表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第四章:橋姫と日常

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
92/141

第九十一話「真澄の告白」

雨が来る前の空は、独特の重さを持つ。


雲が低く垂れ込めて、風が止まる。鳥の声が消えて、虫だけが鳴き続ける。その静けさの種類が、晴れの静けさとも夜の静けさとも違う。


我は縁側の端で、その空を読んでいた。


夕刻前に降る。


そう判じた頃、葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が庭に来た。


珍しい時刻だった。真澄が庭に出るのは朝か、あるいは夜の見回りの時だ。昼間の、しかも誰も用事を言いつけていない時間に庭へ来ることは、ほとんどない。


我は縁側から真澄を見た。


真澄は池の縁に立ち、水面を見ていた。動かない。風がないから水面も動かない。二つが向き合って、静止している。


どのくらいそうしていたか。


やがて真澄が顔を上げ、縁側の我に気づいた。


目が合った。


真澄が何かを言おうとした——そう見えた。しかし言わなかった。また水面に視線を落とした。



藤原真白(ふじわら の ましろ)が縁側に出てきたのは、それから少しした後だった。


涼みに来たのか、手に扇を持っている。我の隣に腰を下ろし、庭を見た。


「真澄、どうしたの。ずっとそこにいる」


真澄が振り返った。


「少し、よろしいでしょうか」


声が、いつもと違った。


いつもの真澄の声は、感情の色を削り落としてから出てくる。厚い石の壁を通り抜けた後の声だ。しかし今日の声には、壁を通る前の何かが、わずかに残っていた。


真白が扇を閉じた。


「どうぞ」



真澄が縁側の前まで来た。


庭と縁側の間に立ったまま、上がらなかった。その立ち方が、今日の話の性質を示していた。座って話す話ではない、と真澄自身が決めている。


我は縁側の端で前脚を揃えた。


「姫君に、申し上げたいことがございます」


「はい」


「長いあいだ、言葉にしてはならぬと思っておりましたでござろう。今日、言葉にすることにいたしました」


真白が真澄を見た。真澄は真白を見ていなかった。池の方に視線が向いたまま、言葉を続けた。


「拙者は——姫君を、想っております」


庭の虫の声が、一瞬だけ途切れた。


「家令として仕える者が申し上げることではございませぬ。それは承知しております。ただ、黙ったまま側にいることが、この頃、姫君への誠実さと矛盾するように思えてきた」


真澄の声は低く、乱れがなかった。怒りでも嘆きでもない。長く抱えていたものを、ようやく形にした声だ。


「実俊殿が告白なさいました。拙者が黙っていれば、それで済む話かもしれない。しかし黙ることは、拙者が感じていることを、姫君に対して隠し続けることになる。それは——正しくないと判じました」


真白が扇を両手で持った。


「いつから」


「いつから、と問われれば——はっきりとした時が、ございません。いつの間にか、そうなっておりました」


「どうして今まで」


「申し上げられる立場ではないと、思い続けておりましたでござろう。拙者は半妖はんようでございます。人の世に完全には属せない身で、姫君に想いを告げることは——許されないことと思っておりました」


真澄が初めて真白を見た。


その目に、何があったか。


我は真澄の横顔しか見えない位置にいたが、真白の表情が変わったのは分かった。驚きが先ではなく、何かを受け取っている顔だった。


「許されないとは思いません」と真白が言った。


「ありがとうございます」


真澄の声が、少しだけ変わった。ほんのわずかに、柔らかくなった。


「ただ——」


「はい」


「今申し上げたのは、告白のためだけではございません」



真澄が池の方へ半歩向き直った。


「姫君に想いを伝えた上で、拙者は身を引く、と申し上げたい」


「……真澄」


「実俊殿は、姫君をまっすぐに想っておいでです。人として、陰陽師おんみょうじとして、姫君を守る力をお持ちです。拙者は半妖の血を持ち、いつまで人の側にいられるかも、自分では判じかねる」


真澄の声は揺れなかった。


「姫君の幸せを願うことと、姫君の傍にいたいと願うことを、共には持てない。それが拙者の出した答えでございます」


「それは——真澄が決めることなの? 私の意志は」


「姫君の意志を否定するつもりはございません。ただ、拙者の答えをお伝えした、ということでございます」


真白が立ち上がった。


「私は——」


「姫君」


真澄が、静かに遮った。


「今すぐお答えいただく必要はございません。拙者がお伝えしたかったのは、想いを隠して傍にいることを、これ以上しないということでございます。そして——それでも、姫君を守ることをやめるつもりは、ございません」


真白が真澄を見た。


「家令として、ではなく」


「家令として、でもございます。ただ、それだけでは、もはやございません」


庭の虫がまた鳴き始めた。



しばらく、誰も何も言わなかった。


我は縁側の端で、二人を見ていた。


真白が扇を持ち直した。


「ありがとう、真澄。話してくれて」


「こちらこそ、聞いていただきました」


真澄が一礼した。


「お邪魔いたしました」


そのまま庭を横切り、母屋おもやの奥に消えた。足音は、やはりしなかった。



真白が縁側に戻って座った。


しばらく、庭を見ていた。池の水面が、風が来ないのに少しだけ揺れていた。池の魚が動いたのか、それとも雨の前の水の変化か。


「くろまろ」


我は真白の方を向いた。


「真澄も——実俊様も」


真白が続けなかった。


続けない、というのは言葉が足りないのではなく、続ける言葉を探していない。今は受け取るだけにしている。そういう間だった。


我は真白の傍に移動した。


一尺ひとしゃく分だけ、近づいた。


真白が我を見た。


「あなたはここにいるのね。いつも」


我は真白を見た。


いる。


声で言える言葉ではないが、今この瞬間、縁側に我がいることは事実だ。


「いるのに、何も言わない」


真白の声が、問いでも責めでもない調子になった。


「言えないのか、言わないのか、分からない。でも——いる」


真白が空を見た。


雨の前の重い空が、庭の上に広がっていた。


「真澄が身を引く、と言った。その言葉が——私には、少し、つらかったの」


我は真白の横顔を見た。


つらかった、と真白は言った。喜びでも安堵でもなく、つらかった。


真澄の想いを受け取ったからこそ、身を引くという言葉が重かった、ということだ。


「想いを持ったまま、傍にいてくれる人の方が——ずっと、側にいる」


真白が独り言のように言った。


我は黙っていた。


「くろまろ、あなたは何も言わないけれど」


真白が我に視線を下ろした。


「ずっと、ここにいる」


我は真白の目を見た。


金色の目が、真白の黒い目と合った。


何かを言うべき場面だった。


しかし声がない。声がないから、目だけで向き合っていた。


真白が先に目を逸らした。空に戻した。


「……雨が来そうね」


「来る」という意を、尾の向きで示した。


真白が笑った。笑い方は小さかったが、本物の笑いだった。



雨が降り始めたのは、それから半刻はんときも経たない頃だった。


細い、夏の終わりを予感させる雨だ。


真白は縁側から部屋に入った。我も後に続いた。


雨音が屋根を叩き始める。


真澄はどこにいるのか、気配を探ると、屋敷の北側、廊下の奥に感じた。動いていない。立ったまま、何かを聞いているように。


雨の音を、聞いているのかもしれない。


我は真白の部屋の入口に座り、庭の雨を見た。


池の水面が、雨粒で揺れている。先ほど魚が動かした小さな波は、もうどこにも残っていない。全部、雨が上書きした。


想いを告げて、身を引く。


その言葉の重さを、我は夜まで抱えていた。


告げることができて、なお身を引く。


告げることができない者は、何をするのか。


答えは出なかった。


雨が続いている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ