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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第四章:橋姫編と日常

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第八十八話「実俊の告白」

縁側えんがわさんに背を預け、我は庭の桜を見ていた。


花は一粒も残っていない。葉が茂って、今は影を作るだけの木になっている。春にあれほど騒がれた枝が、夏の重みを静かに受けとめている。


それでいい。桜というものは、散ってからの方が長い。


真名井実俊(まない の さねとし)が屋敷に来たのは、日が中天を過ぎた頃だった。


陰陽寮おんみょうりょうの白い狩衣かりぎぬをきっちりと着込んでいたが、手ぶらだった。文書も書付も持っていない。用件があって来たのでなければ、用件を口実にせずに来た、ということだ。


我は縁側に座ったまま、実俊を観察した。


歩き方に、いつもの理詰めの重さがない。一歩一歩を地に着ける、あの計算された歩みが、今日はどこか浮いている。緊張している者の歩き方だ。足先ではなく、心が先に動いている。


真白殿ましろどのは」と実俊が問うた。


「縁側の奥で手習いをしておいでですよ」


うめくりやから顔を出して答えた。


実俊が我を見た。我は桜の木を見ていた。



藤原真白(ふじわら の ましろ)が縁側に出てきたのは、しばらくしてからだった。


手習いの墨の匂いをわずかに残したまま、実俊の方へ歩いてくる。


「実俊様、今日は——」


「少し、あの木の下に来ていただけますか」


実俊が遮った。声が裏返らなかったのは、準備していた証だろう。


真白が桜の木を見た。木は葉を茂らせて、夏の光を一身に受けている。花の時と同じように、実俊はあの木を選んだ。


「いいですよ」と真白が言った。


我は縁側から庭に降りた。


実俊が我に気づき、眉を僅かに動かした。しかし何も言わなかった。言えなかった、という方が正しいかもしれない。


三人が桜の木に向かった。



葉桜の下は、春と違う種類の静けさだった。


花があった頃は人の目と声が集まった。今は葉の間から日光がまだらに降りて、地に小さな光の粒を作るだけだ。誰も来ない。


実俊と真白が並んで立った。


我はその二十歩ほど離れた場所、梅の根方に座った。


見守る、という言葉を我は好まない。それは傍観者の言葉だ。ただ、ここにいる。それだけだ。


実俊が一度、深く息を吸った。


「真白殿」


「はい」


「あなたのことが、好きです」


真白が動かなかった。


静止、と呼べるほど完全なものではなく、ただ次の動作に移れないでいるがあった。夏の風が葉を揺らし、光の粒が地を走った。


「ずっと、伝えようとしてできなかった。宇治から帰って、母君ははぎみの回復を目にして——今日でなければ、またできない気がして」


実俊の声は、いつもより低かった。理屈で組み立てていない声だ。この男がこういう声を出すとき、言葉の選択より気持ちの方が先に出ている。


「以前から、分かっておいでだったかもしれない。それでも言わなければ、と思っていました」


真白が実俊を見た。


向き合う二人の背後で、桜の葉が一枚落ちた。


我は梅の根方に座ったまま、その葉が地に着くのを目で追った。


落ちた葉は、我の前足の一尺ひとしゃく手前に着地した。





何が起きているのか、頭では分かっている。


実俊が真白に想いを告げている。それは以前から予期していたことで、今更驚く話ではない。


それでも。


我の内側で、何かが静止した。


静止した何かに名前をつける必要はない。ただ、そこにある。梅の根方の土の冷たさが、前足の裏から伝わってくる。夏の庭の、土の感触だ。


真白の顔が、我には見えていない。


見る必要がない、と思った。


——見たくない、という方が正しいかもしれない。


我は桜の木の幹を見た。春に花を持ち、今は葉を持つ。来年の春にもまた花を咲かせる。その繰り返しの中で、幹だけがずっとここにある。


我は縁側の柱でもなく、梅の幹でもなく、桜の幹でもない。


猫だ。


この屋敷に来て一年と少し。来年の桜もここで見られる保証は、どこにもない。術を使うたびに寿命が削れている。それが速いか遅いかは分からないが、消えない。


今は、それより先に考えることがある。



「……返事を、すぐには言えません」


真白の声が聞こえた。


落ち着いていた。震えも乱れもない。ただ、静かに、確かめながら言葉を選んでいる。


「実俊様のことは——大切な方だと思っています。それは本当のことです」


「はい」


「でも、好きという言葉の答えを今すぐ返すのは、誠実ではない気がする」


実俊が黙った。


「待っていただけますか」


少しの間があった。


「はい」と実俊が言った。声に、覚悟の落ち着きがあった。「待ちます」


「ありがとうございます」


真白の言葉は短かった。それ以上を加えなかった。加えないことが、真白の誠実さだった。



二人が木の下から離れた。


実俊は「今日はこれで失礼します」と言い、すぐに屋敷を出た。気持ちを置いてきた後は、長居できないものだ。帰り際に我の方を一度見たが、目が合う前に逸れた。


真白は桜の木の下に少し残っていた。


一人で木を見上げて、葉の間の空を見ていた。


我はそちらへ歩いた。


足音を殺して近づいたわけではない。ただ、声をかける手段がないから、体を動かすしかない。


真白が気配で気づいて、視線を下ろした。


「くろまろ」


我は真白の足元に座った。


「聞いていたわね」


問いでも責めでもない。確認だ。


我は真白を見上げた。


「複雑な顔をしているわ、あなた」


真白がしゃがんで、我の目の高さに顔を近づけた。


近い。


近すぎて、我は視線を真白の頬の向こうに移した。桜の幹が見えた。葉の揺れが見えた。


「私ね」と真白が言った。「実俊様に返事ができない理由を、今、考えていたの」


我は黙っていた。正確に言えば、声がないから黙るしかない。


「大切だとは思っている。それは本当よ。でも——何かが、ひっかかる」


何かが、と真白は繰り返した。


「うまく言えないの。ひっかかる、というのも正確じゃないかもしれない。ただ、何かがある」


真白の指が、我の耳の後ろをひと撫でした。


「あなたは、何を見ていたの。あの木の下で」


我は答えられない。


答えられないから、体をわずかに真白の方へ傾けた。


真白が目を細めた。


「……そう」


何を読み取ったのか、我には分からなかった。ただ、真白の表情から力が一つ、抜けた。



葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が庭に来たのは、それから半刻はんときほど後だった。


真白はすでに縁側に戻って、また手習いを再開していた。墨を磨りながら、先ほどとは違う静けさで手を動かしていた。


真澄が我の傍を通る時、一瞬だけ足を止めた。


「実俊殿が帰られましたでざろう」


どこから見ていたのか、この男はいつも知っている。


「桜の木の下で」と真澄が続けた。それ以上は言わなかった。


我は真澄を見た。


真澄は庭の向こうを向いたまま、背中で何かを言った。


「……姫君のお顔が、いつもと違いましたでざろう」


返事の仕方がない。


「良い違い方ですでざろう。慌てたり、困ったりしておいでではない」


真澄がそこで一拍置いた。


「——迷っておいでです」


その言葉には、何も足されなかった。


真澄は庭の水やりに向かった。我はその背中を見ていた。



夕刻、我は再び桜の木の下に来た。


誰もいない。


葉が風に揺れている。夏の夕風は、春の風より重い水気を含んでいる。山から来るのか、川から来るのか、どこか遠くの水が混じっている。


実俊が言葉を置いていったこの場所に、今は何もない。


言葉というのは、発した後も消えない。


空気には残らないが、言った者と聞いた者の中に残る。実俊の声が真白の中に残っている。真白の「待っていただけますか」が実俊の中に残っている。


では、我の中には何が残っているか。


答えるほどのことではない。


ただ、この木の下に来た。それだけだ。


落ちた葉が、先ほどの場所にまだあった。


踏まなかった。


横を歩いて、縁側に戻った。


真白が行灯あんどんの前で書き物をしていた。何を書いているのかは、背中しか見えない。筆が動いている。止まる。また動く。


和歌を作っているのかもしれない。


それとも、実俊に何かを書いているのかもしれない。


どちらであっても、我には関わりのないことだ。


——そう決めようとして、決めきれなかった。


縁側の端に座った。


真白の背中から行灯の火まで、どれだけの距離があるかを目で測った。三尺さんしゃくほど。その光の中で、真白が文字を作っている。


我は尾を一度だけ払った。


特に意味のない動作だ。


ただ、体を動かさなければ、内側で何かが固まっていく気がした。固まる前に、少し動かしておく。それだけだ。


行灯の火が、夏の夜風に揺れた。


揺れて、また真っすぐに戻った。

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