表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第四章:橋姫と日常

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
91/142

第九十話「のっぺらぼうの変装」

夏の盛り、夜のつじには人が来ない。


暑さで眠れない夜は逆に往来が増すものだが、この辻は違った。都の北の外れ、市が立たない日の露店の骨組みだけが残るような場所だ。昼間ですら人通りが少ない。


我が夜の散策でここを通ったのは、特に理由があったわけではない。


月が明るい夜は足が遠くまで伸びる。それだけだ。


辻の角を曲がったところで、我は足を止めた。


何かがいた。


人の形をしているが、人ではない。立っているが、落ち着きがない。体全体が、わずかに震えるように揺れていた。


妖気は薄い。敵意はない。むしろ、何かに必死になっている気配がした。



近づくと、その輪郭が月明かりの中で見えた。


女の姿をしていた。年の頃は分からない。着物は白みがかった薄い色で、髪は長く結われている。立ち姿は整っている。


ただし、顔がなかった。


目も鼻も口もない。顔があるべき場所が、なめらかな曲面だけになっている。


のっぺらぼうだ。


その顔のない存在が、何をしていたかといえば——水の張ったおけの前に立ち、水面を覗き込んでいた。


水面に映る自分の顔のない顔を見ながら、両手で自分の顔の輪郭を触っていた。額からあごへ、頬から鼻があるべき場所へ。指先が確かめるように動いている。


何かを作ろうとしている。


我は三間さんけんほど離れた場所に座り、その様子を観察することにした。



しばらく見ていると、顔が変わり始めた。


薄い皮膚の下で何かが動くように、ゆっくりと輪郭が浮かび上がってくる。まず額の真ん中に、目のような膨らみが現れた。次に、鼻の位置に影が落ちた。口になるべき線が、薄く引かれた。


しかし、どこかがずれている。


目の位置が高すぎる。鼻が左に寄っている。口の線が曲がっている。


のっぺらぼうが水面を覗き込んだ。


映った顔を見て、肩が落ちた。


両手をまた顔に当て、修正しようとした。しかし指先が触れるたびに、せっかく作った輪郭がずれていく。まるで柔らかい粘土を整形しようとして、触るたびに崩れるようだ。


また最初から。


顔が消える。また作る。また崩れる。


我はその繰り返しを、五度ほど見届けた。



「うまくいかない」


のっぺらぼうが言った。独り言だったが、我の方を向いて言った。


いつから気づいていたのか。最初から分かっていたのかもしれない。


「猫が来た、と思っていた。追い払う気力もなかったから、放っておいた」


我は動かなかった。


「見ていたでしょう。五回、失敗した」


我は水桶の方へ視線を向けた。水面に月が映っている。今は顔のない顔が映っている。


「人の顔が作れない」


のっぺらぼうが桶の縁に手をついた。


「顔があれば、人に化けられる。化けられれば、昼間に市に行ける。買い物ができる。人と話せる。——そういうことが、したい」


声に切実さがあった。怒りでも嘆きでもなく、ただ、したいことがある、という切実さだ。


我は立ち上がり、桶の傍へ歩いた。


のっぺらぼうが少し体を引いたが、逃げなかった。


我は桶の水面を覗いた。月と、のっぺらぼうの顔のない顔と、黒い毛並みの猫が映っている。


のっぺらぼうが水面の我を見て、少し力が抜けた様子になった。


「猫に顔の作り方を聞いても仕方ないわね」



人の顔とはどういうものか、我は改めて考えた。


目の間隔、鼻の高さ、口の幅。それらの比率に標準がある。人が「人の顔」と認識するために必要な条件がある。


しかし、顔とはそれだけではない。


笑う顔、怒る顔、眠る顔、考える顔——同じ目と鼻と口でも、配置が同じでも、その瞬間の気配が顔を作る。


のっぺらぼうに足りていないのは、比率ではないかもしれない。


我は桶の縁に前脚をかけ、水面を見た。


自分の顔が映っている。


黒い毛、金色の目、平たい鼻、ひげ。これがこの体の顔だ。前の世界では、これとは全く違う顔をしていた。今はこれが我の顔だ。


「……なに?」


のっぺらぼうが我を見た。


我は水面から顔を上げ、のっぺらぼうの顔のない顔を見た。


顔がない、とはどういうことか。


顔がないから人ではない、ということか。顔を作れば人になれるのか。


そうではないだろう。


市に行きたい、買い物がしたい、人と話したい——それらを望んでいるのは、今の顔のない姿のまま存在しているこの者だ。顔を作ったとしても、望んでいるのは同じ者だ。


我は水桶の前から離れ、のっぺらぼうの前に座った。


のっぺらぼうが我を見下ろした。


「何か言いたそう」


我は尻尾を一度、低く払った。


「猫には顔がある。わたしにはない。羨ましい、とは思わないの?」


羨ましい、という問いは的外れだ。


我は自分の顔を選んでここにいるわけではない。今の体に宿ったから、今の顔がある。それ以上でも以下でもない。


「……あなたは考え込む猫ね」


のっぺらぼうが水桶の縁に腰を下ろした。夜の辻に二つの影が落ちた。


「顔を作ろうとするのは、顔がないと生きにくいから。怖がられる。逃げられる。声をかけても、悲鳴が返ってくる」


「それは分かる。我も猫だから、人に怖がられることがある」


そういう意を込めて、前脚を折り畳んだ。


「でも猫は顔がある。形が決まっている」


のっぺらぼうが水面を見た。


「わたしは、形が決まっていない」



形が決まっていない。


我はその言葉を受け取りながら、少し別のことを考えた。


形が決まっていないということは、何にでもなれる可能性がある、という話でもある。顔がないということは、まだ何者でもないということだ。それは不便だが、縛りがないということでもある。


しかし、それをのっぺらぼうに言っても、慰めにしか聞こえないだろう。今必要なのは、市に行けるかどうかの話だ。


我は別のことを考えた。


顔を完璧に作れなくても、人に交じる方法があるか、ということだ。


かさ。あるいは布。顔を隠す手段は、人間の世界にもある。巡礼の僧侶は深い笠を被る。市に来る者の中には、様々な理由で顔を隠す者もいる。


我は立ち上がり、のっぺらぼうの足元の方向へ一歩歩いた。


のっぺらぼうが我を見た。


「どこへ」


我は止まって、のっぺらぼうを見上げた。頭の上、笠をかぶる位置を、視線で示した。


のっぺらぼうが少し首を傾けた。


「笠?」


我は再び水面を見た。映った自分の顔と、のっぺらぼうの顔のない顔が並んでいる。


「……笠で隠せば、市に入れるかもしれない」


のっぺらぼうが独り言のように言った。


「顔を作らなくても」


我は動かなかった。


「そういう考え方は、していなかった。顔を作ることだけを考えていたから」


のっぺらぼうが桶の縁から立ち上がった。立ち方が先ほどと違った。肩の位置が少し上がっていた。


「顔のないままで行く、ということね」


そうではない。笠で隠す、ということだ——という区別を、今ここでする必要はないかもしれない。


のっぺらぼうが、夜の空を仰いだ。


「顔のないままでいい、と言う者は初めてだったわ」


我は何も言っていないが、そう受け取られたなら、それでいい。


言葉は届いた形になれば、言った通りである必要はない。



「名前を聞いてもいい?」


のっぺらぼうが我に問うた。


答える手段がないので、水面をひと撫でするように前脚を水に触れさせた。波紋が広がって、映っていた月が揺れた。


「くろまろ、というの?」


我は水面から前脚を引いた。濡れた。毛の先が夜気に冷えた。


「わたしは名前を持っていない。顔がないから、誰もつけてくれなかった」


のっぺらぼうが水面を見た。揺れた月が、少しずつ元の形に戻っていく。


「笠を探してみる。明日、市の近くの古道具屋に行ってみる。笠があれば——顔のないままで、行けるかもしれない」


我は桶の前から離れた。


帰る方向に体を向けた。


「また来る?」


のっぺらぼうが声をかけた。


我は振り返らなかった。


答えの代わりに、尻尾を一度だけ立てた。



屋敷に戻ると、夜はまだ深かった。


藤原真白(ふじわら の ましろ)の部屋の行灯あんどんは消えていた。眠っている。我は縁側から部屋に入り、真白の傍に落ち着いた。


夏の夜の虫の声が、続いている。


顔がないということを、我は今夜初めて真剣に考えた。


前の世界での我の顔は、今はない。今の顔は、猫の顔だ。それが我の顔として機能している。人には見えない前の顔を、我だけが知っている。


のっぺらぼうは顔を作ろうとしていた。


我は顔を変えることができない。


どちらが不自由かは、判じがたい。


ただ、のっぺらぼうが「顔のないままでいい」と言葉を受け取ったとき、肩が上がった。


それは確かなことだ。


真白の寝息が、一定の深さで続いている。


我は目を細めた。


夜が明ければ、のっぺらぼうは古道具屋へ向かうだろう。笠を手に入れられるかどうかは分からない。それでも、今夜より一つ、手段が増えた。


虫の声の間に、遠くで風が鳴った。


秋はまだ先だが、夏の夜の風にも、涼しさの端がある。

【妖怪図鑑】


■のっぺらぼう

【分類】無貌妖怪(変化系)

【危険度】★☆☆☆☆(無害)

【レア度】★★★☆☆(目撃談は多いが実態不明なことも多い)

【出現場所】夜の辻、人気のない道、水辺の近く


【特徴】

目も鼻も口も持たない、滑らかな顔面を持つ妖怪。人の形をしているが、顔の部分だけが欠けている。夜道で出会った人間が「顔がない」と気づいて驚く、という形で語られることが多い。

怖がらせることが本来の性質とされるが、今回出会った個体は人を驚かせることよりも、人と交わることを望んでいた。市に行きたい、買い物をしたい、人と話したいという望みを持ちながら、顔がないために怖がられ、それを克服しようとひとりで顔を作る練習をしていた。

顔を自由に形成できる能力を持つが、精度の維持が難しく、人間の顔に近づけるほど崩れやすくなる。変化の力は持つが、使いこなせていない段階にある。


【得意技】

無貌むぼう:顔を完全に消すことができる。この状態は安定しており、逆に保つことが容易

・顔形成(試行中):皮膚の下から目鼻口の輪郭を作り出す。ただし精度が低く、比率がずれることが多い

・気配薄め:夜の暗がりに溶け込む。人間には姿を認識されにくい


【弱点】

・顔を作ろうとするほど不安定になる

・鏡や水面への映り込みに敏感で、映った姿を見ると制御を乱すことがある

・怖がられることへの免疫がなく、悲鳴を聞くと動揺する


【生態】

単独行動。特定の縄張りを持たず、夜の都を歩き回っている。昼間は人が多いため行動できない。人間社会への関心が高く、市の喧騒や店の並びを遠くから眺めることがある。名前を持たない。顔がないから命名されなかった、と本人は語る。

笠や布で顔を隠して昼間の市に出向く方法を、今回の出会いで初めて考えた。その後の行動については不明。


【玄丸の評価】

「顔がない、というのは形の話だ。しかしあの者が望んでいることは、形ではなく関わりだ。顔を作ることと、顔があることは別の話で、笠で隠すことと顔がないことも別の話だ。ただ、あの者は今夜、手段を一つ得た。それで十分ではないか。——形が決まっていないということを、不自由と見るか余白と見るかは、その者が決める」


【遭遇時の対処法】

夜道で顔のない者に出会っても、慌てて逃げないこと。追いかけてくることはほぼない。静かに「こんばんは」と声をかけると、驚いて固まることがある。その間に落ち着いて離れると良い。悪意はなく、むしろ人間との交流を望んでいる場合もある。


【豆知識】

のっぺらぼうの伝承は各地に残るが、特に有名なのは小泉八雲こいずみやくもが記録した話で、夜道で顔のない女に出会い、食べ物を売る屋台に逃げ込んだところ、屋台の主人もまた顔がなかった——という話が知られている。怖がらせることが目的の存在として語られることが多いが、顔がないという状態そのものが何を意味するのかについては、様々な解釈がある。顔は他者に向けるものであり、顔がないということは他者との関係の中に生まれる「顔」を持てないということかもしれない。あるいは、どんな顔にでもなれる可能性だけが残った状態とも言える。今回の個体は、後者の解釈に近い在り方をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ