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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第三章:冬から春へ

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第七十話「ひょうすべの掃除」

騒ぎが起きたのは、湯殿ゆどのの方からだった。


下男しもおとこの三郎が桶を抱えて廊下を駆けてきたのは、昼過ぎのことである。


「おうめさん、湯殿に何かおります。青い手が見えました」


料理長のお梅は、刻んでいた牛蒡ごぼうから顔を上げた。七十に近い老女の顔に、驚きより先に値踏みの色が浮かんだ。


「青い手。大きさはどのくらい」


「子供の手くらいで。でも指がくっついているような、水かきみたいな——」


「河童のたぐいかねえ」


お梅はごく当然のことのように言い、庖丁を置いた。


我はその一部始終をくりやはりの上から見ていた。


正確には、昼寝から覚めたところに騒ぎが飛び込んできた、という順序だが。


湯殿というものは、我が苦手とする場所のひとつだ。湯気と水の気が濃く、五行の流れが乱れやすい。加えて、我は水に入ることへの本能的な抵抗を持っている。これは猫の肉体の問題であって、魔導王としての沽券こけんとは別の話だ。


しかし、何者かが住み着いているとなれば話は別である。


梁から飛び降り、お梅と三郎の後に続いた。


その棟は母屋おもやの北側、小さな棟が独立している。引き戸を開けると、湯気よりも先に、掃除の匂いがした。


石の床に砂埃すなほこりがなく、排水の溝が丁寧に掻き出されている。桶が整然と積まれ、柄杓ひしゃくが壁に並んでいた。


昨日まで、ここはそういう状態ではなかった。


棚の陰に、小さな影があった。


青みがかった肌。頭の頂に小さな窪みがあり、水が溜まっている。背丈は子供ほどで、がっしりした手足には確かに水かきがある。河童とよく似ているが、全体的にずんぐりと丸みが強く、顔つきも違う。


ひょうすべ(兵主部)だった。


近くで見ると、手に竹の細箒こぼうきを持っている。排水溝の掃除をしていたらしく、溝の縁に泥の塊が几帳面きちょうめんに積まれていた。


こちらを見て、ぴたりと動きを止めた。


三郎が半歩引いた。お梅は引かなかった。


「ここの掃除をしてくれていたのかい」


ひょうすべが頷いた。口が動いたが、声にならなかった。もう一度、今度は少し大きく口を開けた。


「……よごれてた、から」


しわがれていて、川底の石が転がるような声だった。言葉は短いが、口調に悪意はない。


「掃除が好きなのかえ」


また頷いた。


お梅は腕を組んで、しばらくひょうすべを見ていた。


我は扉の陰から、その様子を見ていた。


「ひとつ聞かせておくれ。ここをどうするつもりだい」


ひょうすべが首を傾けた。その動きは、言葉の意味を理解しようとしているように見えた。やがて答えた。


「きれいに、する。それだけ」


お梅が鼻から息を出した。笑いとも呆れとも取れた。


「三郎、湯殿の掃除は誰がやってた」


「えーと……半月ほど前から誰も手をつけてなくて、その……」


「そうだろうねえ。じゃあ、続けておもらい」


三郎が目を丸くした。お梅はもう湯殿を出かけていた。


「ただし、使う人間が入るときはちゃんと出ておいで。怖がらせるのはよくない」


ひょうすべが、また頷いた。今度は何度も。


我は廊下に戻り、お梅の後を追った。


昼飯の後、真白ましろ殿がひょうすべの話を聞いて湯殿へ顔を出した。


引き戸の外から声をかけると、中から小さな気配が動く音がした。しばらくして、板戸が内側からわずかに開いた。


青い顔が半分だけ覗いた。


「こんにちは」


真白殿が屈んで、目の高さを合わせた。


ひょうすべは答えなかった。ただ、引き戸を引いた手を放さなかった。


「掃除してくれてありがとう。前よりずっときれいになったわ。気持ちがいいの」


返事の代わりに、頭の窪みの水が揺れた。感情が波を作ったのかもしれない。


「また来ていいから。その方がここも喜ぶと思う」


真白殿が立ち上がると、引き戸がまた小さく閉まった。完全には閉まらず、指先一本分だけ隙間が残った。


その隙間から、かすかに風が通った。


お梅がいつの間にか廊下の端に立っていた。


「姫様は河童の一族にはとことん好かれますねえ」


「河童の親戚みたいなものだもの、きっと」


「そんな縁があるんですかねえ」


二人の声が、廊下に溶けた。


我は引き戸の隙間を、もう一度だけ見た。


まこと、屋敷というものは層を重ねるごとに理が複雑になる。人の言葉、妖の気配、物の記憶。それらが交差する場所に、新たな均衡が生まれる。


ひょうすべが住み着いたことで、この湯殿の気の流れは整うだろう。水気の強い場所に水を好む者が加わる——理から見れば、悪くない配置だ。


などと、我はごく冷静に分析した。


一方で、整然と並んだ桶の列と、几帳面に積まれた泥の塊の画が、妙に頭に残った。


手間のかかる仕事を、誰に頼まれたわけでもなく、黙々とやり遂げる。


そういう在り方は、どこか我の性に合った。


毛繕いを始めながら、我は廊下の突き当たりの陽だまりへ向かった。

【妖怪図鑑】


■ひょうすべ(兵主部)


【分類】水棲妖怪


【危険度】★☆☆☆☆(低)


【レア度】★★★☆☆(やや珍しい)


【出現場所】川辺、湖畔、屋敷の湯殿や井戸まわり


【特徴】


河童と同族とされる水棲の妖怪。青みがかった肌と頭頂部の水皿みずざらを持つ点は河童に似るが、体格がより丸みを帯び、顔つきが異なる。九州地方を中心に伝わる。河童が川に棲むのに対し、ひょうすべは水を使う場所——湯殿、井戸、洗い場——を好む傾向がある。働き者で、気に入った場所を自発的に掃除・整頓する習性を持つ。


【得意技】


・水回り清掃:排水溝、石床、桶類の掃除を好む。几帳面で丁寧な仕事をする。

・水の感知:水の流れや汚れを敏感に察知する。滞った水や詰まりを直感で見つける。


【弱点】


・言葉が苦手で、コミュニケーションに時間がかかる

・人間に驚かれると身を縮める

・頭の皿が乾燥すると力が出ない(河童と同様の制約)


【生態】


基本的に無害で、縄張り意識よりも「その場をきれいに保ちたい」という本能が強い。掃除を喜びとしており、汚れた場所を見ると我慢できなくなる。静かな場所を好み、騒がしい環境には馴染みにくい。人間と共存できると判断した場合、長く留まる傾向がある。


【玄丸の評価】


「河童の親族というだけあって、義理堅さは同じようだ。言葉は少ないが、行動が明確で、理から見れば付き合いやすい部類に入る。水回りの気の流れを整える効果もある——我の屋敷への理的寄与としては、まずまずの判定だ」


【遭遇時の対処法】


驚かせず、作業を邪魔しないことが基本。受け入れれば水回りの掃除を自発的に担ってくれる。頭の皿が乾かないよう、湿気のある環境を保つとよい。


【豆知識】


ひょうすべの「兵主部」という字は、古い文書では「水の主を守る者」という意味で使われた記録がある。河童一族の中でも「住み込みの守り手」として、人の屋敷に馴染んだ個体の話が西国の伝承に多く残る。垢嘗あかなめと並んで、風呂場に関わる妖怪の代表格とされる。

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