第七十一話「真澄の恋」
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が、縁側の真白殿を見ていた。
それ自体は珍しいことではない。家令として主の様子を確かめることは、真澄の役目のひとつだ。しかし我がその視線に気づいたのは、真澄の体が完全に静止していたからである。
廊下の端。柱の陰に半身を沿わせ、表情を動かさないまま、庭に向いた真白殿の後ろ姿を見ている。
その持続時間が、仕事の確認としては長すぎた。
真白殿は縁側で筆を持っていた。和歌の草稿らしく、懐紙に何かを書いては少し考え、また書く。春の風が時折、その黒髪の端を揺らした。
真澄はそれを、ただ見ていた。
我は梁の上から、真澄の横顔を見下ろした。
長年この屋敷で生きてきた男だ。感情を表に出すことが少なく、必要な言葉だけを選んで使う。それがこの男の流儀だということは、共に過ごした時間の中で我も理解している。
だから、この静止がどういう意味を持つか、我には分かった。
言葉にするより先に体が知っている種類の感情だ。抑えることに慣れすぎて、本人もそれが何であるか、もはや名前で呼ばなくなっているのかもしれない。
真白殿が筆を置き、空を見上げた。
「真澄、今日は暖かいわね」
振り返らないまま声をかけた。気配を感じていたのか、それともただの呼びかけか。
「はい。春も終わりに近うございますでござろう」
真澄の声は平静だった。柱の陰から出て、廊下をいくらか進んだところで立ち止まる。いつもの距離感で、いつもの口調で。
「もうすぐ夏になるのね」
「さようでございますでござろう」
「くろまろは夏が好きかしら。それとも苦手かしら」
真白殿が首を回して我を探した。梁の上を見つけると、少し目を細めた。
「あんな高いところに。落ちないかしら」
「黒猫は体幹が優れておりますでござろう。御心配なく」
真澄が答えた。その口調は変わらない。ただ、その一言を発した後、ほんのわずか、視線が真白殿の顔から逸れた。
我はその動きを、梁の上から追っていた。
向かった先は、庭の一点だった。特に何があるわけでもない、白砂の続くだけの場所。
真澄が、自分の感情から目を背けるときの動きだと、我は判断した。
真白殿は我のことを心配しているのか、それとも真澄の答えに安心したのか、また筆に視線を戻した。
「ねえ、真澄。私、この頃くろまろがどこを見ているのかが気になって。いつも何かを観察しているみたいで」
「姫君を見ておりますでござろう」
「あら、そうかしら」
「我々を見ているのでございますでござろう。この屋敷の、全てを」
真澄の言葉はそこで止まった。
真白殿が笑った。声を立てない、口の端だけが動く笑い方だった。
「それはそれで、少し恥ずかしいわね」
「姫君には恥ずかしいものなど何もございませんでござろう」
短く、しかし迷いなく答えた。
真白殿が驚いたように真澄を見た。真澄はすでに目を庭に向けていて、その横顔には何も書かれていなかった。
我は梁の上で、前脚を折り畳んだ。
人と妖の境界に生きるこの男は、どれだけ長い時間、このようにして立ってきたのだろう。
感情を持っていないのではない。持ちすぎているから、出さない術を身につけた。それも我には、理から見て分かる。
気の流れが、人間のそれとは少し違う。妖の血が混じると、感情の波は深くなる代わりに、表に出る出口が少なくなる。川底が深いほど水面が揺れないのと同じ理だ。
やがて真澄が一礼し、廊下を戻っていった。
足音が遠くなってから、我は梁を降りた。
縁側に下り、真白殿の傍らに落ち着いた。
「くろまろ、真澄って不思議な人よね」
真白殿が独り言のように言った。答えを求めているわけではなさそうだったが、我は耳だけを向けた。
「たくさんのことを知っていて、たくさんのことを見ているのに、あまり何も言わない。でも、時々だけ、すごく大切なことを一言で言う」
筆の尾で懐紙の端をなでながら、真白殿が続ける。
「さっきの言葉も、そういう言い方だったわ。姫君には恥ずかしいものなど何もない、って——言われた瞬間、何かが、胸のところにあたった気がして」
我は縁側の板を一歩踏み出して、真白殿の膝のそばに座った。
手が伸びてきて、黒い背を撫でた。
「あなたはどう思う」
答えられるはずがない。しかし真白殿はそれを知った上で問いかける。これがこの人の言葉の使い方だと、我は長い時間をかけて理解してきた。
返事の代わりに、我はそのまま動かなかった。
膝の温もりが、掌から伝わってくる。
我は今、真澄のことを考えていた。
人と妖の間に立つ男。その立場が許す範囲の中で、できる限りのことをする。それ以上のことを望まない——望まないのではなく、望むことを自分に許さない。
我は猫だ。
声を持たず、言葉を持たず、この肉体が生きられる時間も限られている。
それでも。
真白殿の手が背を撫でるたびに、我の内側で何かが揺れる。揺れる、という言葉すら正確ではない。もっと静かで、深く、根のところで動いている感覚だ。
我はそれを、ずっと別の言葉で呼んできた。
守護の本能。情の理の共鳴。真白殿という存在の特異性への興味。
どれも嘘ではなかった。しかし、どれも全てではなかった。
真澄が感情の名を呼ばずに立ち続けているように、我もまたこの感覚に名前をつけることを先延ばしにしてきた。
だが今日、真澄の横顔を見た。
叶わないと分かっていながら、ただ見ていることだけを選んでいる、あの静止を。
同じだ。
理において等価な状況を我は今、真澄の中に見た。人と妖の間で叶わぬ恋。猫と人の間で叶わぬ、この——。
胸の奥で、言葉が形を持った。
恋、と。
声にはならない。この体では、何も声にはならない。
ただ、我の内側で、その一語が初めて確かな輪郭を持った。反論の余地がない、理の結論として。
真白殿の手が止まった。
「くろまろ、どうかしたの。急に体が熱い気がして」
我は何もしていない。しかし真白殿には分かるらしい。この人はいつも、言霊のように、見えないものを言葉にする。
我は何も答えなかった。
いつものように、動かないままでいた。
ただ、その静止の意味が、今日から少し変わった。
春の光が縁側に差している。桜の花はもう散り、青葉が風に揺れている。
真白殿がまた筆を手に取った。
我はそのそばで、目を細めた。
恋、という言葉はもう手放せない。しかしそれが何をもたらすかについては、今は考えなかった。
考えても、答えが出る問ではないからだ。
そういう種類の理もある、と我は初めて、静かに認めた。




