表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第三章:冬から春へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

72/86

第七十一話「真澄の恋」

葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が、縁側の真白ましろ殿を見ていた。


それ自体は珍しいことではない。家令として主の様子を確かめることは、真澄の役目のひとつだ。しかし我がその視線に気づいたのは、真澄の体が完全に静止していたからである。


廊下の端。柱の陰に半身を沿わせ、表情を動かさないまま、庭に向いた真白殿の後ろ姿を見ている。


その持続時間が、仕事の確認としては長すぎた。


真白殿は縁側で筆を持っていた。和歌の草稿らしく、懐紙に何かを書いては少し考え、また書く。春の風が時折、その黒髪の端を揺らした。


真澄はそれを、ただ見ていた。


我は梁の上から、真澄の横顔を見下ろした。


長年この屋敷で生きてきた男だ。感情を表に出すことが少なく、必要な言葉だけを選んで使う。それがこの男の流儀だということは、共に過ごした時間の中で我も理解している。


だから、この静止がどういう意味を持つか、我には分かった。


言葉にするより先に体が知っている種類の感情だ。抑えることに慣れすぎて、本人もそれが何であるか、もはや名前で呼ばなくなっているのかもしれない。


真白殿が筆を置き、空を見上げた。


「真澄、今日は暖かいわね」


振り返らないまま声をかけた。気配を感じていたのか、それともただの呼びかけか。


「はい。春も終わりに近うございますでござろう」


真澄の声は平静だった。柱の陰から出て、廊下をいくらか進んだところで立ち止まる。いつもの距離感で、いつもの口調で。


「もうすぐ夏になるのね」


「さようでございますでござろう」


「くろまろは夏が好きかしら。それとも苦手かしら」


真白殿が首を回して我を探した。梁の上を見つけると、少し目を細めた。


「あんな高いところに。落ちないかしら」


「黒猫は体幹が優れておりますでござろう。御心配なく」


真澄が答えた。その口調は変わらない。ただ、その一言を発した後、ほんのわずか、視線が真白殿の顔から逸れた。


我はその動きを、梁の上から追っていた。


向かった先は、庭の一点だった。特に何があるわけでもない、白砂の続くだけの場所。


真澄が、自分の感情から目を背けるときの動きだと、我は判断した。


真白殿は我のことを心配しているのか、それとも真澄の答えに安心したのか、また筆に視線を戻した。


「ねえ、真澄。私、この頃くろまろがどこを見ているのかが気になって。いつも何かを観察しているみたいで」


「姫君を見ておりますでござろう」


「あら、そうかしら」


「我々を見ているのでございますでござろう。この屋敷の、全てを」


真澄の言葉はそこで止まった。


真白殿が笑った。声を立てない、口の端だけが動く笑い方だった。


「それはそれで、少し恥ずかしいわね」


「姫君には恥ずかしいものなど何もございませんでござろう」


短く、しかし迷いなく答えた。


真白殿が驚いたように真澄を見た。真澄はすでに目を庭に向けていて、その横顔には何も書かれていなかった。


我は梁の上で、前脚を折り畳んだ。


人と妖の境界に生きるこの男は、どれだけ長い時間、このようにして立ってきたのだろう。


感情を持っていないのではない。持ちすぎているから、出さない術を身につけた。それも我には、理から見て分かる。


気の流れが、人間のそれとは少し違う。妖の血が混じると、感情の波は深くなる代わりに、表に出る出口が少なくなる。川底が深いほど水面が揺れないのと同じ理だ。


やがて真澄が一礼し、廊下を戻っていった。


足音が遠くなってから、我は梁を降りた。


縁側に下り、真白殿の傍らに落ち着いた。


「くろまろ、真澄って不思議な人よね」


真白殿が独り言のように言った。答えを求めているわけではなさそうだったが、我は耳だけを向けた。


「たくさんのことを知っていて、たくさんのことを見ているのに、あまり何も言わない。でも、時々だけ、すごく大切なことを一言で言う」


筆の尾で懐紙の端をなでながら、真白殿が続ける。


「さっきの言葉も、そういう言い方だったわ。姫君には恥ずかしいものなど何もない、って——言われた瞬間、何かが、胸のところにあたった気がして」


我は縁側の板を一歩踏み出して、真白殿の膝のそばに座った。


手が伸びてきて、黒い背を撫でた。


「あなたはどう思う」


答えられるはずがない。しかし真白殿はそれを知った上で問いかける。これがこの人の言葉の使い方だと、我は長い時間をかけて理解してきた。


返事の代わりに、我はそのまま動かなかった。


膝の温もりが、掌から伝わってくる。


我は今、真澄のことを考えていた。


人と妖の間に立つ男。その立場が許す範囲の中で、できる限りのことをする。それ以上のことを望まない——望まないのではなく、望むことを自分に許さない。


我は猫だ。


声を持たず、言葉を持たず、この肉体が生きられる時間も限られている。


それでも。


真白殿の手が背を撫でるたびに、我の内側で何かが揺れる。揺れる、という言葉すら正確ではない。もっと静かで、深く、根のところで動いている感覚だ。


我はそれを、ずっと別の言葉で呼んできた。


守護の本能。情の理の共鳴。真白殿という存在の特異性への興味。


どれも嘘ではなかった。しかし、どれも全てではなかった。


真澄が感情の名を呼ばずに立ち続けているように、我もまたこの感覚に名前をつけることを先延ばしにしてきた。


だが今日、真澄の横顔を見た。


叶わないと分かっていながら、ただ見ていることだけを選んでいる、あの静止を。


同じだ。


理において等価な状況を我は今、真澄の中に見た。人と妖の間で叶わぬ恋。猫と人の間で叶わぬ、この——。


胸の奥で、言葉が形を持った。


恋、と。


声にはならない。この体では、何も声にはならない。


ただ、我の内側で、その一語が初めて確かな輪郭を持った。反論の余地がない、理の結論として。


真白殿の手が止まった。


「くろまろ、どうかしたの。急に体が熱い気がして」


我は何もしていない。しかし真白殿には分かるらしい。この人はいつも、言霊のように、見えないものを言葉にする。


我は何も答えなかった。


いつものように、動かないままでいた。


ただ、その静止の意味が、今日から少し変わった。


春の光が縁側に差している。桜の花はもう散り、青葉が風に揺れている。


真白殿がまた筆を手に取った。


我はそのそばで、目を細めた。


恋、という言葉はもう手放せない。しかしそれが何をもたらすかについては、今は考えなかった。


考えても、答えが出る問ではないからだ。


そういう種類の理もある、と我は初めて、静かに認めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ