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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第四章:橋姫と日常

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第九十二話「餓者髑髏の怒り」

骨が鳴る音というのは、聞いたことのある者にしか伝わらない種類の音だ。


石が石に当たる乾いた響きでも、木が軋む湿った音でもない。もっと重く、もっと深く、夜の空気を振動させながら進んでくる。


我が気配を読んだのは、夕餉ゆうげの膳を片付けた直後だった。


都の東の方角。怨念おんねんの密度が異様に高い。口無し女のような個の念ではなく、何十、いや何百という念が一塊ひとかたまりになって移動している。その重さが、大地を通して足の裏に伝わってきた。


縁側から庭へ降りる前に、葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が廊下に現れた。


玄丸くろまろ殿、お感じでしょうか」


声に緊張がある。真澄がこういう声を出す時は、本人も手加減できないと判断している時だ。


我は尾を真東に向けた。


「……左様でございます。規模が問題です」


真澄が草履を履きながら続けた。


「使いを出して真名井殿を呼びます。姫君には——」


「真澄」


廊下の奥から藤原真白(ふじわら の ましろ)の声がした。


「聞こえていたわ。行くでしょう」


問いかけではなかった。



真名井実俊(まない の さねとし)が陰陽寮おんみょうりょうからではなく、ちょうど屋敷への帰り道で使いの者に出くわしたのは幸運だった。十分ほどで到着した実俊は、走ってきた息を整える間もなく、懐から術符じゅつふを確かめ始めた。


「がしゃどくろです」


実俊が言った。


「陰陽寮にも報告が来ました。東の古戦場こせんじょうの近く——戦で倒れた兵の骨が集まっています。規模は把握できていない」


「集まっている、というのは?」


「土中の骨が動き始めた。それが寄り集まって、一つの形を作っている。がしゃどくろは個の怨念ではなく、捨て置かれた死の集合です。鎮めるには、集まった念の一つ一つに届かなければならない」


実俊が我を見た。


「玄丸殿の水の理と、真白殿の言霊があれば——理論上は可能です。ただし」


「ただし?」


「巨大です。通常のがしゃどくろで、人の背丈の二十倍から三十倍。今回は複数の戦場の骨が合わさっている可能性があります」


真白が我を見た。


我は先に歩き出した。



夜の都の東は、普段でも人が少ない。


それが今夜は、犬一匹いなかった。生き物が本能で距離を取る時の、あの独特の静けさだ。通りの先、古い寺の石垣越しに、何かが白く浮かんでいた。


白く、という言葉では足りない。


月のない夜に、月ほどの大きさで発光している。


がしゃどくろだった。


骨の巨人だ。無数の人骨が組み合わさって、一つの巨大な人形ひとがたを作っている。身の丈は石垣の三倍はある。眼窩がんかには赤い光が灯り、それが夜の空気を染めて周囲をぼんやりと赤く見せていた。手が動くたびに骨が軋み、あの音が鳴る。


「……大きい」


真白が息をのんだ。


「動き出してからでは手遅れです」


実俊がを三枚、空に向けて放った。符が光り、それぞれが別方向へ飛ぶ。


「結界で動きを遅らせます。その間に、真白殿は念の層へ声を届ける。玄丸殿は——」


我はすでに走っていた。



がしゃどくろの足元まで、我は一息で詰めた。


巨大な骨の足が地面を踏むたびに、石畳が割れた。足元の土が揺れている。念の密度は近づくほど濃くなった。個々の骨に残った記憶の断片が、怒りと悲しみの二つだけになって混ざり合っている。


これは話しかけられる相手ではない。


口無し女は言葉を待っていた。橋姫はしひめは流れることを求めていた。


がしゃどくろは、ただ、怒っていた。


戦場で死に、骨を拾われず、名も呼ばれず、何十年も土の中にあった者たちの怒りだ。形を作ったのは偶然ではない。夏の終わりに向けて界境かいきょうの薄れが進んでいる——我が北西の方角で感じ続けている気配が、こういう形で影響を出し始めていた。


「玄丸殿、足元です!」


真澄の声が飛んだ。


骨の足が我の方へ向きを変えていた。


我は横に跳んだ。石畳の上を蹴り、三尺さんしゃく横へ。足が地を叩いた場所に、石畳のかけらが飛んだ。


土の理を呼ぶ。


結界座けっかいざを展開する余裕はない。ならば足場を作る。がしゃどくろの足元の土に働きかけ、踏み込む力の一部を地中に分散させる。完全には止められない。しかし速度を殺すことはできる。


体の奥で理が動いた。意志が目的地を定め、現象が地面に滲み出る。


がしゃどくろの次の一歩が、わずかに沈んだ。


「今です!」


実俊が叫んだ。


三枚の符が同時に光り、がしゃどくろの全身に絡みついた。六芒星ろくぼうせいの結界が骨の周囲に展開される。完全な封じではない。動きを三分の一ほど縛るだけだが、それで十分だった。


真白が前に出た。



「聞いてほしい」


真白の声は大きくなかった。


叫ぶのではなく、届けようとする声だ。言霊を扱う者の発声は、音量ではなく浸透力で決まる。


「あなたたちは忘れられていた。名もなく、弔いもなく、ずっと」


がしゃどくろが止まった。


符の結界の力だけではない。真白の声に、骨の集合体が反応した。無数の個の記憶が、言葉の振動に呼ばれた。


「それは、怒って当然のことだわ」


真白が一歩前に出た。


実俊が低く「真白殿」と言ったが、止めなかった。


「でも——あなたたちが誰かに怒りをぶつけても、名前は戻らない。弔いは届かない」


がしゃどくろの眼窩の光が揺れた。


骨が軋んだ。軋みの中に、何かが混じっていた。怒りとは少し違う音が、あの巨大な体の内側から漏れていた。


真澄が我の隣に立った。声を抑えて言った。


「今が機です。怒りが揺れています」


「金の理を使いますでござろうか」


我は真澄を見た。


そうではない。


鈴声れいせいで念に触れることはできる。しかし今必要なのは、真白の声を個々の骨の記憶まで届かせることだ。水の理で念の層に通り道を開く。夢鏡むきょうの用法に近いが、対象は眠る者の夢ではなく、集合した怨念の底だ。


やったことはない。


しかし理論的に、できないとは言えない。


我は息を整えた。体の内側の回路を水の理に絞る。月のない夜でも、夏の大気には水気が多い。足元の土には長年の雨が染み込んでいる。その水気を集め、がしゃどくろが立つ地面から念の層へ向けて糸を伸ばす。


真白の声が、その糸に乗れるように。


地面が微かに湿り気を持った。がしゃどくろの足元の骨が、その湿りに触れた。


個の記憶が、わずかに緩んだ。


「今だ」と我は思わず内心で言った。



真白が詠んだ。


歌ではなかった。言葉だ。しかし普通の言葉とは違う、体の奥から引き出した言葉だった。


「帰っておいで」


それだけだった。


六文字。それだけで十分だった。


がしゃどくろの眼窩の光が、一度だけ大きくなった。


それから、消えた。


骨が鳴った。軋みではなく、組み合わさっていたものが一つずつほどけていく音だ。足から、腰から、肋骨から。順番に崩れて、地面に落ちていく。


骨が地面に積み重なっていく。


散らばりながらも、どこか整然としていた。怒りを手放した後の静けさが、白い骨の山に漂っていた。


実俊が符を解除した。


光が消えて、夜が戻った。



しばらく、四人と一匹は動かなかった。


骨の山から、まだかすかな念の残滓ざんしが漏れていたが、それはもう荒れていなかった。疲れた人間が眠りに落ちる前の、ただ重い沈黙に近かった。


「弔います」


実俊が言った。


「明日、陰陽寮に報告して、正式な弔いの式を手配します。この骨たちは、きちんと土に還るべきだ」


真白が骨の山を見ていた。


「帰っておいで、というのは——」


真白が我を見た。


「なぜあの言葉が出てきたのか、自分でも分からない」


真白が骨の方を向き直した。


「戦場で死んだ人たちが、どこへ帰るべきかは、私には分からない。でも——どこかへ帰れることは確かな気がして」


真澄が骨の前で一礼した。深く、丁寧な礼だった。


実俊が術符を収めながら、我を横目で見た。


「玄丸殿、水の理で地面から通り道を作りましたね。初めて見る用法でした」


我は骨の山を見ていた。


「鎮魂に水の理を使う。橋姫の時と同じ方向ですが——今回は集合した念に対して使った。あれは、どういう発想で」


実俊が珍しく、自分の分析ではなく問いかけの形で言った。


我は答えなかった。答える方法がない。


ただ、実俊が問いを立てた、ということは、次に実俊自身が考え続けるということだ。それで十分だ。


真白が我の傍に来た。


「怖かった?」


問いの意図が分かった。怖かったかどうかを聞いているのではない。


我は骨の山から目を外し、真白を見た。


真白が静かに笑った。


「そうね。怖いかどうかより、やることがあるほうが先ね」


真澄が実俊に近づき、声を低めて言った。


「陰陽寮の手配の件、早急にお願いしますでござろう。こういう形で出たということは、東の古戦場だけではないかもしれません」


「分かっています。他に気の淀みがある場所を探します」


二人の会話を聞きながら、我は夜空を見た。


がしゃどくろが立っていた場所に星が見えた。月のない夜の星は多い。


戦場で死んだ者たちが、どこへ帰るかは我にも分からない。ただ、怒りを手放して土に還った骨の上に、星があった。


それで何かが変わるわけではない。


しかし、真白が届けた「帰っておいで」という言葉の先に、どこかがあってほしいと——


我はそれ以上は考えなかった。


考えても仕方のないことがある。それは我が前の世界でも学んだことだ。


秋の気配が、夜風の端に混じっていた。

【妖怪図鑑】


■餓者髑髏

【分類】戦死者怨霊・集合体型

【危険度】★★★★★(最高)

【レア度】★★★★☆(希少)

【出現場所】古戦場跡、戦死者の遺骨が放置された土地、怨念の集積した廃野


【特徴】

戦場で死に、弔われないまま土に残った無数の骨が、怒りと悲しみを動力として集まり、巨大な骸骨がいこつの形を成した集合怨霊。身の丈は数十尺しゃくに及ぶものもある。眼窩がんかには怨念の炎が赤く灯り、触れたものを砕く力を持つ。鎮める方法が難しい理由は、一体の妖怪ではなく数百の個の記憶が一塊になっているためだ。一部を封じても全体は動き続ける。有効な対処は、個々の記憶に直接届く言葉か、念の集合を解きほぐす術。


【得意技】

・圧倒的な破壊力:巨体による踏みつけと骨の拳が石畳を砕く

・念の増幅:周囲の負の気を吸収して力を増す

・再結合:骨の一部を砕いても、念が残る限り再び集まる


【弱点】

・個の記憶に届く言霊ことだま

・水の理と言霊の組み合わせによる念の緩解かんかい

・怒りが「揺れる瞬間」に集中的に術を当てると崩れやすい

・弔いを受けることで念の根が消える


【生態】

単発的に現れる怨霊ではなく、長年の積み重ねによって生まれる集合体。界境かいきょうが薄れている時期に出現しやすい。個々の記憶はほぼ消えており、残るのは「怒り」と「悲しみ」の二成分のみ。言葉に反応する能力は残っているが、通常の言葉では届かない。発せられた言葉の意志の深さに反応する。


【玄丸の評価】

「集合した念に水の理で通り道を作る、という手法は今回初めて試みた。夢鏡の発展系だが、対象が眠る者の記憶ではなく、死者の怨念の集積だ。理論上は同じ構造をしているが、扱う念の重さが桁違いだった。次回以降、こういった大規模な集合体に対処する際の消耗を、もう少し正確に見積もる必要がある。真白殿の『帰っておいで』という六文字が、我が作った通り道を経て念の底まで届いた。あれは術ではなく、言霊ことだまの本質だ」


【遭遇時の対処法】

遭遇した場合、まず距離を取ること。近距離での打撃は石造りの建物でも崩す力がある。逃げる際は骨の軋む音の方向と逆に逃げること。正面に立つのは言霊使いか高位の術師のみ。一般人には手出し不可能な存在のため、陰陽寮への報告を最優先にすること。鎮まった後も骨は残るため、正式な弔いの式を必ず執り行うこと。


【豆知識】

がしゃどくろの伝承は「餓者髑髏」とも書き、飢えや無念の中で死んだ者の霊が骨に宿るという考え方に由来する。平安末期から鎌倉期にかけての絵巻物にもそれに近い描写がある。土佐光信とさ みつのぶ作とされる「百鬼夜行絵巻」にも、骸骨の巨人の姿が見られる。今回の一件で弔いの式が催されたことにより、東の古戦場跡の気の淀みは大きく軽くなったという。ただし陰陽寮の調査によると、都の周辺には他にも気の淀みを持つ古い土地が複数あることが明らかになった。

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