第七十三話「母の病」
夜半過ぎに廊下を渡る足音がした。
柔らかな、しかし急いた歩み。我は薄目を開き、寝台の端からその音の主を追った。藤原真白(ふじわら の ましろ)が、几帳の向こうへ消えていくところだった。
燈台の灯りが揺れている。廊下の先、母屋の奥から低い咳の音が続いていた。
几帳越しに我は耳をそばだてる。真白の声が、老女の声が、小さく重なっては途絶えた。言葉の輪郭までは届かない。ただ、その声の色だけが、夜の空気に滲みるように広がってきた。
白湯を温める音。布を絞る水音。それらが終わっても、真白は戻ってこなかった。
翌朝、真白の顔には疲労の影が差していた。
目の下が薄く翳り、化粧を施した白い肌にも、いつもの張りがない。座敷の縁側に腰を落として、庭を見ている。梅雨の走りのような湿気を帯びた風が、彼女の髪をかすかに揺らした。
菓子椀が、手の中で冷えたまま放置されている。
我は彼女の横に座った。尾を丸めて、体をやや前に倒す。視界に入るよう、わずかに顔を向ける。
真白は気づいたが、笑いはしなかった。
「……くろまろ」
それだけだった。膝の上に手が伸びてくる。我の背に、そっと触れた。指が毛並みをたどる。力はない。梳くのではなく、ただ確かめるような手の動きだった。
この一月ほどで、母君の病状は一段と重くなっていた。
春の終わりごろから咳が続いていたのを、我は知っている。五月に入ってから、それが夜半にも頻繁に起きるようになった。侍医が朝と夕に訪れ、煎じ薬を調合している。真澄(かずらがみ の ますみ)が都中の薬商を手配しているとも聞いた。
されど薬に頼るしかない。それが人の世というものだ。
我は爪を引き込み、静かに真白の膝の上へ移動した。体の重みを預ける。猫の温度が、布越しに伝わるように。
「昨夜は、あまり眠れなかったの」
独り言のように真白がいった。我は動かない。
「母上が苦しそうで……起き上がれない日が増えて。でも、顔を見に行くと、笑ってくださるの。私のことを、心配させまいと」
指が止まった。
「私のほうが、よっぽど心細いのに」
窓の外で、遠くの梢が揺れた。風が通り過ぎる。
真白の指が、また動き出した。今度は少しだけ強く、我の背の毛並みを梳いていく。己を落ち着かせようとする手の動きを、我は黙って受けた。
できることがあるとすれば、これだけだ。
熱を保つ肉体。動かない重み。この掌に収まる、小さな命の存在感。それが何かの役に立つかどうか、論理的な保証など我には持ち得ない。
だが、役に立ちたいと——
喉の奥で何かが鳴りかけて、我はそれを抑えた。
昼を過ぎたころ、真名井実俊(まない の さねとし)がやってきた。
陰陽寮への届け出の帰りだとかで、顔色がやや硬い。真白と向き合って座り、低い声で何事かを話した。母君のことを問いかけているらしかった。
「侍医の見立てでは、養生を続ければ峠を越せるとのこと。ただ……梅雨の湿気が一番の敵です。今の季節さえ乗り越えれば」
真白が小さく頷く。
「ありがとうございます、実俊殿。わざわざ調べてくださって」
「いえ、その……真白殿が案じておられると聞きましたので」
実俊はそこで言葉を止めた。
我は柱の陰から二人を見ていた。実俊の口調には、珍しく理詰めの調子がない。代わりに、どこか気遣わしげな間があった。この男も、この状況の前では言葉を選んでいる。
人というのは、大切なものが傷つくとき、言葉を失う。
無論、実俊はすぐに言葉を取り戻した。「陰陽寮の蔵に、蔵人が記録した気候の記録がございます。過去の梅雨時期に病人の療養が奏功した事例も複数あって」と、いつもの調子で話し始めた。
真白の唇が少し緩んだ。微かな、しかし確かな笑みだった。
我はその笑みを見た。
薄く、それでいて本物の表情。先ほどまで庭を眺めていた真白の顔とは、明らかに違う。人の声が、人の言葉が、真白の心をほんの少し前へ動かしていた。
夕刻、我は母君の居室の前に座った。
立ち入ることはしない。ただ、薄い壁越しに、気配を測る。体の内側で、力の流れが自然と動いた。月が出ていない。真昼の光もすでに傾いている。我の術は月光を好む。この時刻では中途半端な力しか引き出せない。
それでも。
壁の向こうから、ゆっくりとした息遣いが聞こえた。苦しくはない。今は落ち着いているようだった。
夢鏡を使えば、眠りを深くすることはできる。あるいは風眠で、安らかな夢の輪郭を与えることも。されど病の根を抑える術は、我には持ち得ない。気の流れを整えることはできる。しかし人の肉体の理は、魔導の介入が一筋縄では効かぬほど複雑だ。
己の力の輪郭が、今ほど腹立たしく感じられたことはなかった。
万象の王と謳われたアゼルであれば、これしきの病気、指先一つで治せた。あの時代に、あの力があれば。
——されど今は、猫だ。
我は尾を一度だけ打ちつけた。床の木材に、低い音が鳴った。
意味のない後悔ではある。この体で、この時代で、できることを積み上げるしかない。それは最初から分かっていたことだ。
真白が戻ってきたのは、戌の刻も半ば過ぎだった。
母君の夕餉を世話してきたのだろう。手に薬の匂いが残っていた。我はその手に鼻を押しつけ、匂いを確かめた。
煎じた薬草の苦い香りの下に、母君の気配があった。我が母君に近づけないぶん、真白の手を通して繋がっているような、妙な感覚だった。
真白は文机の前に座ったが、筆を取らなかった。しばらく灯台の火を見ていた。
灯りが揺れる。揺れるたびに、真白の影が壁の上で伸び縮みした。
我は文机の脇に収まった。丸くなる。喉の奥を、ごく低い音で鳴らした。意識的に、一定のリズムで。猫の喉が鳴る音は、理論上、人の神経を落ち着かせる振動数に近い。これは確かめた事実だ。
真白が我を見た。
何もいわなかった。ただ、視線が少し柔らかくなった。
灯台の油が燃え尽きる前に、真白は静かに横になった。我はその枕元で、体勢を整える。夜半の咳の音を聞き逃さないよう、耳を澄ませながら。
真白の寝息が、ゆっくりと深くなっていく。
疲れていたのだ。泣かずに夜を過ごしてきた分の疲れが、眠りに溶けていく。
涙を拭う手がないなら、眠ることが代わりになることもある。
我は動かなかった。
月もない夜に、黒猫が一匹、灯台の消えた部屋で目を開けていた。




