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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第四章:橋姫編と日常

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第八十三話「ぬらりひょんの知恵」

屋敷の門に、老人が腰かけていた。


誰に許しを得たわけでもなく、門扉のかんぬきの上にすっぽりと収まって、薄茶の長衣の裾を揺らしている。頭は妙に大きく、前頭部がつるりと張り出していた。皺だらけの顔に眼が細く据わり、朝の光を受けてぼんやりと笑っていた。


年齢は、測れない。


百とも三百とも分からない種類の古さが、あの老人の体から滲んでいた。


我は縁側から、その老人を眺めていた。


妖気の質が、これまで出会ったどの妖怪とも違う。濃い、というより、深い。地の底から汲み上げた水のように、たっぷりと密度がある。しかしそれが圧力として押し寄せてこない。ただ、そこにある。


厄介な老人だ、と我は判じた。


そしてほぼ同時に、この老人の正体も判じた。



「おや、黒猫よ。気づいておったか」


老人が門の上から声をかけてきた。


声は低く、川底の石が転がるような響きがあった。急いでいない声だ。何十年かけて磨いた、余裕の質感をしている。


我は縁側を降りず、そのまま老人を見ていた。


「見ていないようで見ている目をしとる。なかなかよい」


老人が笑った。皺が増えるだけで、顔の造作は変わらない。笑いが外に出ていって消えるのではなく、老人の体の内側に折り畳まれていくような笑い方だった。


ぬらりひょん(滑瓢)。


妖怪の総大将とも、家々を巡る稀客とも語られる。実体をつかまれない、とらえどころのない存在だ。屋敷に勝手に上がり込んでいつの間にか茶を飲んでいる、という伝もある。


我の所属するこの屋敷に、よりにもよって早朝から座り込んでいる。


真白ましろが目を覚ます前に、話を聞くだけ聞いておくべきか。


我は縁側から庭石を踏んで、門の前まで歩いた。



老人が門の上から降りた。


音がしなかった。あの大柄な体が砂利の上に着地したのに、砂が一粒も跳ねていない。我は砂利の上でその様子を確認し、尾を一度だけ低く払った。


「お主が、あの令嬢の猫か」


老人が腰に手を当てて、我を見下ろした。正確に言えば、見下ろすような高さから見た、という話だ。老人の眼は、我を猫としてではなく、別の何かとして計測している。


「宇治の橋姫が鎮まったと聞いた。お主が水の理を使ったか」


我は答えなかった。


返事の手段がない、ということではなく、返事を要する問いかどうか判断していた。ぬらりひょんが宇治の一件を知っているとすれば、相当に広い範囲で情報を集めている。妖怪の世界の通信網というものが、どこまで機能しているのか、興味深い話だ。


「口が利けぬのは知っておる。しかし話はできよう」


老人が縁側の方を顎で示した。


「茶でも飲みながら、どうだ」


あつかましい、と我は内心で言った。



藤原家の縁側に、我とぬらりひょんが並んで座った。


老人は勝手に座り込み、特に何の断りもなく茶を要求した。使用人が慌てて動いたのは、老人の気配がそうさせたのか、それともこの屋敷では奇妙な客が珍しくなくなってきたせいか、どちらとも判じかねた。


我は前脚を揃えて縁側の端に収まり、老人の横顔を観察していた。


「ぬらりひょんとは、存外に地味な名よ」


老人が言った。誰に向けているのか分からない独り言だった。


「妖怪の総大将などと呼ばれるが、そんなものを束ねた覚えはない。ただ、長く生きて、あちこちをうろついているだけの老爺ろうやだ」


「うろつく理由があるのか」と我は問いたかったが、声はない。


老人が我の方を見た。


「お主も、似たようなものではないか」


どこまで見抜いているのか分からない老人だ。


庭の梅雨明け後の青葉が、初夏の光を受けて白く光っていた。境内に参拝客が途絶える早朝の神社のような、静かな時間帯だった。



「世界のことわりとは何か、お主はどう考える」


茶が運ばれてきた後、老人は突然そう問いかけた。


挨拶も前置きもない。老人にとってはおそらく、これが挨拶の代わりなのだろう。


我は老人を見た。


これは試している。しかし試し方が、実俊さねとしのそれとも真澄ますみのそれとも違う。陰陽師や半妖は、我の力を測ろうとする。この老人は力を測っていない。考えを測っている。


我は庭の方へ視線を向けた。


青葉が風に揺れている。光の向きが変わると、緑の深さが変わる。同じ葉が、刻一刻と違う色を持つ。


老人が待っていた。急かさない。


我は尾を低く、一定のリズムで振った。これは我の考えが動いているときの動作だ。


老人が笑った。


「目で語るか。良い」


「お主の答えは見えた気がするが、口にする言葉とは違う。続けよ」


我は庭から老人へ視線を戻した。


「理とは、物事が続いていく筋道のことだと、わしは長い時間の中で思うようになった」


老人が茶碗を両手で包んだ。


「止まらぬことが理の本性だ。橋姫は止まっておった。流れを止めて、一点に留まっておった。あれほどの念が凝れば、力はある。しかし理からは外れている」


我は縁側の板を一度踏んだ。同意の意思表示だ。


老人の目が細くなった。


「お主は、力があるのに止まっておる部分がある。それが猫の体のせいか、選択のせいか——外から見ただけでは判じかねる」


判じかねる、と老人は言った。しかしその目は、すでに何かを判じている目だった。



「異世界の理論と、この世界の陰陽五行は、本質で繋がっているとお主は考えているか」


老人の次の問いは、また突然だった。


我は老人を見た。


異世界。


その言葉を、この老人がどこから持ってきたのか。直接的に前世の話を知っているのか、それとも我の気配の質から推測したのか、判断がつかない。


「驚かせようとして言ったわけではない」


老人が続けた。


「長く生きると、様々な気配に触れる。時々、本来いるべきではない場所にいる気配の者と出会う。お主はその類だと見ている。それだけだ」


老人が茶碗を縁側の板に置いた。


「その答えを聞きたいわけでもない。ただ——本来の場所ではない場所で理を扱う者が、どういう理解を持っているか、それは聞いておく価値がある」


我は老人の横顔を見た。


この老人は、返事を求めていない。問いそのものを置きに来ている。問いが場に残って、それを我が抱えていく——そういう会話の作り方をする。


我は尾を一度だけ、水平に払った。


本質で繋がっている。そう思っている。


その意味を込めた動作だったが、老人にどこまで伝わったかは分からない。


「そうか」と老人は言った。それだけで満足した顔をした。



縁側に、藤原真白が出てきたのはそのころだった。


朝餉の前に庭を見ようとしたのか、薄い単衣を着たままで障子を開けた。老人の姿に、一度だけ目が止まった。


「まあ」


驚きではなく、確認の声だった。この令嬢は、縁側に見知らぬ老人が座っていても、慌てる前に観察する。


「おはようございます」


真白が老人に挨拶した。


老人が振り返った。そして、深く頭を下げた。


「姫君の屋敷に、無断で上がり込んで申し訳ない」


老人の声が変わった。先ほどまでとは打って変わって、礼儀正しい。


「ぬらりひょんと申す者。黒猫殿と少し話をしに来た」


真白が我を見た。


我は真白を見た。


「くろまろのお友達?」


老人が目を細めた。


「友達とは、また——お主は友達を作るのか」


我は老人を見なかった。庭の青葉を見た。



「ひとつ、聞いてよろしいですか」


真白が老人の隣に腰を下ろした。


老人が「どうぞ」と答えた。


「橋姫のことが、気になっているの。あの方は、これから——どこへ行くのでしょう」


老人が少し間を置いた。


「流れた」


「流れた?」


「川に溶けた。あの橋姫は、念を手放して川の一部になった。どこへ行くと言えば、川が行くところへ行く。海まで行くかもしれないし、途中で雲になるかもしれない」


真白がゆっくりと頷いた。


「寂しい終わり方だったかしら」


「終わりか始まりかは、分からん」と老人は言った。「お主の言霊ことだまが届かなければ、あの念はあの橋でもっと長く固まっておった。届いたから、動けた」


「届いたから壊れた、とも言えませんか」


「届いたから変われた、の方が正確だろう」


老人が茶を一口飲んだ。


「届かなかった言葉が長く積もると、念になる。お主が届けた言葉は、その積もりを崩した。崩れると一度は激しくなる——わしが宇治で見たのも、その段階だった——が、崩れてから流れるまでには、届かせた者の力がいる」


「くろまろが、助けてくれたから」


老人が我を見た。


我は縁側の板の木目を見ていた。



老人が立ち上がったのは、日が中天に向かって上がり始めた頃だった。


茶碗を置き、衣の裾を整え、特に急ぐでもなく門の方へ向かった。


「お主に、一つだけ伝えておく」


門の前で、老人が我を振り返った。


「力を持つ者は、力を使う理由を持つことが先だ。理由が先にあれば、使い道は後からでも整う。理由がないまま力だけが大きくなると、あの橋姫の念のように、一点に凝り固まる」


老人の目が、真白ではなく我を見ていた。


「お主にはすでに、理由があるように見える。それは良いことだ」


我は老人を見た。


どこまで読んでいるのか分からない老人だ。しかし、それを不快とは思わなかった。


「またぶらりと来るかもしれん」


老人が門を出た。


振り返らなかった。路地の先で、老人の体がゆっくりと、街の雑踏に溶け込むように消えた。


砂利に足跡は残っていなかった。



真白が庭に降りて、老人の消えた方向を眺めた。


「不思議な方だったわね」


我は縁側に戻った。


「くろまろは、あの方と何を話していたの」


我は真白を見た。


理の話をしていた、と言えれば話は早い。しかし声はない。


「顔を見ると、なんとなく分かるわ。難しい顔をしてた」


真白が笑いながら縁側に上がってきた。我の横に座った。


「くろまろは、難しいことを考えるのが好きなのね。ねえ」


そういう問題ではない、と思ったが、反論の手段がない。


庭の青葉の向こうに夏の光が差し込んで、砂利の白さが増した。ぬらりひょんが座っていた縁側の端には、茶碗だけが残っていた。中の茶は、ちょうど飲み干された量だけなくなっていた。


真白がその茶碗を見て、また笑った。


「ちゃんと飲み切っていった。行儀のいい方ね」


我は茶碗から目を外して、空を見た。


理由が先にあれば、使い道は後から整う。


老人が言い残したその言葉が、まだ縁側の空気の中にあった。

【妖怪図鑑】


■ぬらりひょん(滑瓢)

【分類】総大将系妖怪・稀客型

【危険度】★☆☆☆☆(測定不能につき表記省略)

【レア度】★★★★★(目撃談は多いが実体を捉えられた例なし)

【出現場所】人家の縁側、台所、応接の間。いつの間にかいる。


【特徴】

妖怪の総大将とも呼ばれるが、本人にその自覚はない。大きな頭と細い眼を持つ老人の姿で現れ、人家に断りなく上がり込んで茶を飲む。家人はなぜか止めようとしないか、あるいは止める間もなく状況が進んでいる。悪意はなく、ただ気が向いたところへ行く。長命で、各地の妖怪や人間の動向を広く把握している。妖怪の総大将と言われるのは、その情報量と古さゆえかもしれない。


【得意技】

・透過:家に自然に溶け込む。誰も止めないし、なぜか止めにくい。

・見透かし:相手の気の質から、その者の本性や来歴をある程度読み取る。

・問いを置く:答えを求めず、問いだけを残していく。その問いは相手の中に長く残る。


【弱点】

・特になし。追い払うことも呼び戻すことも、基本的にできない。


【生態】

各地をぶらりぶらりとうろついている。特定の縄張りを持たず、気の向くままに人家や妖怪の集落に立ち寄る。長くは留まらない。去り際に何かを言い残すことがあるが、それが助言なのか独り言なのか、聞いた者にも判然としないことが多い。茶を飲み干す礼儀だけは守る。


【玄丸の評価】

「あれだけの気配を持ちながら、圧力として押し付けてこない。力の扱いとして、今まで出会ったどの存在とも異なる。問いを置いて去るやり方は、答えを急がせない分だけ、返って深く刺さる。妖怪の総大将かどうかは関係ない——あれは、長く生きて多くを見てきた者の気配だ」


【遭遇時の対処法】

気づいた時にはすでに縁側や台所にいる。慌てて追い払おうとすると失礼になる可能性があるため、そのまま接客するのが無難。茶を出すと飲み干して去る。問いかけてきた場合は、答えを無理に出す必要はない。問いはしばらく持ち歩いていると、意味が分かることがある。


【豆知識】

ぬらりひょんの名の由来は諸説あり、「ぬらりくらりとしてつかまえどころがない」から来るという説が有力。江戸時代の妖怪絵本に繰り返し登場し、大きな頭と細い眼が特徴的な老人として描かれることが多い。「妖怪の総大将」という説は比較的新しく、伝統的な伝承では単に「人家に入り込む不思議な老人」として語られることが多かった。今回の個体が宇治の件を把握していたことから、妖怪同士の情報共有に何らかの役割を持っている可能性がある。

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