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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第四章:橋姫編と日常

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第八十話「水鏡の慰め」

朝の光が宿の縁板えんいたを染める前に、玄丸くろまろは目を覚ましていた。


川の音が止んでいなかった。昨夜からずっと続いている。流れる水に昼も夜もない。橋脚を叩き、岸の石を削り、ただ流れ続ける。その音の中で、橋姫はしひめは今もあの場所に留まっているだろうか。


宿の板間に寝そべったまま、足の裏で宇治川うじがわの気配を読んだ。


昨夜より落ち着いている。荒れた感情が水に溶けて下流へ少し流れたのかもしれない。それとも疲れたのか。長く留まる者は、感情さえ疲弊する。


板間の向こうで、藤原真白(ふじわら の ましろ)の寝息が変わった。浅くなっている。もうすぐ目が覚める。


葛上真澄(かずらがみ の ますみ)は夜通し起きていた。真名井実俊(まない の さねとし)は明け方に短く眠ったようだった。四人と一匹が宿の隣室に分かれて夜を越した。


初夏の夜明けは早い。


鳥の声がひとつ、二つと重なり始めた。



真白が起きたのは、空が白む少し前だった。


身支度を済ませ、縁板に出て川の方を見る。その横顔に、昨夜ほどの緊張はなかった。代わりに、何かを整理している者の静けさがあった。


「届いたとしても、傷にしかならないなら」


独り言のように言った。


玄丸は縁板の端に座り、言葉の続きを待った。


「もう一段、深くまで届かせないといけないのかもしれない」


深く、というのが何を指すか、すぐには分からなかった。言葉の表面ではなく、その下にある何かまで届かせる——ということだろうか。


真白が振り返り、玄丸を見た。


夢鏡むきょうで、橋姫の中を見ることはできるの」


答えるすべがない。ただ、その問いが正確であることを、尾の角度で示した。できるかできないかではなく、昨夜の荒れ方を見て、真白が自分なりに戦略を立てていた。


「昨夜、玄丸が結界座けっかいざを張っていたとき。あの水の気の圧力が、玄丸を通して少し弱まった気がした。玄丸が橋姫の気に触れながら、私との間に立っていた」


そうだ。


無意識ではなかった。封じるためではなく、橋姫の気を受け取りながら真白への直撃を和らげるために、あの場所に立った。水の理と土の理を同時に使うのは消耗が大きいが、触媒として機能した。


「今夜は、玄丸が橋姫の記憶に触れながら、私が言霊を届ける。そういうことが——できるかしら」


できるかどうか、試したことはない。


しかし、口無し女の夜に学んだことがある。あの時も、真白の言霊が水の理を引いた。玄丸が水を整え、真白の声が形を与えた。あの連携の、より深い形だ。


玄丸は縁板から立ち上がり、一歩だけ川の方へ向いた。


それで十分だった。


「一緒にやってみましょう」と真白が言い、声に迷いがなかった。



朝餉あさげの後、実俊が昨夜の記録を広げた。


橋の上で何が起きたか、気の動き方、橋姫の反応の順序。陰陽師おんみょうじとしての記録は細かく、真白が感じた「届いたが壊れた」という感覚を、言葉で補強するように並べてあった。


「橋姫が荒れたのは、真白殿の言葉が届いた直後でした。問題は言霊の質ではなく、橋姫が受け取った後に何が起きたか——来るはずのないものが来た、と処理した」


「来るはずのないもの」と真白が繰り返した。「橋姫が待っていた相手ではない、ということ」


「そうです。待っていた相手はもはやいない。それを、真白殿の声が突きつけた形になった」


実俊が書付を閉じた。


「今夜もう一度行くとすれば、まず橋姫が何を待っていたかを知る必要があります。怒りに形を与えず、悲しみの根を辿る。それができれば——」


「玄丸が橋姫の記憶に触れる」


真白が続けた。実俊が少し驚いた顔をした。


「昨夜も、玄丸は橋姫の気の中に立っていました。あの子は橋姫の感情を整えながら、私との間にいた。同じことを、今夜はもう少し深くやってもらう」


実俊が玄丸を見た。


「夢鏡の上級域まで届いているなら——理論上は可能です。ただし、相手が感情を荒れさせる前に、記憶の層に触れなければならない」


真澄が茶碗を置いた。


「昨夜、橋姫の気が水の圧として放たれた際、玄丸殿の結界座が受け止めた時間はおおよそ四十の呼吸分でございました。その間、橋姫の気の色が変化しておりましたでざろう」


全員が真澄を見た。


「怒りと悲しみが、同じ波の形をしておりました。長く一緒にいた感情は、そうなります。どちらかひとつを動かせば、もう一方も動く。悲しみに触れながら怒りを和らげることが——できないとは限りませんでざろう」


実俊が書付をまた開いた。


「では今夜は、玄丸が先に橋姫の気に入る。悲しみの層を開いてから、真白殿が言霊を届ける、という順序ですか」


「逆です」と真白が言った。「私が最初に声をかける。橋姫が私に向いた瞬間、玄丸が水の理で記憶の層に触れる」


「同時に」


「声と水の理を、同時に」


実俊がしばらく黙った。


「……口無し女の夜に近いですね」


「あの夜より、玄丸の水の理は深くなっています」


玄丸は板間に座ったまま、前脚の先を見ていた。


口無し女の夜は、真白の言霊が主体で、玄丸は補助だった。今夜は——真白が核心を突く声を届け、玄丸が橋姫の内側に入る。それを同時にやる。


消耗は昨夜より大きくなる。


それでも、やれない理由はなかった。



昼間、玄丸は橋の下流まで一人で歩いた。


人がいない時刻を選んで、川岸の石の上に座った。宇治川の流れを正面から受ける。足の裏に、水の気が積み重なった場所の密度が伝わってくる。


橋姫がいるのは橋の上だが、その気は川全体に滲んでいた。川の流れが橋姫の感情を運び続けて、この川底に染み込んでいる。


喉の奥で、意識を絞った。


水の理は受動的な理だ。映す、流す、冷やす——いずれも、何かを押し出すのではなく、受け取ることで機能する。夢鏡も同じだ。相手の記憶を引き出すのではなく、そこに在るものを映し取る。


昨夜、橋姫の顔を見た。目に何も映らない顔。


あの目は、待ち続けた末に失われた何かの跡だった。


失う前に、あったものがある。


失う前に待っていた者がいた。その者との記憶が、水に溶けながらも川底に残っている。川は流れ続けるのに、その記憶だけは流れていかなかった。


今夜、そこに触れる。


川の流れが石を叩く音を聞きながら、玄丸は水の理の準備を始めた。


呼吸のように、力を集める。昨夜の夢鏡は消耗が大きかったが、回復は十分だった。満月は過ぎたが、宇治川の水の気が月光の代わりになる。この川の気の濃さは、都の川と比べものにならない。


力は、ある。


問題は深さだ。昨夜の荒れ方を見ると、橋姫の感情の層は厚い。表面の怒りを突き抜けて、悲しみの根まで届かせなければならない。


川岸の石が、日差しで温まっていた。


初夏の水の冷たさと、石の温度が混在する。


玄丸は目を細めた。


今夜が、橋姫に残された最後の機会かもしれない、という気がした。理的な根拠はない。ただ、昨夜の「壊れた」という後に、橋姫は何かを決めようとしていた。それがどちらの方向かは、まだ分からない。



日が傾いた後、四人と一匹は橋へ向かった。


宿を出る前に、真澄が一度だけ玄丸を見た。


「橋姫の気が今夜は昨夜より落ち着いております。だからこそ、深く入れます。ただし、落ち着いた水は深い。気をつけてくださいませでざろう」


昨夜と同じ警告だったが、内容は違った。荒れているから危険なのではなく、静まっているから深くまで引き込まれる——という話だ。


川辺の道を歩くにつれ、水の気が体に染み込んでくる。


橋の手前で立ち止まった時、橋の上はまだ暗かった。月が出るには少し早い。初夏の空に残光があり、その下で橋の板が黒く浮かんでいた。


橋上に、影があった。


昨夜と同じ場所だ。しかし気配の質が違う。昨夜は待つことに凝り固まっていた重さだったが、今夜は——揺れている。何かが揺れている気配があった。


真白が玄丸を見た。


準備はできている、という意を、尾の角度で示した。


「行きましょう」と真白が言い、橋に踏み込んだ。



橋板を踏む音が、川音と混ざった。


実俊と真澄は橋の手前で止まった。今夜は二人が橋の外に留まる、と最初から決めていた。真白と玄丸だけが橋に上がる。


橋姫は振り返らなかった。


川下を向いたまま立っている。昨夜の荒れた気配は収まっていたが、それは解決したのではなく、疲弊した後の静けさだった。


真白が橋の中ほどまで進んだ。


玄丸は真白の三歩前に出た。


橋姫の気配が、玄丸の足の裏に来た。昨夜より密度が薄い。疲れている。その分、深いところが見えやすくなっていた。感情の表面が落ち着くと、その下にある古いものが浮かんでくる。


「橋姫」


真白が呼んだ。


橋姫の体が、わずかに動いた。


「昨夜、あなたの気が届きました。あなたが何かを待っていることも、その待つことが長すぎたことも」


橋姫はまだ川下を向いていた。しかし体の緊張が変わった。


玄丸は足の裏から水の理を通した。


呼吸を揃えるように、川の流れに意識を乗せる。橋の下を流れる水が橋姫の気と混ざっているところまで、意の糸を伸ばす。川底の、古い記憶が溜まっている層まで。


夢鏡を、橋ではなく川に向ける。


川底に沈んでいる記憶に触れる。


映し取る。


玄丸の意識が、水の中に入った。


川底は冷たかった。しかし暗くはなかった。古い光が水に溶けて、薄く揺れていた。


人の記憶の断片が、川底の石の間に刻まれるように残っていた。


女の声。笑い声。春の川岸で何かを話している、遠い記憶の音。隣に誰かがいる。その誰かの気配は形を持たなかったが、傍にある温かさは確かだった。


橋の上で、橋姫の衣が揺れた。


玄丸が映し取った記憶の断片が、橋姫の内側で揺れ始めた。忘れていたのではない。毎夜繰り返していたかもしれない。それでも、外から触れられることで動き始めた。


「ここに来た人たちを、傷つけたかったわけではない」


真白が言った。


橋姫の足元の水面が、淡く光った。


「待っていた相手は、もう来ない。でも——待っていた時間は、消えていない」


橋姫が振り返った。


夜の中で、その顔が見えた。昨夜とは違う。昨夜は何も映らない目だったが、今夜は——川底に沈んでいた記憶の光が、その目に戻りかけていた。


玄丸は川底の記憶の層に、もう少し深く入った。


真澄の警告が耳に残っていた。落ち着いた水は深い。深みに引き込まれないよう、意の糸の端を橋板に引っかけたまま、奥へ向かう。


川底の光が強くなった。


春の橋の、記憶が現れた。


橋姫のものだと分かった。若い頃の記憶だ。橋の上で誰かを待っていた。待っていた相手が来た。来て、笑っていた。橋の上で並んで川を見ていた。隣に温もりがあった。


その温もりが去った。


去ったのではなく——去らざるを得なかった。橋姫が待ち続けたのは、来られなくなった事情があったからかもしれない。怨みで留まったのではなく、信じて待ち続けたのかもしれない。


玄丸が映し取ったものが、橋上に滲んだ。


橋姫の目から、光が溢れた。涙ではなく、川底に沈んでいた記憶の光が、目から外へ出てきた。


「あなたが待ち続けたことは、本物だった」


真白の声に、言霊の重みが乗った。


日常の言葉とは違う、声の奥から出てくる種類の言葉だ。言霊巫女の血が引いている言葉が、夜の川の上に広がった。


橋姫が一歩、川下から橋の端へ向いた。


水の気が変わった。


圧力ではなく、流れだった。昨夜は気が外へ放たれたが、今夜は内側の気が動いた。川底に留まっていた記憶が、水の流れに乗って川下へ向かい始めた。


玄丸は水の理の向きを変えた。


押さえるのではなく、流れを助ける。溜まっていたものが動き始めたなら、その動きを邪魔しない。川底の古い記憶が流れ始めれば、橋姫を縛っていたものも一緒に流れる。


夢鏡が、橋姫の内側と川底をつなぐ道を作った。


橋姫の衣が、穏やかに揺れた。


川の流れに合わせるように、橋姫の体が少しずつ動き始めた。川下へ向いていた顔が、川の流れる方向へ向いた。


橋姫が歩き始めた。


橋の上を、川下へ向かって。


実俊が橋の端で符を構えた。真澄が手を上げた。待て、という意図が全員に伝わった。


橋姫は橋の端まで歩き、そこで止まった。


橋の先に川下が続いている。橋姫は橋の上に留まっていた。しかし今は、川下の方を向いて立っていた。昨夜までは川下を向くことで「来ない相手を待つ」姿勢だった。今の向きは——行き先を見ている。


橋姫が振り返った。


今度は真白を見た。


目に、光があった。川底の記憶の光ではなく、別の光だ。ひと言の礼を言いたいが声を持たない者の光に、玄丸には見えた。


「行っていいよ」と真白が言った。


ひとこと。柔らかく、しかし確かな言霊だった。


橋姫の姿が薄くなった。


消えた、というのとは違う。水面に映った姿が、波によって少しずつ崩れて、やがて水に戻るような消え方だった。川の流れに溶けて、橋に留まることをやめた。


橋の上に、真白と玄丸だけが残った。


川の音が続いている。



玄丸は水の理を収めた。


深く使ったせいで、足の裏から体の芯まで疲労が来ていた。口無し女の夜より消耗した。川底の深みに入ったからだ。


それでも、体は動いた。


真白が橋の板に手をついた。立ったまま、少しの間、川を見ていた。


玄丸は真白の横に座った。


二人とも声を出さなかった。


川の音だけが、変わらず続いていた。橋姫がいなくなっても、川は流れ続けている。それが川というものだ。留まった気配が流れていくと、音がより澄んで聞こえた。


「届いた」


真白が言った。昨夜の「届いた」とは声の色が違った。昨夜は傷にしかならなかった届き方だった。今夜は——届いたまま、流れた。


玄丸は橋板を見た。


橋姫が歩いた跡は何も残っていない。しかし川底には記憶が流れ始めた。百年か、二百年か、溜まっていたものが動いた。


実俊が橋に上がってきた。


「終わりましたか」


真白が頷いた。


「橋姫は橋を離れた、と思います。どこへ行ったかは分からないけれど——留まることをやめた」


実俊が気配を確かめるように周囲を見た。


「気の圧が、きれいになっています。昨夜とは全く違う」


真澄が橋に来た。玄丸を一度見た。


「お疲れでしたでざろう」


それだけ言って、川下を向いた。


川面に月が出始めていた。初夏の満月より少し欠けた月だが、宇治川はその光を丸ごと受け取って揺らしていた。橋の板の隙間から見える川面が、月の破片で埋め尽くされていた。


真白がその光を見た。


「これが、水鏡みずかがみね」


川が月を映す。映しながら流れる。留まらない。


玄丸は真白の横で、その光を見ていた。


恋を自覚してから、真白の横顔を見る時の重さが変わったと気づいてから幾日も経つ。今夜も同じ重さがある。橋姫が待っていた温もりの記憶を、川底で触れたせいかもしれない。待ち続けることの深さを、指先ほどだけ知った。


玄丸は橋の上の月の光を見た。


川に映る月は、月ではない。川が映し取った、月の姿だ。


本物の月は上にある。水面の月は、流れながら揺れて、やがて下流へ消える。


それでも、今ここで光っている。


今ここで傍にいる。


それが、今の我にできる全部だ。



「帰りましょう」と真白が言い、橋を渡り始めた。


玄丸は後に続いた。


川の音が背中に続く。橋を渡り終えると、草の匂いがして、土の感触が足の裏に戻った。


実俊が「今夜はよく休んでください」と言い、真白が頷いた。


真澄が最後に橋の方を振り返ったが、何も言わなかった。


四人と一匹が、宿への道を歩き始めた。


川は今夜も、明日も、流れ続けるだろう。橋姫の記憶を運びながら、それも遠くまで。


川の音が、少しずつ遠ざかっていった。

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