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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第三章:冬から春へ

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第七十四話「夢の訪問」

満月の夜は、猫を変える。


正確に言えば、我の中の何かが変わる。皮膚の奥で眠っていた力が、月光を飲み込むたびに少しずつ目を覚ます。魔力の回路が通り、封じられた理の層が薄くなる。この感覚を人間の言葉で説明するなら、おそらく「満ちる」という動詞が最も近い。


縁側から見上げると、月は中天を過ぎたところにあった。


屋敷は静かだった。真白の寝息が、薄い壁越しに伝わってくる。母君の居室の方は、今夜は咳の音がない。侍医が昨夕調合した薬が効いているのか、あるいはただ体力が尽きて眠りが深くなっているだけなのか、それは我には判別できない。


前者であってほしい、という気持ちが胸の底にあった。


それを感情と呼ぶかどうかは、まあ、どうでもいい。


我は縁側に座り直し、月を見た。



夢鏡むきょうは、水の理の延長にある術だ。


月光を介して人の眠りに触れ、記憶や感情の層へ意識を滑り込ませる。以前は浅い夢を覗く程度にしか使えなかった。口無し女の鎮魂の夜にも補助として使ったが、あの時は真白の言霊が主体で、我は水の気の流れを整えるだけだった。


今夜、試みようとしているのはもう一段深い介入だ。


眠る者の夢に、意識そのものを入れる。


月光が十分に蓄積された夜でなければできない。肉体を縁側に残したまま、意の糸を月の道に乗せて相手の夢層へ延ばしていく。異世界の記憶を辿れば、これは水の理の上位変換にあたる。猫の体では封印が邪魔をするが、満月の今夜ならば——


やってみなければ分からない。


理論的に可能であるという確信があれば、あとは力を積み上げるだけだ。


我は前脚を揃え、目を細めた。


月光が毛並みに降り積もる。それを体の中心へ集める。水の属性に絞り込む。真白の母君の気配を思い出す。昼間に廊下で嗅いだ、薬と綿と、古い朝露の混じった匂い。その気配を手がかりに、意の糸を伸ばす——



景色が変わった。


庭でも縁側でもなく、どこか別の場所にいた。


空がない。地もない。ただ薄い光が四方に広がっていて、その中に白い霧が流れている。夢の層だと、我は判断した。正確には夢と現の境界で、深く踏み込まず、外縁に立っている状態だ。


気配がある。


この夢の主が、近くにいる。


霧の向こうから、人の形が浮かび上がってきた。


背の低い女性だった。病床の顔とは違う。若い——いや、正確には、若い頃の記憶の形をまとっている。夢の中では人はしばしば過去の姿をとる。それが夢というものの性質だ。


女性が我を見た。


驚いた様子はなかった。むしろ、待っていたような間があった。


「……来たのですね」


声は低く、穏やかだった。夢の声特有の、少し反響する響きがあった。



我は動かなかった。猫の体は縁側に置いてきた。ここにいるのは意識だけだ。返事もできない。返す言葉がそもそも出せない。


だが女性は、構わなかった。


「真白のそばにいる猫が、いつか夢に来ると……そんな気がしていました」


女性が歩き始めた。霧の中を、一定の速度で。我は後を追うように、意識の糸をついていかせた。


「病の夢は、妙なものです。目が覚めているより、ずっとはっきり見える」


女性が立ち止まった。


霧が薄くなっている場所だった。その向こうに、何かがある。


暗い。光の欠けた部分が、霧の奥に広がっていた。形はなく、ただ気の密度が違う。冷たい、というより——空洞のような感覚。生き物の気がなく、物の気もない。理の流れが途切れている場所の気配だった。


「あれが、近づいています」


女性が静かにいった。


具体的な説明はなかった。ただ指を向けただけだった。


それで十分だった。


我は夢の層から、その暗がりを観察した。方角はある。北から西へかけて、空間の理が薄くなっている。これはこの夢特有の歪みではなく、現実世界の何かが夢に滲んでいるのだと、我は判断した。界境の側の話だ。


「娘のことが、心配です」


女性が振り返った。


「真白は、私の知らないものを引き寄せる子です。昔から、花が語りかけてくると言っていた。雨の日に、歌が聞こえると。……私にも、少し分かります。血のせいかもしれない」


その言葉の先を、我は追わなかった。


追いたかった。血と言霊の話は、この女性が知っている何かに繋がっているはずだ。しかし今夜はここまでだ。夢の層に長くいれば、帰り道が曖昧になる。深みに踏み込む前に引き返す判断も、理の一部だ。


「真白を、守ってあげてください」


女性が小さく頭を下げた。


夢の中の動作は、現実よりも重い。その一礼が、我の意識に確かな重さをもって届いた。


——守る。


その言葉に対して、返せるものが我にはない。声もなく、手もなく、言葉もない。猫の体を縁側に置いたまま、ここに来ている。


だが、来た。


それが返事の代わりだと、女性には伝わっているかもしれなかった。


霧が濃くなってきた。夢の層が揺れている。眠りの深さが変わる合図だ。我の意の糸が、月光の道を辿って引き戻されていく。



縁側に戻った。


体が重かった。毛の先まで疲労が滲んでいる。これほど消耗したのは、口無し女の夜以来だ。夢の外縁に触れる程度の夢鏡は何度も使ったが、今夜は格が違った。眠りの深層に踏み込み、相手の意識に直接触れた。


水の理が一段、深く動いた手応えがある。


これが上級の境界か。まこと消耗する。


我は縁側に腹をつけ、前脚を折り畳んだ。月が西に傾き始めていた。


頭の中に、あの暗がりが残っている。


界境の側から何かが近づいている。まだ輪郭がない。形にも声にもなっていない、ただの「欠け」だ。しかしあの気配は確かだった。夢の中で見たものが現実の反映だとすれば——


ゆっくり考える。


今夜の優先事項は、体を休めることだ。使いすぎた水の理を回復させなければ、次に何かあった時に役に立てない。


我は縁側に丸くなった。


真白の寝息が、壁越しに聞こえる。母君の居室からも、穏やかな寝息がかすかに届いた。


二人とも、眠っている。


今夜は、それでいい。


月が梢の向こうに沈んでいく。満月の光が薄れるにつれ、我の体から力が静かに引いていった。残るのは疲労と、夢の記憶と、あの女性の一礼だけだった。


「守ってあげてください」という声が、まだ耳に残っていた。

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