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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第四章:橋姫と日常

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第八十九話「真白の返事」

三日後、実俊さねとしからふみが届いた。


使いのわらわが門前に文を置いて、すぐに帰った。受け取ったのはおうめで、真白ましろに渡したのは昼過ぎだった。


我は縁側から、その一部始終を見ていた。


文は薄紅の料紙りょうしではなかった。白い、実用的な紙だ。急ぎではなく、かといって改まってもいない。実俊らしい選択だと我は判じた。


真白は文机ふみづくえに向かって封を開けた。読んだ。


顔色は変わらなかった。ただ、読み終えてから、文を膝の上に置いて少しの間だけ空を見た。


考えているのではない。受け取っている。届いた言葉を、体の中に収める時の間だ。


我は縁側に前脚を揃えて、黙っていた。



文の内容は後で知れた。


「先日は唐突でした。しばらく何も言いません。ただ、いつか返事をください。それだけを待っています」


それだけが書かれていたと、真白が葛上真澄(かずらがみ の ますみ)に話しているのを聞いた。真澄が何と答えたかは聞こえなかったが、真白の方が「実俊様は誠実な方ね」と続けていた。


誠実、という言葉の使い方が、我には少し気になった。


誠実、は好意の言葉だが、恋の言葉とは少し違う。



返事の文を真白が書いたのは、その翌日だった。


我は文机の脇に座っていた。


筆が迷う場面が二度あった。一度目は書き出しで、二度目は書き終える前だ。どちらも長い迷いではなく、呼吸ひとつ分の止まり方だった。


書き終えた真白が、文を畳みながら我を見た。


「くろまろ、あなたはずるいわ」


我は真白を見た。


「何も言わないのに、全部見ている顔をしているから」


全部は見ていない。


しかし反論の手段がないので、尾の先を一度動かした。それが何を意味するかは、真白にしか分からない。



返事の文が届いたのは三日後、実俊が次に屋敷を訪れる形になった。


使用人を通さず、真白が直接渡した。二人が縁側の端で向き合っているのを、我は庭石の上から眺めていた。


「読んでください」


「はい」


実俊が文を開いた。


読む速度が、通常の半分ほどだった。一行ずつ、確かめながら読んでいる。


読み終えて、顔を上げた。その目に、何かを問う色が出た。


「大切な人、と書いてくださいました」


「ええ」


「しかし——」


「今すぐには、答えられません」


真白の声は、穏やかだった。謝罪でも拒絶でもなく、ただ今の状態をそのまま言葉にした声だ。


「理由を聞いてもよいですか」


実俊が問うた。陰陽師らしい聞き方だ。分からないことを分からないままにしておけない。


真白が少し考えた。


「理由というか——何かが、まだ定まっていないのです。私の中で」


「何かが」


「ええ。うまく言えないけれど」


実俊が文を折り直した。丁寧に、角を揃えて。


「分かりました」


諦めでも怒りでもない声だった。


「定まるまで、待ちます」


真白が実俊を見た。


「意地悪なことを言うようですが——いつ定まるかは、私にも分かりません」


「それでも、待ちます」


実俊が言い切った。


真白が小さく頷いた。



実俊が帰った後、真白はしばらく縁側に座っていた。


我が庭石から縁側に上がると、真白は我の方を向かず、庭を見たままだった。


「くろまろ」


「……」


「さっき、実俊様に嘘をついた気がして」


我は真白の横に座った。


「定まっていない、というのは本当よ。でも——定まっていないのに、何かが既にある気もして」


風が庭の葉を揺らした。夏の午後の風は重く、遠くの水の匂いがある。


「面倒な話ね、と思うでしょう」


面倒とは思わない。


「……くろまろ、あなたは不思議ね」


真白がようやく我を見た。


「怒ったり、急かしたり、何も言わない。ただここにいる。それがずっと、当たり前になっているの」


当たり前、という言葉が我の中で少し響いた。


当たり前であることと、重要であることは、必ずしも同じではない。


「ねえ」と真白が続けた。声が少し変わった。日常の話をする時と、少しだけ異なる質になった。


「実俊様に、なぜ答えられないか、自分でも分からないでいる。嫌いではない、大切だと思っている、それは本当のことなのに——何かが足りないみたいな、それとも何かがあるみたいな」


何かが足りないのではなく、何かがある——と言い直したことに、我は気づいた。


「あなたに話しているのは、おかしいわね。猫に」


おかしくない。


しかし声が出ないから、前足の位置をわずかに真白の方へ動かした。ほんの一寸いっすんだ。


真白がそれを見て、口の端がわずかに緩んだ。


「やっぱりずるい」


今度の「ずるい」は、先日と少し違う色をしていた。



夜、母君ははぎみの部屋から帰ってきた真白が、行灯あんどんの前に座った。


秋が近づいてきたのか、夜の風が昨夜より涼しかった。


「母上に話しました」と真白が独り言のように言った。我は文机の傍に座っていた。


「実俊様のことを。そうしたら——」


真白が行灯の火を見た。


「母上が笑って、『あなたはずいぶん前から、その猫のことを話すのね』と言ったの」


我は真白を見た。


「そう言われると、確かにそうなの。実俊様の話をする時も、真澄の話をする時も、宇治の話をする時も——いつも、くろまろのことが出てくる」


出てくる、と真白は言った。


意図して話しているわけではないが、気づくと含まれている、ということだ。


「おかしいでしょう」


おかしくない。


「猫の話が、自然に混ざってしまうの。まるで——」


真白が言葉を止めた。


止まった場所を、我は待った。


続きは来なかった。


真白が行灯の油を確かめ、芯を直した。先日、油すましに戒められてから、真白は行灯の手入れを怠らない。小さな習慣が変わった。


「くろまろ、今夜は傍にいてくれる?」


我は文机の脇から縁側に移り、真白が横になった布団の傍に場所を決めた。


真白が横になり、灯りが消えた。


暗い中で、真白の息が少しずつ深くなっていく。


眠りに入る前に、真白が一言だけ言った。


「ありがとう」


誰に向けているのか、特定できない言葉だった。


実俊に向けているのかもしれない。母君に向けているのかもしれない。


あるいは。


我はその「ありがとう」を、受け取ることも払うこともせず、ただ夜の中に聞いた。


真白の寝息が、一定のリズムになった。


我は目を細めた。


縁側の向こう、夜の庭で虫が鳴いている。秋の気配を先取りした声だ。桜の木が暗がりの中に立っているが、今夜は見えない。


いる、とだけ分かる。


それで十分だ。

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