第六十九話「夜桜の下で」
夜が深まると、桜の色は白くなる。
昼間の薄紅は光の産物であって、闇の中でそれを支えるものは何もない。残るのは輪郭だけだ。枝の先から花弁がこぼれ、ぼんやりとした白い塊が夜空に浮かぶ。昼とも月光のそれとも違う、宙吊りのような色。
我は縁側の柱の陰から、庭のその桜を見ていた。
真白殿が、縁側に腰かけていた。
膝の上に薄手の衣を重ね、両手を揃えて膝の上に置いている。視線は庭の桜に向いているが、何かを観察しているというより、ただそこに意識を置いているという様子だった。言葉で言うなら、「浸っている」。
その隣に、真名井実俊(まない の さねとし)が座っていた。
やや間を空けて。ごく自然に空いた間のように見えるが、実のところ微妙に計算された距離である、と我は見た。近すぎず、遠すぎず。陰陽師見習いの男が、自分でも気づいていない程度に意識して保った間合いだ。
「花見の宴より、こちらの方が好きです」
実俊が言った。
問いかけでも感想でもない。どちらとも取れる言い方だった。
真白殿はしばらく答えなかった。返答を選んでいるのではなく、言葉が自然に出てくるのを待っているような間だった。
「ええ。昼間はにぎやかすぎて、桜が遠くなる気がして」
「遠くなる、と」
「桜って、一人で見るものじゃないかしら。いえ——一緒に見るとしても、静かな方がいいの。喋りながら見ると、見ていない気がして」
実俊が少し顎を引いた。
「それは……そうかもしれません。僕は宴のたびに記録を取っていましたが、何を見ていたのかと言われると」
「記録」
「星辰の動きと、気の流れを。花より、そちらが気になってしまう性分で」
真白殿がわずかに笑った。声を立てるのではなく、口の端が少し動いただけの笑い方。
「実俊さんらしい」
「真白殿には呆れられますか」
「呆れない。おかしいと思うの。おかしいは、変だという意味じゃなくて——面白い、という意味で」
庭の桜が、風もないのに一枚、花弁を落とした。
白い欠片が夜気の中を漂い、砂利の上に落ちる。二人ともそれを目で追ったが、何も言わなかった。
我は柱に背をつけ、尻尾の先だけを動かした。
これは観察である。記録である。
そう自分に言い聞かせながら、しかし我の内側では何かが微かに軋んでいた。軋むという表現は正確ではないかもしれない。揺れる、でも違う。何かが動こうとして、動く名前を持っていない、という感覚だ。
理論的に述べるならば、観測者は観測対象から距離を置くことで精度を保つ。しかし我は今、距離を保つことで何かが零れていく、という感覚があった。
その「何か」の正体については、今は問わないことにする。
「真白殿は、夜が好きですか」
実俊の声が、また低く落ちてきた。
「昼より夜の方が、言葉が正直になる気がして」
「正直に、ですか」
「昼間は、色々なものが見えすぎる。夜は見えないぶんだけ、聞こえるものがはっきりする。くろまろの息づかいとか、風の向きとか」
その名が出た瞬間、実俊の目が一度だけ庭の方へ動いた。
我は柱の陰に引っ込んだ。
今のは、見られた。
間違いなく、視線の端に捉えられた。実俊はしかし何も言わず、真白殿の方へ向き直った。
「真白殿は、夜に詩を詠むことが多いですか」
「詠むというより、浮かんでしまうの。意図していないのに言葉が出てくる夜がある。そういう夜は、たいてい桜か月が絡んでいる」
「言霊の感応が、高まる時間帯があるのかもしれません。陰陽の理から言えば、夜は陰気が満ちて水の理が活性化する。水は記憶と感情を媒介する属性ですから」
「理論で説明されると、少し夢がなくなりますね」
「申し訳——」
「冗談よ」
実俊が口を閉じた。真白殿が続ける。
「でも、理論で説明できても不思議は消えないと思う。なぜ言葉が出てくるのかはわかっても、その言葉が何者かへ届くかどうかは、理論の外にある気がして」
「……届く、とは」
「くろまろに話しかけると、ちゃんと聞いていると分かる。返事はできないのに、聞いていると分かる。それが理論で説明できますか」
実俊は答えなかった。
少しだけ、間があった。
「できません」
それだけだった。
我は柱の陰で、前脚を折り畳んだ。喉の奥で、細い息が出た。声ではない。
真白殿が庭に視線を戻した。
「実俊さんが記録を取っていた宴の夜、くろまろは塀の上にいたの。知ってた?」
「……知っていました。一度、目が合った気がして」
「あの子、いつも一番高いところから見てる。何を考えているのか、いつも分からないけれど——」
真白殿が言葉を切った。
膝の上の手が、ほんのわずかに動いた。
「でも、側にいてくれると分かる。それだけで十分なの」
実俊は、今度はしばらく黙っていた。
返す言葉を探しているのではないと、我には分かった。何かを受け取り、その重さを測っているのだ。陰陽師見習いの男が、数理では測れないものを前にして、沈黙している。
桜がまた一枚落ちた。
今度は二人の間に、音もなく着地する。
我は縁側を離れ、庭の奥へ向かった。
二人の背中が遠くなる。夜桜の白の中に、並んだ輪郭だけが残っている。
その図を、我はもう見ていなかった。
見ると、何かが揺れる。揺れているものに名前をつけてしまう前に、我は背を向けた。
庭石を一つ越え、桜の根方に落ち着く。
花弁が数枚、黒い毛並みの上に積もった。払わなかった。
夜気が少し、冷たかった。




