第八十九話「真白の返事」
三日後、実俊から文が届いた。
使いの童が門前に文を置いて、すぐに帰った。受け取ったのはお梅で、真白に渡したのは昼過ぎだった。
我は縁側から、その一部始終を見ていた。
文は薄紅の料紙ではなかった。白い、実用的な紙だ。急ぎではなく、かといって改まってもいない。実俊らしい選択だと我は判じた。
真白は文机に向かって封を開けた。読んだ。
顔色は変わらなかった。ただ、読み終えてから、文を膝の上に置いて少しの間だけ空を見た。
考えているのではない。受け取っている。届いた言葉を、体の中に収める時の間だ。
我は縁側に前脚を揃えて、黙っていた。
文の内容は後で知れた。
「先日は唐突でした。しばらく何も言いません。ただ、いつか返事をください。それだけを待っています」
それだけが書かれていたと、真白が葛上真澄(かずらがみ の ますみ)に話しているのを聞いた。真澄が何と答えたかは聞こえなかったが、真白の方が「実俊様は誠実な方ね」と続けていた。
誠実、という言葉の使い方が、我には少し気になった。
誠実、は好意の言葉だが、恋の言葉とは少し違う。
返事の文を真白が書いたのは、その翌日だった。
我は文机の脇に座っていた。
筆が迷う場面が二度あった。一度目は書き出しで、二度目は書き終える前だ。どちらも長い迷いではなく、呼吸ひとつ分の止まり方だった。
書き終えた真白が、文を畳みながら我を見た。
「くろまろ、あなたはずるいわ」
我は真白を見た。
「何も言わないのに、全部見ている顔をしているから」
全部は見ていない。
しかし反論の手段がないので、尾の先を一度動かした。それが何を意味するかは、真白にしか分からない。
返事の文が届いたのは三日後、実俊が次に屋敷を訪れる形になった。
使用人を通さず、真白が直接渡した。二人が縁側の端で向き合っているのを、我は庭石の上から眺めていた。
「読んでください」
「はい」
実俊が文を開いた。
読む速度が、通常の半分ほどだった。一行ずつ、確かめながら読んでいる。
読み終えて、顔を上げた。その目に、何かを問う色が出た。
「大切な人、と書いてくださいました」
「ええ」
「しかし——」
「今すぐには、答えられません」
真白の声は、穏やかだった。謝罪でも拒絶でもなく、ただ今の状態をそのまま言葉にした声だ。
「理由を聞いてもよいですか」
実俊が問うた。陰陽師らしい聞き方だ。分からないことを分からないままにしておけない。
真白が少し考えた。
「理由というか——何かが、まだ定まっていないのです。私の中で」
「何かが」
「ええ。うまく言えないけれど」
実俊が文を折り直した。丁寧に、角を揃えて。
「分かりました」
諦めでも怒りでもない声だった。
「定まるまで、待ちます」
真白が実俊を見た。
「意地悪なことを言うようですが——いつ定まるかは、私にも分かりません」
「それでも、待ちます」
実俊が言い切った。
真白が小さく頷いた。
実俊が帰った後、真白はしばらく縁側に座っていた。
我が庭石から縁側に上がると、真白は我の方を向かず、庭を見たままだった。
「くろまろ」
「……」
「さっき、実俊様に嘘をついた気がして」
我は真白の横に座った。
「定まっていない、というのは本当よ。でも——定まっていないのに、何かが既にある気もして」
風が庭の葉を揺らした。夏の午後の風は重く、遠くの水の匂いがある。
「面倒な話ね、と思うでしょう」
面倒とは思わない。
「……くろまろ、あなたは不思議ね」
真白がようやく我を見た。
「怒ったり、急かしたり、何も言わない。ただここにいる。それがずっと、当たり前になっているの」
当たり前、という言葉が我の中で少し響いた。
当たり前であることと、重要であることは、必ずしも同じではない。
「ねえ」と真白が続けた。声が少し変わった。日常の話をする時と、少しだけ異なる質になった。
「実俊様に、なぜ答えられないか、自分でも分からないでいる。嫌いではない、大切だと思っている、それは本当のことなのに——何かが足りないみたいな、それとも何かがあるみたいな」
何かが足りないのではなく、何かがある——と言い直したことに、我は気づいた。
「あなたに話しているのは、おかしいわね。猫に」
おかしくない。
しかし声が出ないから、前足の位置をわずかに真白の方へ動かした。ほんの一寸だ。
真白がそれを見て、口の端がわずかに緩んだ。
「やっぱりずるい」
今度の「ずるい」は、先日と少し違う色をしていた。
夜、母君の部屋から帰ってきた真白が、行灯の前に座った。
秋が近づいてきたのか、夜の風が昨夜より涼しかった。
「母上に話しました」と真白が独り言のように言った。我は文机の傍に座っていた。
「実俊様のことを。そうしたら——」
真白が行灯の火を見た。
「母上が笑って、『あなたはずいぶん前から、その猫のことを話すのね』と言ったの」
我は真白を見た。
「そう言われると、確かにそうなの。実俊様の話をする時も、真澄の話をする時も、宇治の話をする時も——いつも、くろまろのことが出てくる」
出てくる、と真白は言った。
意図して話しているわけではないが、気づくと含まれている、ということだ。
「おかしいでしょう」
おかしくない。
「猫の話が、自然に混ざってしまうの。まるで——」
真白が言葉を止めた。
止まった場所を、我は待った。
続きは来なかった。
真白が行灯の油を確かめ、芯を直した。先日、油すましに戒められてから、真白は行灯の手入れを怠らない。小さな習慣が変わった。
「くろまろ、今夜は傍にいてくれる?」
我は文机の脇から縁側に移り、真白が横になった布団の傍に場所を決めた。
真白が横になり、灯りが消えた。
暗い中で、真白の息が少しずつ深くなっていく。
眠りに入る前に、真白が一言だけ言った。
「ありがとう」
誰に向けているのか、特定できない言葉だった。
実俊に向けているのかもしれない。母君に向けているのかもしれない。
あるいは。
我はその「ありがとう」を、受け取ることも払うこともせず、ただ夜の中に聞いた。
真白の寝息が、一定のリズムになった。
我は目を細めた。
縁側の向こう、夜の庭で虫が鳴いている。秋の気配を先取りした声だ。桜の木が暗がりの中に立っているが、今夜は見えない。
いる、とだけ分かる。
それで十分だ。




