引いた。実俊は離れたところで待っている。我は傍にあって、告げることもできず、引くこともできない。
どれが正しいとも、言えない。
それぞれが、それぞれの理の中にいる。
——だが。
その続きを、我はまだ持っていない。
持っていないまま、夕の光の中にいた。
縁側の板が、日の落ちる前の最後の温もりを蓄えていた。




