第九十一話「真澄の告白」
雨が来る前の空は、独特の重さを持つ。
雲が低く垂れ込めて、風が止まる。鳥の声が消えて、虫だけが鳴き続ける。その静けさの種類が、晴れの静けさとも夜の静けさとも違う。
我は縁側の端で、その空を読んでいた。
夕刻前に降る。
そう判じた頃、葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が庭に来た。
珍しい時刻だった。真澄が庭に出るのは朝か、あるいは夜の見回りの時だ。昼間の、しかも誰も用事を言いつけていない時間に庭へ来ることは、ほとんどない。
我は縁側から真澄を見た。
真澄は池の縁に立ち、水面を見ていた。動かない。風がないから水面も動かない。二つが向き合って、静止している。
どのくらいそうしていたか。
やがて真澄が顔を上げ、縁側の我に気づいた。
目が合った。
真澄が何かを言おうとした——そう見えた。しかし言わなかった。また水面に視線を落とした。
藤原真白(ふじわら の ましろ)が縁側に出てきたのは、それから少しした後だった。
涼みに来たのか、手に扇を持っている。我の隣に腰を下ろし、庭を見た。
「真澄、どうしたの。ずっとそこにいる」
真澄が振り返った。
「少し、よろしいでしょうか」
声が、いつもと違った。
いつもの真澄の声は、感情の色を削り落としてから出てくる。厚い石の壁を通り抜けた後の声だ。しかし今日の声には、壁を通る前の何かが、わずかに残っていた。
真白が扇を閉じた。
「どうぞ」
真澄が縁側の前まで来た。
庭と縁側の間に立ったまま、上がらなかった。その立ち方が、今日の話の性質を示していた。座って話す話ではない、と真澄自身が決めている。
我は縁側の端で前脚を揃えた。
「姫君に、申し上げたいことがございます」
「はい」
「長いあいだ、言葉にしてはならぬと思っておりましたでござろう。今日、言葉にすることにいたしました」
真白が真澄を見た。真澄は真白を見ていなかった。池の方に視線が向いたまま、言葉を続けた。
「拙者は——姫君を、想っております」
庭の虫の声が、一瞬だけ途切れた。
「家令として仕える者が申し上げることではございませぬ。それは承知しております。ただ、黙ったまま側にいることが、この頃、姫君への誠実さと矛盾するように思えてきた」
真澄の声は低く、乱れがなかった。怒りでも嘆きでもない。長く抱えていたものを、ようやく形にした声だ。
「実俊殿が告白なさいました。拙者が黙っていれば、それで済む話かもしれない。しかし黙ることは、拙者が感じていることを、姫君に対して隠し続けることになる。それは——正しくないと判じました」
真白が扇を両手で持った。
「いつから」
「いつから、と問われれば——はっきりとした時が、ございません。いつの間にか、そうなっておりました」
「どうして今まで」
「申し上げられる立場ではないと、思い続けておりましたでござろう。拙者は半妖でございます。人の世に完全には属せない身で、姫君に想いを告げることは——許されないことと思っておりました」
真澄が初めて真白を見た。
その目に、何があったか。
我は真澄の横顔しか見えない位置にいたが、真白の表情が変わったのは分かった。驚きが先ではなく、何かを受け取っている顔だった。
「許されないとは思いません」と真白が言った。
「ありがとうございます」
真澄の声が、少しだけ変わった。ほんのわずかに、柔らかくなった。
「ただ——」
「はい」
「今申し上げたのは、告白のためだけではございません」
真澄が池の方へ半歩向き直った。
「姫君に想いを伝えた上で、拙者は身を引く、と申し上げたい」
「……真澄」
「実俊殿は、姫君をまっすぐに想っておいでです。人として、陰陽師として、姫君を守る力をお持ちです。拙者は半妖の血を持ち、いつまで人の側にいられるかも、自分では判じかねる」
真澄の声は揺れなかった。
「姫君の幸せを願うことと、姫君の傍にいたいと願うことを、共には持てない。それが拙者の出した答えでございます」
「それは——真澄が決めることなの? 私の意志は」
「姫君の意志を否定するつもりはございません。ただ、拙者の答えをお伝えした、ということでございます」
真白が立ち上がった。
「私は——」
「姫君」
真澄が、静かに遮った。
「今すぐお答えいただく必要はございません。拙者がお伝えしたかったのは、想いを隠して傍にいることを、これ以上しないということでございます。そして——それでも、姫君を守ることをやめるつもりは、ございません」
真白が真澄を見た。
「家令として、ではなく」
「家令として、でもございます。ただ、それだけでは、もはやございません」
庭の虫がまた鳴き始めた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
我は縁側の端で、二人を見ていた。
真白が扇を持ち直した。
「ありがとう、真澄。話してくれて」
「こちらこそ、聞いていただきました」
真澄が一礼した。
「お邪魔いたしました」
そのまま庭を横切り、母屋の奥に消えた。足音は、やはりしなかった。
真白が縁側に戻って座った。
しばらく、庭を見ていた。池の水面が、風が来ないのに少しだけ揺れていた。池の魚が動いたのか、それとも雨の前の水の変化か。
「くろまろ」
我は真白の方を向いた。
「真澄も——実俊様も」
真白が続けなかった。
続けない、というのは言葉が足りないのではなく、続ける言葉を探していない。今は受け取るだけにしている。そういう間だった。
我は真白の傍に移動した。
一尺分だけ、近づいた。
真白が我を見た。
「あなたはここにいるのね。いつも」
我は真白を見た。
いる。
声で言える言葉ではないが、今この瞬間、縁側に我がいることは事実だ。
「いるのに、何も言わない」
真白の声が、問いでも責めでもない調子になった。
「言えないのか、言わないのか、分からない。でも——いる」
真白が空を見た。
雨の前の重い空が、庭の上に広がっていた。
「真澄が身を引く、と言った。その言葉が——私には、少し、つらかったの」
我は真白の横顔を見た。
つらかった、と真白は言った。喜びでも安堵でもなく、つらかった。
真澄の想いを受け取ったからこそ、身を引くという言葉が重かった、ということだ。
「想いを持ったまま、傍にいてくれる人の方が——ずっと、側にいる」
真白が独り言のように言った。
我は黙っていた。
「くろまろ、あなたは何も言わないけれど」
真白が我に視線を下ろした。
「ずっと、ここにいる」
我は真白の目を見た。
金色の目が、真白の黒い目と合った。
何かを言うべき場面だった。
しかし声がない。声がないから、目だけで向き合っていた。
真白が先に目を逸らした。空に戻した。
「……雨が来そうね」
「来る」という意を、尾の向きで示した。
真白が笑った。笑い方は小さかったが、本物の笑いだった。
雨が降り始めたのは、それから半刻も経たない頃だった。
細い、夏の終わりを予感させる雨だ。
真白は縁側から部屋に入った。我も後に続いた。
雨音が屋根を叩き始める。
真澄はどこにいるのか、気配を探ると、屋敷の北側、廊下の奥に感じた。動いていない。立ったまま、何かを聞いているように。
雨の音を、聞いているのかもしれない。
我は真白の部屋の入口に座り、庭の雨を見た。
池の水面が、雨粒で揺れている。先ほど魚が動かした小さな波は、もうどこにも残っていない。全部、雨が上書きした。
想いを告げて、身を引く。
その言葉の重さを、我は夜まで抱えていた。
告げることができて、なお身を引く。
告げることができない者は、何をするのか。
答えは出なかった。
雨が続いている。




