第八十四話「夏の兆し」
雨が上がった後の庭は、光の粒を一枚一枚に貼りつけたように見える。
葉の先に残った水滴が、朝の傾いた光を受けて白く弾けた。松の根方の苔が深い緑に湿り、白砂の間に細い水の筋が残っていた。梅雨の最後の雨だったのか、あるいはまだ続くのか、空の色では判じかねた。
我は縁側に腹をつけ、その庭を眺めていた。
虫の声が変わっている。
梅雨の間は低く湿った音が続いていたが、今朝は一段高い。どこか遠くで蝉が一匹、試し鳴きでもするように短く鳴いた。すぐに止まった。まだ本番ではないと判断したらしい。
賢い虫だ。
夏が、そこまで来ている。
「くろまろ、今日は外に出ない?」
廊下から藤原真白(ふじわら の ましろ)の声がした。
几帳の向こうで衣を整えながら話しかけている。返事の仕様がないので、我は尻尾の先だけを動かした。
「母上が、縁側で風に当たりたいとおっしゃっているの」
母君が縁側へ出る。
この言葉の意味するところを、我はすぐに把握した。先月まで、母君が縁側に出るには真白と使用人の二人がかりで支えなければならなかった。今日はその言葉の前に、それが省略されている。
回復が続いている。
真白の母君が縁側に出てきたのは、巳の刻も半ばを過ぎたころだった。
薄い単衣に夏の帯を締めて、真白に寄り添われながら縁側の端に腰を落とした。去年より細くなった体が、夏の光の中に座った。
「久しぶりに、外の空気ですね」
母君が言った。
声に力があった。先月の声とは質が違う。体の奥から出てくる声の通り道が、少し広くなったような響きだ。
「よい天気になりました」と真白が言った。「昨夜の雨でだいぶ涼しくなって」
「そうね。雨上がりの庭は気持ちがいい」
母君の視線が庭をゆっくりと巡った。梅の木、松の根方、白砂の筋、そして縁側の端で丸くなっている我へ。
「玄丸も日向ぼっこ?」
我は母君の方を向いた。
母君が微かに笑った。
「宇治から帰ってきた後、何か変わった気がするわ。この子」
「玄丸が?」
「もとから静かな子だけれど——もっと深いところが落ち着いた感じ」
真白が我を見た。我は母君と真白を交互に見た。
「橋姫の一件で、何か学んだのかもしれません」と真白が言った。
「学ぶ猫ね」と母君が言った。声の底に、からかいと慈しみが等量で混ざっていた。
昼前、真名井実俊(まない の さねとし)が陰陽寮から戻ってきた。
訪ねてきた、というより帰ってきた、という言い方の方が最近は正確に近い。この男が藤原家の敷居をまたぐ頻度は、半年前と比べてずいぶん増えた。本人は陰陽寮の用件を口実にするが、用件のない日も来ることがある。
母君の回復を聞いて、実俊の表情がわずかに和らいだ。
「よかった。先月は夕刻になると熱が上がるとうかがっていたので、心配していました」
「おかげさまで。先生の処方が変わってから、随分と楽になっています」
「陰陽寮の医療顧問が処方を見直したと聞きました。晴元先生が手を回してくださったようです」
母君が実俊を見た。
「実俊殿がお願いしてくださったのではないですか」
実俊が少し目を逸らした。
「晴元先生にご相談したのは事実ですが、それは——まあ、橋姫の件でお世話になったお礼のついでで」
母君がまた笑った。今度はもう少し声に出た笑いだった。
我は縁側の端でその様子を眺めながら、実俊という男を改めて観察した。
理屈で話す男だ。感情を直接口にするのが苦手で、用件の裏に感情を挟んでくる。晴元に相談したのは「橋姫の件のついで」ではなく、母君を心配したからに決まっている。しかし「心配していたので」と言うことと、「晴元先生にご相談しました」と言うことを、あの男は同じ文に入れられない。
そういう不器用さが、この男の厄介さであり、我が一定の信を置く理由でもある。
縁側で四人が昼餉をとった。
母君、真白、実俊、そして少し離れた場所に我。料理番の蕗が運んできた冷やした豆腐と夏野菜の膳を、縁側の板に広げた。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)は庭の向こうで松の剪定の様子を確認していた。離れた距離でも、縁側の四人の気配はすべて把握しているだろう。あの男はいつもそうだ。
「橋へ行った日のこと、詳しく聞かせてもらえますか」
母君が実俊に聞いた。
真白が少し背筋を伸ばした。旅の間のことを、母君に詳しく話していなかったのだろう。
「橋姫が出た夜は——」と実俊が話し始めた。
我は縁側から庭に視線を移した。
真澄が剪定を終えた植木職人に指示を出している。職人が鋏を持ち直した。松の枝が少しずつ、形を整えられていく。
橋の上であの念が崩れる瞬間を、我はもう一度だけ思い返した。
真白の言葉が届いた瞬間、橋姫の目に何かが映った。それが何だったのか、今でも確信が持てない。待っていた相手ではない、ということは確かだ。しかしそれが失望だったのか、あるいは別の何かだったのか。
流れた、とぬらりひょんは言った。川に溶けて、どこかへ行った。
どこへ行ったかは、川が知っている。
「くろまろは、橋の上でどうしていたの」
母君が問いかけてきた。
話の流れで我に話が向いた。実俊が「玄丸は橋の手前で私より先に気配を読んで、真白殿の前に出ていました」と補足した。
母君が我を見た。
「怖くなかった?」
問いかけの意図が、怖くなかったかどうかを確かめているのではないことは分かった。怖さを知った上でどう動いたか、ということを聞いている。
我は母君を見返した。
怖い、という感覚が橋の上にあったかどうか、今考えると正確には分からない。水の気が集まる圧力は確かに感じた。しかしそれが恐怖として処理されたかどうか——真白がいたからかもしれない。
「顔で答えているわね、この子は」と母君が真白に言った。
「答えているんです、本当に」と真白が言った。
実俊が小さく笑った。珍しい笑い方だった。声を立てる手前で止まったような、口の端だけが動く笑い方。
夕暮れが近づいた頃、母君は部屋に戻った。
縁側で半日過ごしたのは、病が重かった時期から数えれば、ずいぶん久しぶりのことだった。真白が母君を部屋まで送っていく背中を、我は縁側から見送った。
実俊が荷をまとめながら言った。
「峠は越えたようです。このまま夏を乗り越えれば」
我は実俊を見た。
実俊が我に気づいて、少し間を置いた。
「玄丸殿、少し聞いていいですか」
我は実俊の方を向いた。
「橋の上で、あなたは何を見ていましたか。橋姫の顔を見ていたのか、それとも橋姫の向こうを見ていたのか」
問いの意味を、我は少し考えた。
陰陽師らしい問いかけだ。橋姫本体を見るか、橋姫の背後にある気の流れを見るか、どちらに意識を置くかで対処が変わる。
我は庭の松を見た。
実俊が「向こうを見ていた、ということですか」と言った。
我は松から実俊に視線を戻した。
「……なるほど」と実俊が低く言った。「橋姫の念ではなく、念の根を見ていた。だから結界の位置が的確だったんですね」
実俊が顎に手を当てた。考えているときの癖だ。
「今後のことを考えると、そのやり方を学んでおきたい」
独り言か、我への問いかけか、どちらとも取れる言い方だった。
我は何も答えなかった。答えなかったが、その場を離れなかった。
実俊がそれを「答えの代わり」として受け取ったかどうかは分からない。しかし、この男は受け取る力がある。
蝉が、また鳴いた。今度は少し長く。まだ本番ではないが、練習の段階を少し上げた鳴き声だった。
夏が来る。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が縁側の端に来たのは、実俊が帰った後だった。
松の剪定の状態を最後に確認してから、音もなく縁側に立った。
「お母上、お顔色がよろしゅうございましたでざろう」
我は真澄を見た。
「姫君も、お気持ちが軽くなったようでございますでざろう」
真澄の視線が庭を向いたまま言った。
「宇治の後、屋敷の気が少し変わりました」
我は真澄の横顔を見た。
「よい方向に変わっております。これは、今回の一件が収まったことだけが理由ではないかと」
真澄がそこで言葉を切った。
続きを言うか言わないか、選んでいる間があった。
「四者が一つ仕事を終えると、気の流れが整う——そういうことでございますでざろう」
それだけ言って、真澄は庭へ下りた。
松の根方の苔が、夕の光を受けて深い緑になっていた。剪定された枝の形が、空に向かって少し開いている。
我は縁側で、膝を折って体を丸めた。
夏が来る前の短い夕暮れ。空の端がゆっくりと橙に染まっていく。今年の夏は、去年の夏とは違う色をしているだろう、という気がした。
根拠はない。ただ、そう思った。
蝉の声が、また短く聞こえた。




