第八十二話「帰路」
旅から戻る道は、行きの道より短く感じる。
景色が同じなのに距離が縮むのは、見知らぬものがなくなるからだ。往路では一つ一つ確かめながら進んでいたものを、帰路では流すように見る。それが「慣れ」というものだ——と玄丸は考えてから、自分が都を出て三日しか経っていないことを思い直した。三日で慣れるほど、猫の感覚は雑ではない。
単純に、向かっている先が分かっているから、速い。
そういうことだろう。
牛車が宿場町を出て、山裾の道に入った。初夏の午前の光が葉の隙間を抜けて、道の上に斑を作っている。
藤原真白(ふじわら の ましろ)は車内で膝に手を揃えていた。昨夜よりよく眠れたのか、顔色が良い。
「母上に何か土産を持って帰りたかったけれど」
独り言のように言った。
真名井実俊(まない の さねとし)が向かいから答えた。
「宇治の宿でいただいた干し魚はまだあります。喜ばれるのでは」
「干し魚では素気ないわ」
「では宇治茶でよかったのですが、あの町では買いそびれて」
「次に行く機会があったら、必ず買うことにします」
実俊が「次に行く機会が——」と言いかけて、続けなかった。橋姫の件は一区切りついたが、「次」があるかどうかは別の話だ。宇治への用が再び生じるとは限らない。
真白が窓の外に視線を向けた。
「でも、帰るのが楽しみ」
「何かあるのですか」
「母上と、色々話したいことがあって」
実俊が頷いた。
玄丸は牛車の端で前脚を揃えていた。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)は牛車の外を歩いていた。
荷を積んだ牛の傍を一定の速度で進みながら、道の周囲を見ている。旅の護衛は出発から到着まで続く。橋姫の件が片付いても、帰路の安全に油断はない。それが真澄の在り方だ。
玄丸は窓から外の真澄を見た。
真澄の歩き方は変わらない。都を出た時も、宇治に着いた時も、今も同じ歩幅、同じ速度。感情が歩調に出ない人間だ。
橋姫の夜を振り返ると、真澄は橋の外で玄丸と真白を見ていた。
二晩とも。
何かあれば駆け込めるよう、外で待ち続けた。飛び込んで助けることも、術で介入することも、どちらもできる立場でそれをしなかった。判断の余地があって、二晩とも橋の外に留まった。
内側で動いている水と、外から流れを作る風。
口無し女の夜も、宇治の二夜も、その構造は変わらなかった。
玄丸と真白が橋の上で動き、真澄と実俊が外で構えを保つ。四人の役割が自然に分かれている。頼んだわけでも決めたわけでもない。それぞれが一番役立てる位置に、自分で立つ。
この四者の在り方が定まってきたのは、いつ頃からだろうかと玄丸は思った。
——50話の頃、実俊が仲間として加わった、と考えればいい。あの夜、実俊は「真白殿を守るという点では同じだ」と言った。それが起点だ。
玄丸は窓から目を戻した。
真白が茶を一口飲んでいた。
昼を少し過ぎた頃、道が開けた。
山が遠くなり、田が広がり、遠くに都の輪郭が見え始めた。
「あ」と真白が小さく声を上げた。
都が見えた時の声だった。嬉しいというより、安心した、という種類の音だった。
実俊が「あと一刻ほどです」と言い、真白が頷いた。
玄丸は窓の外に顔を出した。
初夏の霞の向こうに、都の屋根が連なっている。三日離れただけで、少し遠い場所になっていた。しかし遠く見える分だけ、全体の形が見えた。
普段は内側から見ているから分からない形だ。
——屋敷の白砂。真白の部屋。母君の居室。厨でわらべとお梅が何か作っている。真澄が庭の様子を確かめている。
帰ればある景色を、玄丸は三日ぶりに思い出した。
待っている場所がある、ということは——と玄丸は考えかけて、橋姫の記憶に触れた昨夜のことを重ねた。
橋姫には帰る場所がなかった。橋の上が唯一の場所で、それが「留まる理由」になっていた。去れるようになったのは、留まることに意味がなくなったからではなく——流れていける方向が見えたからだ。
同じではない。
玄丸には都がある。真白がいる屋敷がある。
帰れる場所と留まる場所は、違う。
田を抜け、街道に出ると、行き交う人が増えた。
荷を担いだ商人、旅装の僧侶、馬を引く武者。都の門が近い。
牛車が速度を落として、人の流れに混じった。
「着いたら、すぐに母上のところへ行きます」
真白が言った。
「まず休んでからでよいのでは」と実俊が言った。
「会いたいから行きます」
実俊が口を閉じた。
玄丸は窓枠に顎を乗せて、都の門を見ていた。見慣れた木造の門だ。くぐり慣れた門だ。しかし今日は、三日ぶりにくぐる。
同じ門が、少し違って見える。
これも、帰る、ということの形だろうか。
牛車が門をくぐった。都の石畳の音に変わった。
屋敷に戻ると、お梅が玄関まで出てきた。
「おかえりなさいませ。お疲れ様でした」
真白が「ただいま、お梅」と答えた。
わらべが厨の方から顔を出した。
「まちろさまー!」
真白が笑った。
「ただいま、わらべ」
わらべが駆け寄ってきた。真白の袖を引いて、厨の方を指差した。
「あのね、野いちごのおかしつくったの!」
「まあ、食べたい」
「うん! あと玄丸にもあるよ!」
玄丸は玄関の石畳から、屋敷の中を見た。
三日前と変わらない場所だった。同じ匂いで、同じ空気で、同じ温もりがある。しかしそこに帰ってきた、という感覚が、温もりをわずかに違う重さにしていた。
真白がわらべの手を引いて厨の方へ歩いていく。
その後ろ姿を見ながら、玄丸は屋敷の中へ入った。
石畳から板間へ。足の裏の感触が変わる。
——帰ってきた。
その一語が、体の奥でひとつだけ、静かに落ち着いた。
母君の居室へ行ったのは、夕刻前だった。
真白が先に入り、玄丸はしばらく廊下で待った。障子越しに声が聞こえた。真白が宇治のことを話している。橋の話、川の話、宿場の話。詳細よりも感触を伝えるような話し方だ。
母君の相槌が、ゆっくりと届いた。
咳はしていない。声が以前より少し力を取り戻している。三日で変わるものではないが、方向として良い。
玄丸は廊下に座り、その声を聞いていた。
やがて障子が開いて、真白が出てきた。
「母上が会いたいって」
玄丸は廊下から居室へ入った。
母君が薄縁に起き上がっていた。手を膝に置き、玄丸を見た。
「戻りましたね」
玄丸は母君の傍へ歩いた。前脚を揃えて、母君の前で止まった。
「真白を連れて帰ってきてくれました」
母君の手が伸びてきた。玄丸の頭を、一度だけ撫でた。
「ありがとう」
短い言葉だった。しかし昨夜の宿場の座敷童子が「すこしはたすけてる」と言った時の声と、どこか同じ種類の重さがあった。
玄丸は動かなかった。
撫でる手が戻った後も、しばらくそこに留まった。
真白が母君の隣に座った。二人が並んでいる。
夕の光が居室の障子を染めていた。
その夜、玄丸は縁側に出た。
都の夜の空気を、三日ぶりに吸い込んだ。
宇治川の水の気とは違う。もっと乾いていて、もっと多くのものが混ざっている。人の気配、建物の気配、夜の花の香り。都は宇治より騒がしいが、この騒がしさが馴染んだものだった。
真白の部屋から灯りが漏れていた。
宿場の座敷童子は今夜も天井にいる。橋姫は川の流れに溶けて、どこか遠くへ向かっている。一つ目小僧はうまく北の山へ辿り着いただろうか。
旅で出会った者たちが、それぞれの場所にいる。
玄丸は庭の白砂を見た。三日前と変わらない白砂だ。しかし今夜は、その白さが少し新しく見えた。慣れた場所が、一度離れて戻ることで、新しく見える。これも帰る、ということの形だ。
灯りが消えた。真白が眠りについた。
玄丸は縁側から部屋へ戻った。真白の傍らに落ち着く。
三日分の疲労と、三日分の出来事が体に残っていた。橋姫の記憶の冷たさも、座敷童子の温もりも。川底の古い光も。
それらを持ったまま、玄丸は目を閉じた。
旅は終わった。
次の日常が、明日から始まる。




