第八十七話「垢嘗の掃除」
湯殿の方から、舐める音がした。
夏の朝は湯を使う者が早く、夜明け前から使用人が水を運ぶ。その作業が一段落した後、湯殿は少しの間、誰もいない状態になる。
その時間帯に、音がする。
我は母屋の廊下から、湯殿の棟へ続く渡り廊下を歩いていた。音の出所を確かめるためだ。
近づくにつれて、妖気が強くなった。ひょうすべの気配ではない。似てはいるが別の質だ。水気より、もう少し古いものが混じっている。
引き戸の前で立ち止まり、隙間から覗いた。
いた。
背丈は人間より少し低く、全体的に薄く細い。肌の色が青白く、手足が長い。顔のほとんどを口が占めていた。口からは長い舌が出ていて、石の床を丁寧になめている。
垢嘗だ。
床の隅、排水口の周囲を、長い舌で丹念になめていた。素早くも遅くもなく、一定のリズムで。丁寧な仕事ぶりだった。
引き戸を開けると、垢嘗が動きを止めた。
舌を口に収め、こちらを振り返った。目が大きく、その目に怯えの色が出た。驚いている。見つかると思っていなかったのか、見つかることを恐れていたのか、どちらとも読めたが、とにかく縮こまった。
我は湯殿に入り、垢嘗から三尺ほど離れた場所に座った。
急かさない。
垢嘗がしばらく我を見ていた。逃げようとしていたが、出口は我が座っている側にしかない。それに気づいて、また固まった。
追い立てるつもりはない、という意思を、我は尻尾を低く払うことで示した。
垢嘗が少しだけ体を戻した。
「……怒らないのか」
声は細く、湿り気がある。水気を多く含んだ声だ。
我は動かなかった。
「驚かせたか」と垢嘗が言った。今度は少し自分の方が謝っているような口調だった。
我は湯殿の床を見た。それから垢嘗を見た。
垢嘗が我の視線の動きを追い、少し身を縮めた。
「綺麗にしていた。汚していたわけじゃない」
藤原真白(ふじわら の ましろ)を呼ぶことにした。
我が縁側と湯殿の間を往復する間に、ひょうすべが湯殿から顔を出した。ひょうすべは垢嘗の存在をすでに知っていたらしく、驚かなかった。むしろ我に向かって、説明するような動きをした。
知っていて黙っていたのか、と我は思ったが、声がないので問えない。
真白が来たのは、しばらくしてからだった。湯殿の入口から覗いて、垢嘗の姿を見て、一拍止まった。
「まあ」
驚きではなく、確認の声だ。
「垢嘗さん?」
垢嘗がびくりとした。名前を知っている人間に会ったことがないのかもしれない。
「この屋敷に来ていたのね。いつ頃から?」
「……先月から」と垢嘗が細い声で答えた。「ひょうすべがいると聞いて。ひょうすべのいる湯殿は、入りやすい」
真白がひょうすべを見た。ひょうすべが皿の水を揺らした。肯定らしかった。
「だから二人で来ていたのね」
垢嘗が首を横に振った。
「ひょうすべとは知り合いだが、一緒に来たわけではない。ひょうすべがここにいると聞いて、独りで来た」
「どうして?」
「独りでは怖い。入れない」
垢嘗が我を見た。
「人間に見つかると、怖がられて追い払われる。だからひょうすべのいる湯殿なら、少しは受け入れられやすいかと思って」
真白が縁側に腰を下ろした。湯殿の入口の段差に座る形だ。垢嘗と目線が近くなった。
「見つかって、よかった。一人でこっそり来ていたなら、もっと早く声をかけてくれればよかったのに」
垢嘗が目を細めた。
「怖がられないのか」
「あなたが悪いことをしているわけじゃないから」
垢嘗の細い首が、少しだけ伸びた。
話を聞くうちに、垢嘗の事情が分かってきた。
垢嘗は湯を使った後の垢や湯垢をなめて食べる。それが食事であり、役目でもある。人間の湯殿に住み着くことで、汚れを取る仕事をする。害はなく、むしろ湯殿を清潔に保つ。しかし姿を見られると怖がられて追い払われるため、誰もいない時間帯に動く生き方が染みついていた。
「どの家でも、見つかるたびに追い払われてきた」
垢嘗が言った。
「ここも、そうなると思っていた」
「そうはならないわよ」と真白が言った。
「ひょうすべがいるから?」
「ひょうすべがいるからというより——この屋敷は、そういう屋敷なの」
垢嘗が我を見た。我は縁側の板の木目を見ていた。
そういう屋敷、という言葉の意味を、垢嘗は把握しきれていないだろう。しかし真白の声の質が、その言葉を本当のことにしていた。
ひょうすべが湯殿の奥から出てきた。垢嘗の隣に並んだ。二体が並ぶと、なんとなく一組に見えた。水を好む者と、垢を好む者。湯殿という場所に必要なものを、それぞれ受け持っている。
「二人で、仲良くやっているのね」
「仲良くというほどでは」と垢嘗が言い、「……まあ、悪くはない」と続けた。
ひょうすべが皿の水を揺らした。同意しているのか、否定しているのか、外からは判断できない。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が湯殿の棟に来たのは、昼前のことだった。
垢嘗とひょうすべの存在を確認し、二体の気配を測り、少しの間だけ黙っていた。
「お前はひょうすべの先月より前から、ここに来ていたか」
真澄が垢嘗に問うた。
垢嘗が首を横に振った。
「先月からだ」
「そうか。屋敷の気が先月から整ってきた理由の一端が分かった」
真澄が縁側に半身を向けた。
「清潔に保つものがいると、屋敷の土の気が安定する。水回りはとくに気の乱れが出やすい場所だ。二体がいることで、そちらの乱れが減っている」
真白が真澄を見た。
「良いことなのね」
「はい。ただし、人間の使用人が入る前に気配を消せるよう、時刻の取り決めが必要です」
真澄が垢嘗を見た。垢嘗が小さく頷いた。
「夜明け前の水運びが終わった後、朝餉の前まで。その間は人が入らない」
「知っている。その時間に動いていた」
「では、今後も同じように」
取り決めというほどのことでもなく、ただ確認しただけだった。真澄が家令として必要な事務を処理した、という感じだ。
垢嘗が少し体を起こした。
「追い払わないのか」
「役に立っているなら」と真澄が言った。感情の起伏がない言い方だったが、それが却って真意として伝わった。役に立っているのは事実だ、という意味だ。
垢嘗が細い首を傾けた。
「変な屋敷だ」
「よく言われます」と真澄が静かに言った。
午後、我は縁側で毛づくろいをしながら、今日のことを整理していた。
屋敷に住み着く妖怪の数が、少しずつ増えている。
わらべ(座敷童子)が厨にいる。ひょうすべが湯殿にいる。今日から垢嘗が加わった。それ以外にも、河童の九助が時々川から来る。一反木綿が帰り際に立ち寄ることもある。
この屋敷は、いつの間にか入り口の広い場所になっていた。
真白がそういう場所にした、というより——真白がいるから、そういう場所になっていった。入り口の広さは、真白の在り方の写し絵だ。
垢嘗が「変な屋敷だ」と言った。
変、というのは正しい。ただし変であることが、この屋敷の理になっている。
夏の午後の光が縁側を白く照らしていた。湯殿の方は静かで、垢嘗とひょうすべが昼間の時間をどこかで過ごしているのか、気配が薄かった。
お梅が厨から出てきて、縁側に水を撒いた。打ち水だ。熱気が和らぐ。
「玄丸、暑いでしょう」
我は目だけを向けた。
「今日はまた、何かいたそうで」
我は答えなかった。
「もう驚かないわ、最近は」とお梅が言った。「何が来ても、姫君が受け入れてしまうから」
お梅が厨に戻っていく背中を見ながら、我は毛づくろいを再開した。
何が来ても受け入れる、という言い方は、少し違う。
受け入れると決めているのではない。来た者が何者であるかを見て、追い払う理由がなければ、ただそのまま置いておく。
それが真白のやり方だ。
夏の風が縁側を抜けた。打ち水が乾くより前に、また熱気が戻ってきた。
【妖怪図鑑】
■垢嘗
【分類】家屋妖怪・清潔系
【危険度】★☆☆☆☆(無害。姿に驚くことはある)
【レア度】★★☆☆☆(湯を使う家屋ならどこにでも現れうる)
【出現場所】湯殿、風呂場、水回り全般の薄暗い場所
【特徴】
長い舌を持つ、青白い肌の妖怪。人間の体についた垢や、湯殿に残った湯垢をなめて食べる。これが食事であり役目でもある。姿が独特で驚かれやすいが、害はまったくない。むしろ湯殿を清潔に保つという点で、人間の生活に有益な存在だ。
基本的に臆病で、人間に見つかると縮こまる。追い払われることに慣れており、受け入れられることへの反応が薄い。今回の個体は、すでに湯殿に住み着いていたひょうすべの気配を頼りにこの屋敷を選んだ。同種の水回りを好む妖怪がいる場所は、入りやすいと感じるようだ。
【得意技】
・垢除去:長い舌で湯殿の垢や汚れを残らずなめ取る。石の隙間や排水口の周囲なども丁寧に処理する。
・気配消し:誰もいない時間帯を本能的に選ぶ。人間の生活リズムを把握している。
【弱点】
・臆病で、大きな声や急な動きに弱い
・日光を好まない。昼間は暗い場所に潜む
・追い払われ続けた経験から、自分から存在を主張することが苦手
【生態】
単独行動が基本だが、同じ水回りを好む妖怪がいる場所を選ぶ傾向がある。食事の時間は夜明け前が多い。湯殿の使われ方を観察して動く時間帯を決めるため、屋敷の生活リズムへの順応が早い。長くいるほど湯殿が清潔に保たれ、水回りの気の乱れが減るという副次効果がある。
【玄丸の評価】
「湯殿の垢をなめるという行為は、人間から見れば奇妙だ。しかし垢嘗にとっては食事であり仕事だ。その仕事が湯殿の清潔を保つという結果につながっている。追い払われてきた経験が体に染みついていて、受け入れられることへの驚き方が大きかった。変な屋敷だ、という言葉は正しい——ただしこの屋敷においては、変であることに十分な理がある」
【遭遇時の対処法】
急に動いたり声を上げたりしないこと。静かに観察していれば、向こうから縮こまって止まる。名前を呼ぶと反応する。「掃除をしてくれているのね」と一言言えば、たいていその後は穏やかになる。追い払う理由がなければそのまま置いておくのが吉。湯殿が清潔になるという実益がある。
【豆知識】
垢嘗の伝承は江戸時代の妖怪絵本に描かれており、不潔な風呂場に現れて垢をなめるという性質が記録されている。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にも収録された。怖い妖怪というより「風呂掃除をさぼるとこういうものが来る」という戒めの意味合いが強く、実際には掃除の動機付けに使われた妖怪でもある。今回の描写では、むしろ清潔好きな働き者として解釈した。ひょうすべとの組み合わせは、湯殿という場所に必要なものをそれぞれ担う一対として機能している。




