第八十八話「実俊の告白」
縁側の桟に背を預け、我は庭の桜を見ていた。
花は一粒も残っていない。葉が茂って、今は影を作るだけの木になっている。春にあれほど騒がれた枝が、夏の重みを静かに受けとめている。
それでいい。桜というものは、散ってからの方が長い。
真名井実俊(まない の さねとし)が屋敷に来たのは、日が中天を過ぎた頃だった。
陰陽寮の白い狩衣をきっちりと着込んでいたが、手ぶらだった。文書も書付も持っていない。用件があって来たのでなければ、用件を口実にせずに来た、ということだ。
我は縁側に座ったまま、実俊を観察した。
歩き方に、いつもの理詰めの重さがない。一歩一歩を地に着ける、あの計算された歩みが、今日はどこか浮いている。緊張している者の歩き方だ。足先ではなく、心が先に動いている。
「真白殿は」と実俊が問うた。
「縁側の奥で手習いをしておいでですよ」
お梅が厨から顔を出して答えた。
実俊が我を見た。我は桜の木を見ていた。
藤原真白(ふじわら の ましろ)が縁側に出てきたのは、しばらくしてからだった。
手習いの墨の匂いをわずかに残したまま、実俊の方へ歩いてくる。
「実俊様、今日は——」
「少し、あの木の下に来ていただけますか」
実俊が遮った。声が裏返らなかったのは、準備していた証だろう。
真白が桜の木を見た。木は葉を茂らせて、夏の光を一身に受けている。花の時と同じように、実俊はあの木を選んだ。
「いいですよ」と真白が言った。
我は縁側から庭に降りた。
実俊が我に気づき、眉を僅かに動かした。しかし何も言わなかった。言えなかった、という方が正しいかもしれない。
三人が桜の木に向かった。
葉桜の下は、春と違う種類の静けさだった。
花があった頃は人の目と声が集まった。今は葉の間から日光が斑に降りて、地に小さな光の粒を作るだけだ。誰も来ない。
実俊と真白が並んで立った。
我はその二十歩ほど離れた場所、梅の根方に座った。
見守る、という言葉を我は好まない。それは傍観者の言葉だ。ただ、ここにいる。それだけだ。
実俊が一度、深く息を吸った。
「真白殿」
「はい」
「あなたのことが、好きです」
真白が動かなかった。
静止、と呼べるほど完全なものではなく、ただ次の動作に移れないでいる間があった。夏の風が葉を揺らし、光の粒が地を走った。
「ずっと、伝えようとしてできなかった。宇治から帰って、母君の回復を目にして——今日でなければ、またできない気がして」
実俊の声は、いつもより低かった。理屈で組み立てていない声だ。この男がこういう声を出すとき、言葉の選択より気持ちの方が先に出ている。
「以前から、分かっておいでだったかもしれない。それでも言わなければ、と思っていました」
真白が実俊を見た。
向き合う二人の背後で、桜の葉が一枚落ちた。
我は梅の根方に座ったまま、その葉が地に着くのを目で追った。
落ちた葉は、我の前足の一尺手前に着地した。
何が起きているのか、頭では分かっている。
実俊が真白に想いを告げている。それは以前から予期していたことで、今更驚く話ではない。
それでも。
我の内側で、何かが静止した。
静止した何かに名前をつける必要はない。ただ、そこにある。梅の根方の土の冷たさが、前足の裏から伝わってくる。夏の庭の、土の感触だ。
真白の顔が、我には見えていない。
見る必要がない、と思った。
——見たくない、という方が正しいかもしれない。
我は桜の木の幹を見た。春に花を持ち、今は葉を持つ。来年の春にもまた花を咲かせる。その繰り返しの中で、幹だけがずっとここにある。
我は縁側の柱でもなく、梅の幹でもなく、桜の幹でもない。
猫だ。
この屋敷に来て一年と少し。来年の桜もここで見られる保証は、どこにもない。術を使うたびに寿命が削れている。それが速いか遅いかは分からないが、消えない。
今は、それより先に考えることがある。
「……返事を、すぐには言えません」
真白の声が聞こえた。
落ち着いていた。震えも乱れもない。ただ、静かに、確かめながら言葉を選んでいる。
「実俊様のことは——大切な方だと思っています。それは本当のことです」
「はい」
「でも、好きという言葉の答えを今すぐ返すのは、誠実ではない気がする」
実俊が黙った。
「待っていただけますか」
少しの間があった。
「はい」と実俊が言った。声に、覚悟の落ち着きがあった。「待ちます」
「ありがとうございます」
真白の言葉は短かった。それ以上を加えなかった。加えないことが、真白の誠実さだった。
二人が木の下から離れた。
実俊は「今日はこれで失礼します」と言い、すぐに屋敷を出た。気持ちを置いてきた後は、長居できないものだ。帰り際に我の方を一度見たが、目が合う前に逸れた。
真白は桜の木の下に少し残っていた。
一人で木を見上げて、葉の間の空を見ていた。
我はそちらへ歩いた。
足音を殺して近づいたわけではない。ただ、声をかける手段がないから、体を動かすしかない。
真白が気配で気づいて、視線を下ろした。
「くろまろ」
我は真白の足元に座った。
「聞いていたわね」
問いでも責めでもない。確認だ。
我は真白を見上げた。
「複雑な顔をしているわ、あなた」
真白がしゃがんで、我の目の高さに顔を近づけた。
近い。
近すぎて、我は視線を真白の頬の向こうに移した。桜の幹が見えた。葉の揺れが見えた。
「私ね」と真白が言った。「実俊様に返事ができない理由を、今、考えていたの」
我は黙っていた。正確に言えば、声がないから黙るしかない。
「大切だとは思っている。それは本当よ。でも——何かが、ひっかかる」
何かが、と真白は繰り返した。
「うまく言えないの。ひっかかる、というのも正確じゃないかもしれない。ただ、何かがある」
真白の指が、我の耳の後ろをひと撫でした。
「あなたは、何を見ていたの。あの木の下で」
我は答えられない。
答えられないから、体をわずかに真白の方へ傾けた。
真白が目を細めた。
「……そう」
何を読み取ったのか、我には分からなかった。ただ、真白の表情から力が一つ、抜けた。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が庭に来たのは、それから半刻ほど後だった。
真白はすでに縁側に戻って、また手習いを再開していた。墨を磨りながら、先ほどとは違う静けさで手を動かしていた。
真澄が我の傍を通る時、一瞬だけ足を止めた。
「実俊殿が帰られましたでざろう」
どこから見ていたのか、この男はいつも知っている。
「桜の木の下で」と真澄が続けた。それ以上は言わなかった。
我は真澄を見た。
真澄は庭の向こうを向いたまま、背中で何かを言った。
「……姫君のお顔が、いつもと違いましたでざろう」
返事の仕方がない。
「良い違い方ですでざろう。慌てたり、困ったりしておいでではない」
真澄がそこで一拍置いた。
「——迷っておいでです」
その言葉には、何も足されなかった。
真澄は庭の水やりに向かった。我はその背中を見ていた。
夕刻、我は再び桜の木の下に来た。
誰もいない。
葉が風に揺れている。夏の夕風は、春の風より重い水気を含んでいる。山から来るのか、川から来るのか、どこか遠くの水が混じっている。
実俊が言葉を置いていったこの場所に、今は何もない。
言葉というのは、発した後も消えない。
空気には残らないが、言った者と聞いた者の中に残る。実俊の声が真白の中に残っている。真白の「待っていただけますか」が実俊の中に残っている。
では、我の中には何が残っているか。
答えるほどのことではない。
ただ、この木の下に来た。それだけだ。
落ちた葉が、先ほどの場所にまだあった。
踏まなかった。
横を歩いて、縁側に戻った。
真白が行灯の前で書き物をしていた。何を書いているのかは、背中しか見えない。筆が動いている。止まる。また動く。
和歌を作っているのかもしれない。
それとも、実俊に何かを書いているのかもしれない。
どちらであっても、我には関わりのないことだ。
——そう決めようとして、決めきれなかった。
縁側の端に座った。
真白の背中から行灯の火まで、どれだけの距離があるかを目で測った。三尺ほど。その光の中で、真白が文字を作っている。
我は尾を一度だけ払った。
特に意味のない動作だ。
ただ、体を動かさなければ、内側で何かが固まっていく気がした。固まる前に、少し動かしておく。それだけだ。
行灯の火が、夏の夜風に揺れた。
揺れて、また真っすぐに戻った。




