第七十七話「旅の準備」
準備というものは、するほどに不安が増える。
藤原真白(ふじわら の ましろ)が宇治への旅支度を始めたのは、晴元が訪ねてきた翌日からだった。着替えを選び、薬を確かめ、道中に必要な品を書き出す。書き出してから、また書き直す。それを三日続けた。
我は文机の脇に座り、その繰り返しを見ていた。
書き出しては直す、というのは準備ではなく、心が落ち着かないときの手の動かし方だ。手を動かすことで考えを整理しようとしているが、整理したい本体がどこにあるかを、本人がまだ掴めていない。
四日目の朝、真白が筆を置いた。
「母上に話してこなければ」
独り言だったが、我の方を向いて言った。
藤原家の奥の間は、我がいつも入り慣れている部屋ではない。
母君の具合がよいときは障子を開けて庭に光を入れるが、今朝はひとえに薄曇りで、光の量が少なかった。部屋の中は香の匂いがした。咳止めと、体の熱を鎮める薬草を焚いた後の、少し苦い匂いだ。
真白の母君は、起き上がって薄縁の上に座っていた。枕に凭れていない分だけ、昨日より体調がよいのかもしれない。
「真白、今日は顔色がよいわね」
母君が先に言った。
真白が座った。我は入り口の近くで体を丸めた。
「宇治へ行こうと思っています」
真白が話し始めた。橋姫の噂のこと、晴元が訪ねてきたこと、言霊が届くかもしれないという話。言葉を足さず、省かず、ただ順序立てて話した。
母君は途中で口を挟まなかった。
話し終えると、母君がしばらく目を閉じた。
何かを考えているのではなく、聞いた言葉を体の中で落ち着かせているように見えた。
「宇治は、川の気が強い場所です」
やがて母君が言った。
「昔、一度だけ行ったことがあります。橋のそばに立ったとき、足元から水の冷たさとは違う何かが来た。寂しいような、重いような——言葉にならない何かが」
「橋姫の気配でしたか」
「そうかもしれないし、ただの川の気かもしれない。でも——あの橋には、誰かが長く留まっているという感覚がありました」
母君が目を開けた。
「真白、あなたは怖いと思っていない顔をしている」
「はい」
「それは強さではなく、相手をまだ知らないからよ。知らないものは怖くない。会ってみて、それから——怖いと思ったら引き返しなさい。言霊は体を捨てて使うものではありません」
「分かりました」
母君が少し笑った。頬に力を入れず、ただ表情の奥が緩んだ様子だった。
「玄丸も一緒に行くのでしょう」
我に視線が向いた。
我は耳だけを動かした。
「あの子が一緒なら、行き過ぎることはないでしょう。——さっさと行って、さっさと帰っておいで」
真白が母君の手を両手で包んだ。細い手だった。骨が浮いて見えるほど細くなっていても、手のひらの温もりが真白の指に伝わっていた。
昼過ぎ、真名井実俊(まない の さねとし)が来た。
道中の段取りを持ってきたらしく、手に書付を二枚持っていた。一枚は宿の名と道順、もう一枚は宇治橋の近くで気配が確認された場所を書き留めたものだという。
「橋から見て川下の方に、水の理が溜まりやすい場所があります。晴元どのが調べた結果では、その辺りに橋姫の気配が最も強い」
真白が書付を受け取り、目を通した。
「何日かかりますか」
「往路で半日、宇治での滞在を含めて三日あれば」
「母上が許してくれました」
実俊が少し間を置いた。
「御母堂のご容体は」
「峠は越えています。今朝は起き上がっていました」
「そうですか」
実俊の声から、陰陽師として確認する色と、個人として安堵する色が一緒に出た。この男はいつもその二つが混ざる。どちらが先かは、場合によって違う。
「真澄どのは同行されますか」
「お願いしています」
「では人数は、真白殿と玄丸と真澄どのと——私も、同行します」
真白が実俊を見た。
「陰陽寮の許可は」
「晴元どの直々の話です。許可は取れています」
実俊が少し改まった。
「口無し女の件のときも、結果として役に立てなかった部分がある。今度はちゃんと備えて行きたい」
真白が頷いた。
「頼りにしています」
実俊の耳が、わずかに赤くなった。気づいていないようだった。
夕方、我は縁側で独りになった。
真白は荷の確認に戻り、実俊は帰り、真澄は裏庭で何かの作業をしている。
夏の夕暮れは長い。西の空がまだ明るさを残しながら、庭の影だけが先に伸びていく。松の影が砂利の上を這い、端の方で庭石に当たって止まる。
宇治、という場所を我は知らない。
前世のアルメラ帝国の記憶には、川の近くに特定の存在が根を張る場所がいくつかあった。水が流れ続けることで気の流れが固定され、特定の念が留まりやすくなる——あの世界でも同じ原理だった。
橋姫が嫉妬で動いていないとすれば、執着で動いている。
執着とは、失いたくないという念が形を変えたものだ。失う、というのは何かを手放すことではなく、手放したくないものが遠くなっていく感覚が続くことだ。
我はそこで思考を止めた。
今、自分の考えていることが橋姫の話ではなくなっている、と気づいたからだ。
失いたくないと思うものがある。その念が水に根ざした場所で形を持つとしたら——というところまで考えて、それ以上は続けなかった。
縁側に足音がした。
「玄丸、夕餉の前に母上のところへ来てくれないかしら」
真白の声だった。
我は立ち上がり、真白の後についた。
母君の部屋には、夕の光が少し入っていた。
母君が横になっていた。昼より体が疲れたらしく、薄縁に戻っていたが、顔色はそれほど悪くなかった。
「玄丸」
母君が我の名を呼んだ。
我は床の上を歩いて、母君の枕元に近づいた。
「真白を、よろしくお願いします」
低い声だった。声の底に重さがあった。
我は前脚を揃えて、母君の顔の高さで止まった。
母君が手を伸ばした。細い指が我の頭の上に触れた。ひと撫でだけ。それだけで手を戻した。
「あなたは、ただの猫ではないことは分かっています。分かった上で、お願いしている」
真白が母君の傍らに座った。二人の間に我がいる。
「何があっても、帰ってくること——それだけ約束してほしい」
真白が「約束します」と言った。
我は尾を一度、低く払った。
それが約束の形になるかどうか分からないが、今この場で出せるものはそれしかなかった。
母君が目を閉じた。
「ならよし」
短く、しかし揺るぎない言葉だった。
旅立ちは、三日後に決まった。
その夜、我は庭の隅で少しの間、空を見た。
初夏の夜空は靄がかかりやすく、星がはっきり見えるときと見えないときがある。今夜は薄い雲が広がっていて、星はぼんやりと光を滲ませているだけだった。
宇治の川のことを考えた。
水の理が濃い場所。夢鏡が上級域に届いてからまだ日が浅い。使える、ということと、使い慣れている、ということは別だ。
橋姫が言葉に応えるとすれば、それは真白の言霊だ。
我の役割は、その隣にいることだ。隣にいて、何かあれば——そこから先は、宇治に着いてから考えればいい。
夜露が松の葉に積もり始めていた。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が、庭を横切るのが見えた。音もなく、我の傍を通り過ぎる。
「お眠りになれないのですか」
声は低く、問いかけというより確認だった。
我は松の方へ視線を戻した。
真澄が足を止めた。少しの間、隣に立っていた。
「宇治は、水の気が深い場所でございます。夢鏡を使われる折は、水の底へ引き込まれないようにご注意を」
それだけ言って、また音もなく歩き去った。
我は夜露の積もり始めた松の葉を見ていた。
真澄が知っている、ということの意味を考えた。しかし答えを出す前に、また別のことを考えた。
松の葉先の露が、ひとつ、夜の砂利へ落ちた。
音は、しなかった。




