第八十一話「宿場の座敷わらし」
橋姫が去った翌朝は、宇治川の水音が違って聞こえた。
昨夜まで橋の周辺に溜まっていた気の密度が薄れ、川の音が素直に届くようになった。水の流れそのものは変わらないのに、聞こえ方が変わる。これも理の話だ。気が乱れている場所では、音の伝わり方まで歪む。
玄丸は宿の縁板で、その音を聞いていた。
前脚を揃えて、耳だけを川の方へ向けている。昨夜の夢鏡の消耗は、一晩寝て半分ほど戻った。もう半日あれば十分だろう。宇治での用は済んだ。今日は帰路につく。
縁板の向こうで、藤原真白(ふじわら の ましろ)が荷をまとめる音がしていた。
出発は巳の刻過ぎだった。
真名井実俊(まない の さねとし)が宿の主人に礼を言い、葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が荷の最終確認をした。
橋の前を通る時、四人と一匹は自然に足を緩めた。
昨夜まで白い影が立っていた橋の中ほど。今朝はただの橋だった。板が川風に乾き、欄干の木目が朝の光に明るかった。
「きれいになった」と真白が言った。
気の話だと玄丸には分かった。昨夜の夢鏡で川底に流れ始めたものが、一晩かけてさらに流れたのだろう。橋の上に滞留していた念が、ずいぶん薄くなっている。
実俊が橋の欄干に軽く触れた。
「晴元どのに報告できます。橋姫は去った、と」
「去った、というより——」と真白が言いかけた。
玄丸は川下を向いた。
真白がその動きを見て、続けた。「流れていった、ね」
実俊が頷いた。
真澄は何も言わなかった。ただ橋を一度だけ見て、先に歩き始めた。
都への道が、初夏の光の中に伸びていた。
帰路は往路と同じ道を辿った。
山の稜線が近い区間を抜けると、都の外縁が視界に入り始める。田が広がり、人の気配が増し、牛車の数も増える。玄丸は牛車の窓から外を見ていた。真白は手元で何かを書いていた。道中に思いついた言葉を書き留める習慣がある。揺れる牛車の中でも、筆の動きは乱れない。
昼を過ぎた頃、宿場の町が見えてきた。
往路には泊まらずに通り過ぎた場所だ。今日は日が傾く前に都へ入れるはずだが、荷を積んだ牛が疲れてきていた。馭者が真澄に一言告げると、真澄が判断した。
「今夜は宿を取りますでざろう」
実俊が異議を挟まなかった。真白も頷いた。
宿場町に入ると、にぎやかさが変わった。往来の人が増え、商いの声が飛び交う。宇治の川辺の静けさとは対照的だ。
宿は、通りの奥まった場所にあった。
間口は狭いが、奥行きがある古い作りの宿屋だ。看板の字が風雨で薄れていて、それだけ長く営んできたことが分かった。
暖簾をくぐった瞬間、玄丸は気配を感じた。
人の気配ではない。妖の気配でもない。もっと古く、もっと軽い。屋敷に長く留まる種類の気配——座敷童子だ。
しかも、子供だった。
宿の主人は四十がらみの無口な男で、部屋に案内してからすぐに引っ込んだ。
廊下を歩きながら、玄丸はその気配の出処を確かめた。
東の端の部屋の近く。床下かもしれない。あるいは天井裏。座敷童子は特定の場所に縛られる存在ではないが、好む場所を持つ。古い宿の古い梁の上など、いかにもその種の妖怪が落ち着く場所だ。
玄丸は廊下の途中で立ち止まり、天井を見上げた。
東の端の天井板が、わずかに動いた。
見ている。
玄丸は視線を元に戻し、真白たちの後を追った。
部屋に荷を解いてしばらくすると、実俊が廊下に出た。
「宿場の問屋に少し寄ってきます。晴元どのへの報告を早馬で頼めるか確かめたい」
真澄が「ご随意に」と答え、実俊は出ていった。
真白は旅の疲れが出たのか、荷をまとめ終えてから横になった。
真澄は縁板に出て、通りを見ている。
玄丸だけが部屋の中に残った。
天井板がまた動いた。
今度は小さな手が、板の隙間から覗いた。指が五本、揃っている。人の子供の手に見えるが、肌の色がわずかに違う。青みがかった白さだ。
玄丸は横になっている真白を確認してから、廊下へ出た。
東の端の部屋まで歩く。人気がない。その部屋の前で立ち止まり、天井を見上げた。
しばらく、何も起きなかった。
玄丸は前脚で廊下の板を一度だけ叩いた。
天井板がずれた。
小さな顔が現れた。
年の頃は五つか六つに見える。丸い頬、細い目、半開きの口。着物は古びた赤で、髪が乱れている。座敷童子の子供が、宿の天井からこちらを見下ろしていた。
目が合った。
座敷童子が頭を引っ込めかけた。
玄丸は動かなかった。追わなかった。ただそこに座って、天井板の隙間を見ていた。
しばらくして、また顔が出た。
今度は引っ込まなかった。玄丸を見ていた。
こちらが急がないと伝わったのか、座敷童子はゆっくりと天井から降りてきた。梁から板の隙間を通って、廊下に降り立つ。音がなかった。座敷童子とはそういう生き物だ。
玄丸と座敷童子が、廊下で向き合った。
座敷童子の方が背が高かった。
人の子供の背丈で、玄丸は猫だ。見上げる格好になる。それでも向き合って、互いに動かなかった。
座敷童子が口を開いた。
声は出なかった。唇が動いただけだ。
玄丸は耳を前に向けた。
座敷童子がまた唇を動かした。今度は声になりかけた。
「……おきゃく、さん」
かすれた、幼い声だった。
宿の客だと認識しているらしい。玄丸は尾を一度揺らした。
座敷童子が少し近づいた。真黒な目で、玄丸の顔を覗き込む。
「ねこ、はじめてみた」
玄丸の屋敷にもわらべがいる。あの子とは顔立ちが違う。もっと幼く、もっと人の子供に近い顔だ。しかし気配の質は似ている。古い家に宿る、純粋に無害な気配。
座敷童子が手を伸ばしてきた。
玄丸は避けなかった。
小さな手が、玄丸の頭の上に乗った。そのまま止まった。撫でることを知らないのか、触れることに驚いているのか、どちらかよく分からない。ただ手が乗っている。
「あたたかい」
座敷童子が言った。
玄丸は前脚を揃えて座り直した。その場から動かない意思を、体の重さで示した。
真澄が縁板から戻ってきたのは、少し後だった。
廊下の様子を見て、一拍止まった。
玄丸と座敷童子が廊下に並んで座っている。座敷童子は玄丸の頭に手を乗せたまま、じっとしている。
真澄は何も言わなかった。
部屋の前を通り過ぎる時に、座敷童子の方へ一度だけ目を向けた。座敷童子は真澄を見て、わずかに体を縮めた。人間より妖の気配を持つ者が近づくと、こういう反応をするらしい。
真澄が通り過ぎてから、座敷童子の緊張が解けた。
「あのひと、こわい」
玄丸の頭の上で、小声が言った。
真澄が怖いかどうかは、立場によるだろう、と玄丸は思った。
夕餉の頃、宿の主人が膳を運んできた。
玄丸には別に魚の切り身が用意されていた。旅先でこういう扱いを受けるのは珍しい。真白が頼んでいたのかもしれない。
四人が膳を囲む間、玄丸は部屋の隅で食べた。
夕餉が終わってしばらくすると、宿の主人が酒を追加で持ってきた。その様子を見ていた実俊が、帰り際の主人に声をかけた。
「この宿は、長いのですか」
主人が振り返った。
「祖父の代からです。もう七十年ほど」
「繁盛していますね」
主人が少し表情を和らげた。口数が少ない男だが、宿を褒められると違う顔になるらしい。
「おかげさまで。この宿には守り神がおりますので」
実俊が「守り神、ですか」と聞いた。
「子供の頃から家にいます。座敷の子です。あの子がいる限り、宿は続く、と祖父から聞いています」
主人は短くそれだけ言って、部屋を出ていった。
実俊が玄丸を見た。
玄丸は魚の骨を見ていた。
「……廊下でいたのは、その子ですか」
返事はしなかった。尾の先だけが、わずかに動いた。
夜が更けてから、玄丸は廊下に出た。
座敷童子はまた天井にいた。
降りてくるまで待った。今度は早かった。もう警戒していない。
座敷童子が廊下に降り立ち、玄丸の横に座った。
人の子供が並んで座るように、膝を抱えて。
月明かりが廊下の端に差し込んでいた。宇治川ほど濃い月ではないが、それでも水の気がわずかに増している。玄丸の体に残っていた消耗が、もう少し回復した。
「ずっと、ここにいるのか」
そういう意を、耳と尾の向きで示した。
座敷童子が頷いた。
「うん。ここが、すき」
「一人で」
「うん」
短い返答だったが、寂しさの色がなかった。ここが好きだという言葉は、本物だった。
屋敷にいるわらべのことを、玄丸は思い出した。
わらべは屋敷の厨で、お梅と料理を作っている。人間の中に交じって、賑やかに過ごしている。この子は違う。宿場の天井に一人でいて、客が来るたびにこっそり見ている。
どちらが正しいということはない。
座敷童子にも、それぞれの在り方がある。
「この宿は繁盛している」
玄丸はそういう意を込めて、宿の奥の方を向いた。
座敷童子が玄丸の視線の先を見た。
「おじさんが、がんばってるから」
少し間があった。
「……わたしも、すこしはたすけてる」
最後は小声だった。自分で言ってから恥ずかしくなったのか、膝を抱える腕の力が増した。
玄丸は前を向いた。
七十年、宿を続けることができた。主人が「守り神がいる」と言った。その守り神は今、玄丸の横で膝を抱えて座っている。
すこしは助けている、という言葉は正確ではないかもしれない。
座敷童子が宿にいるだけで、その場所の気が整う。それは力ではなく、存在の話だ。そこにいる、というだけで何かが変わる。
玄丸は自分のことを考えた。
猫の体で、この屋敷に来てから一年と少し。声もなく、言葉もない。できることは限られている。それでも真白の傍にいる。そこにいる、というだけで——何かが変わっているなら、それでいい。
「この宿に来てよかった」
座敷童子が言った。玄丸に向けてではなく、月明かりの方へ向けて。
「おきゃくさん、いろいろいるけど——ねこは、はじめてだから」
玄丸は尾を一度、穏やかに払った。
座敷童子が玄丸を見た。笑っているのかどうか、その顔では読みにくい。しかし目の色が変わっていた。
こちらも、来てよかった。
そういう意を込めて、前脚を伸ばして床に置いた。ごく自然な姿勢だ。ただ、その場にいる。
二人はしばらく、廊下の月明かりの中に並んでいた。
翌朝、出発の前に真白が宿の主人に声をかけた。
「よい宿でした。この宿には守り神がいると、昨夜聞きました」
主人がまた表情を和らげた。
「おります。子供の頃から」
「会ってみたかったです」
主人が少し驚いた顔をした。客に守り神の話をしても、たいていは曖昧に聞き流すらしい。
「姫様のような方には、見えるかもしれません。静かな子ですが、この宿をずっと見守っています」
真白が頷いた。
「大切にしてあげてください」
主人が深く頭を下げた。
玄丸は宿の入り口から、天井の方を一度見上げた。
座敷童子の気配があった。
降りてはこなかった。ただ、そこから見ていた。
玄丸は先に外へ出た。初夏の朝の光が、宿場の通りを照らしていた。
都への道が続いている。
牛車が動き始めると、宿場の町がすぐに遠くなった。
真白が窓の外を見ていた。
「守り神って、頼まれてやっているわけじゃないのよね」
独り言のような声だった。
玄丸は真白の横で前脚を揃えていた。
「ただそこにいるだけで、何かを守っている。不思議だわ」
玄丸は前を向いたまま、特に返答しなかった。
していることと、されていることの間に、言葉は要らない場合がある。
牛車の揺れが、二人を同じ速さで都へ運んでいく。
宿場の天井板の向こうで、座敷童子はまた静かにそこにいるだろう。今日も客が来て、今日も主人が働いて、宿は続く。
その繁盛の理由は、帳簿には書かれない。
【妖怪図鑑】
■宿場の座敷童子
【分類】家屋守護妖怪
【危険度】★☆☆☆☆(無害)
【レア度】★★★★☆(希少。屋敷付きの座敷童子は多いが、宿場の座敷童子は珍しい)
【出現場所】長年続く宿屋・商家・農家の天井裏、床下、人目のつかない隅
【特徴】
座敷童子は特定の家屋に宿り、その家に福をもたらす存在として知られる。子供の姿をしており、年の頃は五歳から七歳ほどに見える。今回の個体は宿場町の老舗宿に七十年以上棲みついており、主人の祖父の代から宿を見守ってきた。
言葉は話せるが声が細く、基本的に人前に出ない。客には姿を見せず、天井や床下から存在を感じさせる程度に留まる。しかし清らかな心を持つ者や、妖の気配に敏感な存在には、自ら近づくことがある。
撫でるという行為を知らなかったが、温もりには反応する。玄丸との出会いで「猫の温かさ」を初めて体験した。
【得意技】
・福徳放射:その場にいるだけで周囲の気が整い、商売・健康・人の縁に良い影響をもたらす。本人は意識していない。
・不可視:人間の目に映らない状態を保つことができる。見せようとしない限り、姿は見えない。
・場所の記憶:長年いた場所の状態を細かく把握しており、修繕が必要な箇所や危険な場所を無意識に把握している。
【弱点】
・強い妖気を持つ存在に近づかれると萎縮する
・その場所から離れることができない(場所と深く結びついているため)
・急な環境の変化(建て替えや取り壊し)に弱い
【生態】
座敷童子は、その家の繁栄と深く結びついている。座敷童子が去った家は衰退するという言い伝えがあるのは、両者の気が一体化しているからだ。今回の個体は「宿が繁盛しているのは主人が頑張っているから」と認識しており、自分の存在価値を過小評価している節がある。しかし実際には、七十年の繁盛の一因は確かにこの子の存在にある。
屋敷に棲む座敷童子と違い、宿場の座敷童子は客が変わるたびに様々な人間を観察してきた。そのため人間の多様性を知っているが、直接交流する機会はほとんどなかった。
【玄丸の評価】
「そこにいるだけで何かを守る。それを意識していないのは、むしろ本物の証だろう。力を誇示しない在り方は、理として見れば最も無駄がない。この子の存在が宿の繁盛を支えてきたことは確かだが、『わたしもすこしは助けている』という言葉の小ささが、かえって説得力を持つ」
【遭遇時の対処法】
会おうとして会えるものではない。急かさず、静かにそこにいることが最善の対処法。座敷童子が姿を見せた場合は驚かせないこと。触れようとする時は相手が近づいてくるのを待つこと。
【豆知識】
座敷童子の伝承は東北地方に特に濃く残るが、西国や都にも類似の存在の記録がある。「童子」という名の通り子供の姿をしているが、実際の年齢は家の歴史と同じだけ長い場合もある。今回の個体は七十年以上この宿にいるが、その姿は常に幼い子供のままだ。
藤原家の屋敷にも「わらべ」と呼ばれる座敷童子がいる(第十六話で登場)。あちらは厨に馴染んで料理を手伝うほど活発だが、こちらは人目を避けて天井に留まる。同じ座敷童子でも、棲む場所や環境によって在り方が大きく異なる。




