第九十話「のっぺらぼうの変装」
夏の盛り、夜の辻には人が来ない。
暑さで眠れない夜は逆に往来が増すものだが、この辻は違った。都の北の外れ、市が立たない日の露店の骨組みだけが残るような場所だ。昼間ですら人通りが少ない。
我が夜の散策でここを通ったのは、特に理由があったわけではない。
月が明るい夜は足が遠くまで伸びる。それだけだ。
辻の角を曲がったところで、我は足を止めた。
何かがいた。
人の形をしているが、人ではない。立っているが、落ち着きがない。体全体が、わずかに震えるように揺れていた。
妖気は薄い。敵意はない。むしろ、何かに必死になっている気配がした。
近づくと、その輪郭が月明かりの中で見えた。
女の姿をしていた。年の頃は分からない。着物は白みがかった薄い色で、髪は長く結われている。立ち姿は整っている。
ただし、顔がなかった。
目も鼻も口もない。顔があるべき場所が、なめらかな曲面だけになっている。
のっぺらぼうだ。
その顔のない存在が、何をしていたかといえば——水の張った桶の前に立ち、水面を覗き込んでいた。
水面に映る自分の顔のない顔を見ながら、両手で自分の顔の輪郭を触っていた。額から顎へ、頬から鼻があるべき場所へ。指先が確かめるように動いている。
何かを作ろうとしている。
我は三間ほど離れた場所に座り、その様子を観察することにした。
しばらく見ていると、顔が変わり始めた。
薄い皮膚の下で何かが動くように、ゆっくりと輪郭が浮かび上がってくる。まず額の真ん中に、目のような膨らみが現れた。次に、鼻の位置に影が落ちた。口になるべき線が、薄く引かれた。
しかし、どこかがずれている。
目の位置が高すぎる。鼻が左に寄っている。口の線が曲がっている。
のっぺらぼうが水面を覗き込んだ。
映った顔を見て、肩が落ちた。
両手をまた顔に当て、修正しようとした。しかし指先が触れるたびに、せっかく作った輪郭がずれていく。まるで柔らかい粘土を整形しようとして、触るたびに崩れるようだ。
また最初から。
顔が消える。また作る。また崩れる。
我はその繰り返しを、五度ほど見届けた。
「うまくいかない」
のっぺらぼうが言った。独り言だったが、我の方を向いて言った。
いつから気づいていたのか。最初から分かっていたのかもしれない。
「猫が来た、と思っていた。追い払う気力もなかったから、放っておいた」
我は動かなかった。
「見ていたでしょう。五回、失敗した」
我は水桶の方へ視線を向けた。水面に月が映っている。今は顔のない顔が映っている。
「人の顔が作れない」
のっぺらぼうが桶の縁に手をついた。
「顔があれば、人に化けられる。化けられれば、昼間に市に行ける。買い物ができる。人と話せる。——そういうことが、したい」
声に切実さがあった。怒りでも嘆きでもなく、ただ、したいことがある、という切実さだ。
我は立ち上がり、桶の傍へ歩いた。
のっぺらぼうが少し体を引いたが、逃げなかった。
我は桶の水面を覗いた。月と、のっぺらぼうの顔のない顔と、黒い毛並みの猫が映っている。
のっぺらぼうが水面の我を見て、少し力が抜けた様子になった。
「猫に顔の作り方を聞いても仕方ないわね」
人の顔とはどういうものか、我は改めて考えた。
目の間隔、鼻の高さ、口の幅。それらの比率に標準がある。人が「人の顔」と認識するために必要な条件がある。
しかし、顔とはそれだけではない。
笑う顔、怒る顔、眠る顔、考える顔——同じ目と鼻と口でも、配置が同じでも、その瞬間の気配が顔を作る。
のっぺらぼうに足りていないのは、比率ではないかもしれない。
我は桶の縁に前脚をかけ、水面を見た。
自分の顔が映っている。
黒い毛、金色の目、平たい鼻、ひげ。これがこの体の顔だ。前の世界では、これとは全く違う顔をしていた。今はこれが我の顔だ。
「……なに?」
のっぺらぼうが我を見た。
我は水面から顔を上げ、のっぺらぼうの顔のない顔を見た。
顔がない、とはどういうことか。
顔がないから人ではない、ということか。顔を作れば人になれるのか。
そうではないだろう。
市に行きたい、買い物がしたい、人と話したい——それらを望んでいるのは、今の顔のない姿のまま存在しているこの者だ。顔を作ったとしても、望んでいるのは同じ者だ。
我は水桶の前から離れ、のっぺらぼうの前に座った。
のっぺらぼうが我を見下ろした。
「何か言いたそう」
我は尻尾を一度、低く払った。
「猫には顔がある。わたしにはない。羨ましい、とは思わないの?」
羨ましい、という問いは的外れだ。
我は自分の顔を選んでここにいるわけではない。今の体に宿ったから、今の顔がある。それ以上でも以下でもない。
「……あなたは考え込む猫ね」
のっぺらぼうが水桶の縁に腰を下ろした。夜の辻に二つの影が落ちた。
「顔を作ろうとするのは、顔がないと生きにくいから。怖がられる。逃げられる。声をかけても、悲鳴が返ってくる」
「それは分かる。我も猫だから、人に怖がられることがある」
そういう意を込めて、前脚を折り畳んだ。
「でも猫は顔がある。形が決まっている」
のっぺらぼうが水面を見た。
「わたしは、形が決まっていない」
形が決まっていない。
我はその言葉を受け取りながら、少し別のことを考えた。
形が決まっていないということは、何にでもなれる可能性がある、という話でもある。顔がないということは、まだ何者でもないということだ。それは不便だが、縛りがないということでもある。
しかし、それをのっぺらぼうに言っても、慰めにしか聞こえないだろう。今必要なのは、市に行けるかどうかの話だ。
我は別のことを考えた。
顔を完璧に作れなくても、人に交じる方法があるか、ということだ。
笠。あるいは布。顔を隠す手段は、人間の世界にもある。巡礼の僧侶は深い笠を被る。市に来る者の中には、様々な理由で顔を隠す者もいる。
我は立ち上がり、のっぺらぼうの足元の方向へ一歩歩いた。
のっぺらぼうが我を見た。
「どこへ」
我は止まって、のっぺらぼうを見上げた。頭の上、笠をかぶる位置を、視線で示した。
のっぺらぼうが少し首を傾けた。
「笠?」
我は再び水面を見た。映った自分の顔と、のっぺらぼうの顔のない顔が並んでいる。
「……笠で隠せば、市に入れるかもしれない」
のっぺらぼうが独り言のように言った。
「顔を作らなくても」
我は動かなかった。
「そういう考え方は、していなかった。顔を作ることだけを考えていたから」
のっぺらぼうが桶の縁から立ち上がった。立ち方が先ほどと違った。肩の位置が少し上がっていた。
「顔のないままで行く、ということね」
そうではない。笠で隠す、ということだ——という区別を、今ここでする必要はないかもしれない。
のっぺらぼうが、夜の空を仰いだ。
「顔のないままでいい、と言う者は初めてだったわ」
我は何も言っていないが、そう受け取られたなら、それでいい。
言葉は届いた形になれば、言った通りである必要はない。
「名前を聞いてもいい?」
のっぺらぼうが我に問うた。
答える手段がないので、水面をひと撫でするように前脚を水に触れさせた。波紋が広がって、映っていた月が揺れた。
「くろまろ、というの?」
我は水面から前脚を引いた。濡れた。毛の先が夜気に冷えた。
「わたしは名前を持っていない。顔がないから、誰もつけてくれなかった」
のっぺらぼうが水面を見た。揺れた月が、少しずつ元の形に戻っていく。
「笠を探してみる。明日、市の近くの古道具屋に行ってみる。笠があれば——顔のないままで、行けるかもしれない」
我は桶の前から離れた。
帰る方向に体を向けた。
「また来る?」
のっぺらぼうが声をかけた。
我は振り返らなかった。
答えの代わりに、尻尾を一度だけ立てた。
屋敷に戻ると、夜はまだ深かった。
藤原真白(ふじわら の ましろ)の部屋の行灯は消えていた。眠っている。我は縁側から部屋に入り、真白の傍に落ち着いた。
夏の夜の虫の声が、続いている。
顔がないということを、我は今夜初めて真剣に考えた。
前の世界での我の顔は、今はない。今の顔は、猫の顔だ。それが我の顔として機能している。人には見えない前の顔を、我だけが知っている。
のっぺらぼうは顔を作ろうとしていた。
我は顔を変えることができない。
どちらが不自由かは、判じがたい。
ただ、のっぺらぼうが「顔のないままでいい」と言葉を受け取ったとき、肩が上がった。
それは確かなことだ。
真白の寝息が、一定の深さで続いている。
我は目を細めた。
夜が明ければ、のっぺらぼうは古道具屋へ向かうだろう。笠を手に入れられるかどうかは分からない。それでも、今夜より一つ、手段が増えた。
虫の声の間に、遠くで風が鳴った。
秋はまだ先だが、夏の夜の風にも、涼しさの端がある。
【妖怪図鑑】
■のっぺらぼう
【分類】無貌妖怪(変化系)
【危険度】★☆☆☆☆(無害)
【レア度】★★★☆☆(目撃談は多いが実態不明なことも多い)
【出現場所】夜の辻、人気のない道、水辺の近く
【特徴】
目も鼻も口も持たない、滑らかな顔面を持つ妖怪。人の形をしているが、顔の部分だけが欠けている。夜道で出会った人間が「顔がない」と気づいて驚く、という形で語られることが多い。
怖がらせることが本来の性質とされるが、今回出会った個体は人を驚かせることよりも、人と交わることを望んでいた。市に行きたい、買い物をしたい、人と話したいという望みを持ちながら、顔がないために怖がられ、それを克服しようとひとりで顔を作る練習をしていた。
顔を自由に形成できる能力を持つが、精度の維持が難しく、人間の顔に近づけるほど崩れやすくなる。変化の力は持つが、使いこなせていない段階にある。
【得意技】
・無貌:顔を完全に消すことができる。この状態は安定しており、逆に保つことが容易
・顔形成(試行中):皮膚の下から目鼻口の輪郭を作り出す。ただし精度が低く、比率がずれることが多い
・気配薄め:夜の暗がりに溶け込む。人間には姿を認識されにくい
【弱点】
・顔を作ろうとするほど不安定になる
・鏡や水面への映り込みに敏感で、映った姿を見ると制御を乱すことがある
・怖がられることへの免疫がなく、悲鳴を聞くと動揺する
【生態】
単独行動。特定の縄張りを持たず、夜の都を歩き回っている。昼間は人が多いため行動できない。人間社会への関心が高く、市の喧騒や店の並びを遠くから眺めることがある。名前を持たない。顔がないから命名されなかった、と本人は語る。
笠や布で顔を隠して昼間の市に出向く方法を、今回の出会いで初めて考えた。その後の行動については不明。
【玄丸の評価】
「顔がない、というのは形の話だ。しかしあの者が望んでいることは、形ではなく関わりだ。顔を作ることと、顔があることは別の話で、笠で隠すことと顔がないことも別の話だ。ただ、あの者は今夜、手段を一つ得た。それで十分ではないか。——形が決まっていないということを、不自由と見るか余白と見るかは、その者が決める」
【遭遇時の対処法】
夜道で顔のない者に出会っても、慌てて逃げないこと。追いかけてくることはほぼない。静かに「こんばんは」と声をかけると、驚いて固まることがある。その間に落ち着いて離れると良い。悪意はなく、むしろ人間との交流を望んでいる場合もある。
【豆知識】
のっぺらぼうの伝承は各地に残るが、特に有名なのは小泉八雲が記録した話で、夜道で顔のない女に出会い、食べ物を売る屋台に逃げ込んだところ、屋台の主人もまた顔がなかった——という話が知られている。怖がらせることが目的の存在として語られることが多いが、顔がないという状態そのものが何を意味するのかについては、様々な解釈がある。顔は他者に向けるものであり、顔がないということは他者との関係の中に生まれる「顔」を持てないということかもしれない。あるいは、どんな顔にでもなれる可能性だけが残った状態とも言える。今回の個体は、後者の解釈に近い在り方をしていた。




