第七十五話「言霊巫女の血」
昨夜の夢鏡の消耗が、まだ体の底に残っていた。
朝の光が白砂を照らしていても、我の動きはいつもより遅かった。毛づくろいの手が途中で止まる。目を閉じると水の理の残滓がまだ揺れている。眠りの深みに触れた後は、こういうことになる。
体が重い。消耗している。
それでも、真白の居室の前には座った。
習慣というのは、理屈の外で成立する。我は毎朝ここに来る。病が続く母君の屋敷に、真白がいる。それだけで十分な理由だ。
真白は今日も早く起きていた。
厨から朝餉の匂いが漂い始める前に、もう几帳の向こうで衣ずれの音がしていた。母君の様子を確かめに行ったのだろう。しばらくして戻ってきた真白の顔には、昨日よりは落ち着きがあった。悪くはない、という気配だ。
「今日は少し、起き上がれたわ」
縁側に出てきた真白が、我を見て言った。声が軽い。それだけで胸の中の何かが解けた。
我は縁側の端に移動して、真白の足元に落ち着いた。
真白が庭を見ている。梅雨の走りを過ぎたのか、今朝の空は白みがかった青をしていた。桜はとうに散り、青葉が茂り始めている。庭木の緑が、昨日より一段濃い。春が終わりに差し掛かっている匂いがした。
しばらく、二人とも黙っていた。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が来たのは、朝餉が済んでからだった。
いつもと変わらない無音の登場で、廊下の端に立っていた。我には気配で分かっていたが、真白は声をかけられるまで気づかなかった。
「姫君、少しよろしいでしょうか」
「どうぞ」
真澄が縁側の柱に背を預けた。座らない。短く話すつもりらしかった。
「昨夜、屋敷の気の流れが変わっておりましたでござろう」
真白が真澄を見た。
「何か、ありましたか」
「水の理が動いておりました。深い方向に」
真澄の目が、一瞬だけ我に向いた。返事はしない。我は前脚の先を舐めながら、その視線を受け流した。
「母君のお部屋の側で」
真白が少し眉を寄せた。
「……くろまろが、何かしたのでしょうか」
「拙者には詳しくは分かりかねますでござろう。ただ——」
真澄がわずかに間を置いた。
「気になることがひとつあります。姫君は、ご自身のお祖母様のことを、どこまでご存知でしょうか」
真白の表情が変わった。
驚きというより、何か遠いものが近づいてきたような、そういう顔だった。
「母上から、少しだけ聞いたことがあります。早くに亡くなった方で、歌が上手だったと。それだけで、詳しいことは……」
「左様でございますでござろう」
真澄が少し視線を落とした。
「拙者が藤原家に参りましたのは、今の主の父君の代でございます。その頃すでに、家の記録の中に、古い血筋の話がございました」
「古い血筋」
「言霊を扱う力を持つ者の系譜。都でもごく限られた家に、数代に一度だけ現れると言われる素質でございます」
真白は黙っていた。
「姫君が詠う和歌が、時おり場の気を動かすことがある。拙者は以前から気づいておりましたでござろう。口無し女の鎮魂の夜のことも、偶然ではございません」
「それは——」
「血です」
真澄の言葉が、静かに落ちた。
「姫君のお母上も、その素質をわずかにお持ちでありますでざろう。ただ、病によって力が抑えられている。一方、姫君には、それが色濃く出ている」
真白が手を膝の上で重ねた。
「私の詠む言葉が、本当に何かに影響しているの」
「確かに」
「……知りませんでした」
「知らない方が、自然に使えるものでございます」
真澄が一呼吸おいた。その次の言葉は、やや低くなった。
「ただ、申し上げておかなければならないことがあります」
真白が真澄を見る。
「言霊の力は、同時に、何かを引き寄せる力でもありますでざろう。澄んだ声が人を集めるのと同様に——気の薄れた場所からも、呼び込むことがある」
「気の薄れた場所、というのは」
「界境が近い場所、と言えば伝わりますでございましょうか」
真白の目が、少し揺れた。
真澄はそれ以上、具体的なことを言わなかった。我が昨夜の夢の中で見た暗がりの話を真澄が知っているはずもないが、その言葉は我の記憶の奥を直接押してきた。
北から西にかけての、気の欠けた場所。
夢の外縁で見た「何か」の気配。
言霊の力が引き寄せる——という理屈は、水の理から見ても整合する。澄んだ振動は、乱れた空間に差し込みやすい。それは両方向に働く。真白の言霊は、まだ眠っている。だが目覚め始めれば、遠くの歪みにも届く。
我は毛づくろいの手を止めた。
「怖いですか」
しばらく黙っていた真白が、いった。真澄に向けた問いだった。
「いいえ」と真澄は答えなかった。
「姫君には、それを扱う器があります。ただ扱い方を、まだご存知ではない。それだけのことでございます」
真白が、少し息を吐いた。
「……ありがとう、真澄。話してくれて」
「拙者が知っていることを、知っていただく方が良い、と判断いたしましたでざろう」
真澄が廊下の奥へ消えた。足音は、やはりしなかった。
残された真白は、しばらく庭を見ていた。
我は真白の横に座ったまま、動かなかった。
言霊巫女の血。数代に一度だけ現れる素質。口無し女の夜の連携も、真白の言葉が場を動かしてきたことも——振り返れば、全ての道がそこへ続いていた。
真白は何も知らなかった。ただ、言葉を丁寧に扱い、詩を愛し、人の痛みに声を向けてきた。その積み重ねが、実は力だった。
力があるということは、的になるということでもある。
我はその理屈を、アルメラ帝国の頂に立っていた頃から知っている。強い振動は、反応を呼ぶ。光は影を作る。それは否定できない均衡の話だ。
「くろまろ」
真白が、我を見た。
「私、何か変わると思う?」
問いの意味は曖昧だったが、我には分かった。自分の中に知らなかったものがあると知って、これから何かが変わるのかと——そういう問いだ。
我は真白を見返した。
変わらない。お前は変わらない。
正確には、元々あったものが名前を得るだけだ。変化ではなく、発見だ。
そういう意味を込めて、尻尾を一度だけ、穏やかに払った。
真白が苦笑した。答えになっていないことは分かっているのだろう。それでも、その苦笑には力があった。弱った顔ではない。
「そうね。何も変わらないわ」
真白が膝を立てた。
「母上のお見舞いに行ってくる」
立ち上がって、廊下へ向かう。我は後をついた。
母君の居室の前で、真白は一度だけ立ち止まった。
手を衣の裾に当て、気持ちを整えるような間があった。それから、引き戸を軽く叩いた。
「母上、真白です。入りますね」
中から、細い声が返ってきた。
真白が引き戸を開けて、中に入っていく。我は敷居の手前で止まった。
薬の匂いと、朝の光と、病床に長く寝た人間の気配が混じった空気が漏れてきた。それを鼻先で受けながら、我は母君の居室を外から守るように座った。
守る、という言葉を、我は今まで何度も使ってきた。
真白を守る。この屋敷を守る。
だがそれは今まで、どこか外向きの話だった。外から来るものを遮る、という話だった。
今日からは、少し違う。
真白の内側にある力が外へ向かうとき、それが誤った方向へ向かわないよう、傍にいる。その力が何かを引き寄せるなら、引き寄せられたものの前に立つ。
声を持たない者が守ると言っても、重さは変わらない。
我は敷居の手前に前脚を揃え、まっすぐ前を向いた。
庭から、夏の始まりを告げる風が吹いた。青葉の香りが、一瞬だけ薬の匂いを押しのけた。




