第七十六話「橋姫の噂」
六月の雨は、梅雨入りの頃より重くなる。
昨夜ひとしきり降った後、今朝は空が割れて光が戻った。白砂の庭が水を含み、梅の幹が濡れた黒さをしている。松の枝先に水滴が連なって、風が吹くたびに点々と砂の上に落ちた。
我は縁側の端で、その水滴の弧を目で追っていた。
追う、という言葉は正確ではないかもしれない。ただ、落ちる方向がひとつひとつ違う。風が変わるたびに軌跡が変わる。同じ枝から落ちるのに、どこへ落ちるかは最後まで分からない。
それだけのことを、朝から繰り返し見ていた。
「玄丸」
藤原真白(ふじわら の ましろ)の声が廊下の奥から届いた。
我は耳だけを後ろへ動かした。足は動かさない。水滴がまた一粒、不規則な弧を描いて砂に吸われた。
「お客様よ」
客、という気配はすでに感じていた。門の外に人が二人、片方は陰陽師の気配を持っている。真名井実俊(まない の さねとし)だ。もう片方は知らない。やや年上の男で、知識を積み重ねてきた者特有の、静かに密度のある気配をしていた。
我は向きを変えた。縁側から廊下に上がる。
客間に通された男は、五十がらみの陰陽師だった。
実俊が「師匠の安倍晴元(あべ の はるもと)どのです」と紹介したとき、その男はすでに我を見ていた。見る、というよりも、測っていた。表情を動かさず、視線だけを一筋、こちらへ向ける。真白がそばにいながら、最初に目を向けたのが我だった。
いや、正確に言えば、我を経由して真白を確認した、ということかもしれない。
「宇治のことでお話があって参りました」
晴元が口を開いた。声に余分がない。必要なことだけを言う、と言う前から分かる種類の声だった。
真白が静かに居住まいを正した。
「橋姫が、また出ているようです」
また、という言葉を我は耳の中で繰り返した。
繰り返したのは、「また」というその一語に、長い経緯が含まれているからだ。初めての話ではない。過去にも出た。それが今また動いている。
「先月から、宇治橋の辺りで旅人が道に迷う、あるいは気を失うという話が三件ほど寄せられております。いずれも夜の橋近く。目撃者の口を揃えると、水の上に白い影が立っていた、と」
実俊が手元の書付を開いた。
「陰陽寮では調査を始めましたが、橋姫は結界を嫌う。術で押し込めようとすると、かえって荒れる」
晴元が頷いた。
「橋姫は、怨みで動いている存在ではない」
その言い方が、少し引っかかった。
我は縁側に近い柱に背をつけて、二人のやり取りを聞いていた。怨みで動いていない、とはどういうことか。橋姫とは嫉妬の怨念が形を持ったものと、都では語られている。愛する男を奪った女を呪うために橋の袂に座り続ける、という伝えだ。
晴元は続けた。
「嫉妬が転じて場所への執着になっている。あの橋に、あの場所に、誰かのものでありたいという念が根を張っている。術で封じると根が切れる。根が切れると、念が荒れる」
真白が少し首を傾けた。
「言葉が届く相手なのでしょうか」
「届くかもしれない。届かないかもしれない。それが分からないから、陰陽師は手を出せずにいます」
晴元が初めて視線を動かし、真白を正面から見た。
「真白殿のことは実俊から聞いております。言霊の扱いに長けておいでと。橋姫が言葉に応えるとしたら——それは術ではなく、言霊だと、私は考えております」
静かな部屋に、初夏の湿った風が一筋通り抜けた。
真白は答えなかった。すぐに答えない間が、我には真白なりの受け取り方の重さを示していた。断るとも承けるとも、まだ決まっていない。
我は柱から離れ、真白の傍らへ歩いた。
真白の視線がこちらへ向く。我は縁側の方を一度見て、また真白を見た。
「玄丸が何か言いたいみたい」
真白がそう言うと、晴元が我を見た。今度は先ほどより長く、落ち着いた視線だった。
「賢い猫ですな」
「この子は、いつも私より先に何かを見ています」
晴元が目を細めた。知識を持った者が、知識の外にあるものを確認するときの目つきだ。
「宇治まで、連れていかれますか」
真白が我を見た。我は動かなかった。
「……連れていきます」と真白が答えた。
決まりましたな、と実俊が苦笑した。苦笑しながらも、異議を挟まなかった。この男も、口無し女の一件以来、真白と我の連携に一定の信を置くようになっていた。
客が帰った後、葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が縁側に来た。
庭を見ながら、独り言のように言った。
「宇治は、気の流れが複雑な場所でございますでざろう」
我の傍らに立ち、松の枝先の水滴を眺める。
「川が絡む場所は、水の理が濃い。橋姫のような水に根ざした存在は、そういう場所で長く力を保ちます」
我は真澄を見上げた。
「玄丸殿が宇治へ同行されるなら、水の理を使う場面があるかもしれませんでざろう」
我は前脚を揃えたまま、特に動かなかった。
「ご承知と思いましてお伝えしただけでございますでざろう」
真澄がそれだけ言って、音もなく廊下へ消えた。
水の理が夢鏡の上級域に達してから、まだ日は浅い。それを真澄はどこまで知っているのか。知った上で言ったのか、それとも単純な注意として言ったのか、この男の言葉はいつもそういう層を持っている。
松の枝から、もうひとつ水滴が落ちた。
今度は予想していた方向ではなかった。
同じ枝から落ちても、着地はひとつも同じにならない。
夕刻、真白が縁側で手紙を書いていた。
宇治の宿への連絡らしく、実俊から聞いたという旅宿の名を確かめながら、筆を動かしていた。旅の支度について何かを独り言で考えながら書いている。着替えの枚数と、薬の確認と、母上への言伝。
我は少し離れた庭石の上に座り、真白の横顔を見ていた。
恋を自覚してから、この横顔を見る時間が変わった、という感覚が我の中にある。変わったのは真白ではない。我の側だ。同じ光の当たり方で、同じ角度で、しかし以前とは違う重さで、この横顔が視界に収まっている。
筆が止まった。真白が空を見上げた。
夕暮れの端が赤みを帯びていた。雨上がりの空は色が深い。
「宇治って、行ったことがないの」
問いかけでも独り言でもない言葉が、夕空へ向けて落とされた。
「橋姫がいると思うと、怖いとも怖くないとも、言えないのよね。会ったことのない相手だから」
我は庭石から縁側へ移った。真白の傍らに落ち着く。
「でも、怖い人とは思えない。言霊が届く相手なら——話せるはずだわ」
真白が筆を置いた。我を見た。
「一緒に来てくれるわね」
我は尾を一度、水平に払った。
それで十分だった。
真白が小さく笑って、また筆を取った。
夕空が橙から赤へ、赤から藍へと変わっていく。初夏の夜は、色を急がない。
松の枝先に残った最後の水滴が、風もない中でひとりでに落ちた。
庭の白砂の上に、小さな点が残る。
そこに水があったということの、かすかな証拠として。




