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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第三章:冬から春へ

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第七十二話「塗り壁の芸術」

土の匂いがした。


雨上がりの庭ではなく、もっと濃い、古い土が水に練られたような匂いだった。我は鼻先をわずかに持ち上げ、風の方角を読んだ。


北側の築地塀ついじべいの方から来ている。


昨日の雨で崩れた箇所があると、朝に真澄ますみが確認していた。古い塀だ。何年か前にも同じ場所が崩れ、補修してから長くはもつまいと言われていたと聞いた。


我は縁側から庭石を渡り、北の塀へ向かった。


近づくにつれて、音も聞こえてきた。


壁を塗る音だ。


柔らかく、均一で、少しずつ広がっていく。泥が壁面に押しつけられ、こすり上げられ、また押しつけられる。それが規則的に繰り返される。雨の跡を踏む足音も、道具が触れる金属音もない。ただその一音だけが、静かな朝に響いていた。


塀の角を回り込んだところで、我は立ち止まった。


いた。


大きかった。


人間の男より二回りほど大きく、体の輪郭がはっきりしない。白みがかった灰色の体が塀に向き合い、両の手を壁面に押し当てている。手のひらが異様に広く、壁の泥をそのまま均してゆく。道具は持っていない。素手だった。


塗りぬりかべだった。


ただし、道を塞いで人の行く手を阻む類のものではない。この個体は壁に向かって仕事をしている。着実に、崩れた箇所を一層ずつ積み上げながら。


我はその作業を、数間すうけん離れたところから観察した。


塗る速度は一定だった。急がず、緩まず。一手ごとに壁面を確かめ、次の手を当てる前に少し止まる。その止まり方が、気まぐれでも疲れでもなく、仕上がりを確かめる判断の間であることは、動作の質から読み取れた。


左右の均しが丁寧だ。土の配分が片寄らない。仕上げの押さえ方に迷いがない。


これは、長年やり続けてきた者の手つきだ。


我が見ていることに気づいたのは、しばらくしてからだった。


塗り壁がゆっくりと振り向いた。大きな体で、動作は重そうに見えるが、音はしなかった。顔の造作は曖昧で、目があるはずの場所に丸い凹みがある程度だ。


我と目が合った——正確には、目のある場所と視線が交差した。


双方、しばらく動かなかった。


敵意はなかった。妖の気は濃いが、荒れていない。土の理が安定して満ちている。


我は尻尾を一度だけ立て、それから前脚を折って座った。見ていいと示す動作だ。


塗り壁は少しだけ体を向き直し、また壁に向かった。


続けろということらしい。


それから一刻いっときほど、我は作業を見ていた。


崩れた塀の幅は三尺さんしゃくほどだったが、その全面を塗り壁は丁寧に直していた。下地を整え、中塗りを重ね、上塗りで仕上げる。素手のままで、層を変えるたびに手の当て方も変わっていた。


土の理が、ここまで繊細に扱えるとは。


我は率直に、感心した。


土の理とは本来、固定と境界の力だ。守ること、区切ること、遮ること。結界座けっかいざもその延長だが、それはあくまで一点に集中させる術だ。しかしこの塗り壁がやっていることは、均一に広げることだ。力を分散させながら、しかし強度は保つ。


理論として見れば、それは我が得意とする方向ではない。力を一点に集める方が単純だ。これだけの面積に均等に理を通すのは、むしろ難しい。


まこと、職人とはそういうものだ。同じ理を、同じ動作で、ただひたすらに繰り返すことで、普通ならできないことをできるようにする。


「うまいものですねえ」


背後から声がして、我は耳を後ろへ向けた。


うめだった。厨から出てきたのか、手ぬぐいで手を拭きながら塀を眺めている。


「昨日崩れたのは知っていましたが、真澄様に報告したばかりで、まだ手配もしていなかったのに」


塗り壁は振り返らなかった。


「こういう仕事は、やりたい者がやればいいんでしょうよ」


お梅は独り言のように言い、腰に手を当てて仕上がりを眺めた。


「色の合わせ方も悪くない。古い塀に合わせて、少し黒みを足してる。目が利く」


塗り壁の動きが、かすかに変わった。手の速度が少し落ちた。聞こえているのかもしれない。


やがて真白ましろ殿が来た。


真澄に知らせを受けたのか、少し急いだ様子で角を回り込んできた。そして塀の前に立つ大きな影を見て、一歩止まった。


「まあ」


驚きの声ではなかった。むしろ感嘆に近い、柔らかい呼気だった。


「こんなに丁寧に直してくれたの」


塗り壁は動きを止めず、仕事を続けた。


真白殿が少し近づき、仕上がった部分をまじまじと眺めた。


「きれい。古い部分と全然違和感がないわ。色まで合わせてくれたのね」


また、塗り壁の手が少し止まった。


今度は完全に止まった。


それから塗り壁が、ゆっくりと真白殿の方に顔を向けた。


顔の造作は曖昧なままだが、凹みの部分が真白殿を向いている。


「ありがとう」


真白殿が、低く言った。


塗り壁は答えなかった。しかし体がわずかに傾いた。お辞儀に似た動作だったが、それにしては角度が曖昧で、もしかしたら別の意味かもしれない。


お梅が袖をまくった。


「お礼に何か出しましょうか。あなたは何を食べるんですかね」


塗り壁は答えなかった。


「土でも食べますか」


これも、沈黙だった。


「まあ、どこかにいれば出しますよ。うちの屋敷の壁はあちこちがたがきていますから、またよろしかったら来てください」


お梅はそれだけ言って、厨へ戻っていった。商売人のような、淡々とした申し出だった。


我は一部始終を、塀の根方から眺めていた。


塗り壁の仕事が終わったのは、昼前のことだった。


仕上げた塀を一度だけ、全体にわたって確認するように手で触れてから、大きな体がゆっくりと塀の方へ向かって——そのまま、塀に溶けるように消えた。


我は残された塀を見た。


崩れる前より、むしろ丁寧に直っている。色も古い部分とほぼ合っている。どこが補修されたか、近くで見なければ分からないほどだ。


土の理を体に宿した者が、長年かけて磨いた技法。


これは芸術と呼んでいい、と我は判断した。


真白殿が我の傍らに屈んで、同じ塀を見ていた。


「何かを一生懸命やっている姿って、なんだか、美しいわね」


我は答えなかった。


ただ、その言葉が自分の内側で小さく響くのを、ただ受け取っていた。


恋を自覚したからといって、何かが急に変わるわけではない。


真白殿は今日も変わらずここにいる。我も変わらず傍にいる。


それだけのことが、前と少し違う重さを持つようになった。それだけのことだ、と我は繰り返した。


しかし「それだけのこと」と言い聞かせるたびに、うまく収まらない何かが残る。


我は立ち上がり、毛繕いを始めた。

【妖怪図鑑】


■塗りぬりかべ【職人型】

【分類】土塀の妖怪

【危険度】★☆☆☆☆(低)

【レア度】★★★★☆(希少)

【出現場所】古い土塀、朽ちた石垣、長年手入れされていない屋敷の境界


【特徴】

一般に「塗り壁」といえば道を塞いで人の行く手を阻む妖怪として知られるが、この個体は職人型と呼ぶべき特異な在り方をしている。崩れた壁や塀を自ら直すことに喜びを見出す、おそらく稀な種。素手のみで複数層の壁塗りをこなし、色合わせまで行う技術を持つ。言葉を持たないか、あるいは持つことに興味がない様子。


【得意技】

・壁面修復:素手で土を均し、複数層に分けて仕上げる。色の調整も感覚的に行う。

・土の感知:壁の傷みや弱点を触れるだけで察知する。


【弱点】

・言葉でのやり取りをしない

・仕事以外の目的を持たないため、交流の手がかりが少ない

・突然消えるため、礼を言う間がない


【生態】

土気の強い場所、特に長年使われてきた古い塀に引き寄せられる。補修の必要な箇所を見つけると、人の許可を待たずに作業を始める。仕上がりへの拘りが強く、納得がいくまで手を止めない。礼を言われると動きが変わることから、意思疎通が全くないわけではないと思われる。


【玄丸の評価】

「土の理を面として均等に扱う技術は、理論上難しい部類に属する。力を一点に集中させる方が単純であり、分散させながら強度を保つのは相当の熟練を要する。職人というものは、理論より先に体が理を知っている——そう思わせる妖怪だ」


【遭遇時の対処法】

作業を邪魔しないことが最善。仕事を褒めると反応することがある。強引に追い払おうとすると頑として動かなくなる場合があるが、仕事が終われば自然と去る。礼を言っておくと、また来てくれることがあるという。


【豆知識】

塗り壁が補修した塀は、普通の職人が直したものより長持ちするという言い伝えが残る地域がある。土の気が深く浸透しているためと考えられる。一般に知られる「道を塞ぐ塗り壁」とは別の系譜に属する可能性があり、その関係は不明。

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