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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第三章:冬から春へ

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第六十八話「花見で迷子」

「くろまろ、あちらの茂みの奥に何かいるみたい」


真白ましろ殿がそっと腰を屈め、砂利の向こうを指差した。


庭の奥、桜の根方に積み上がった落ち葉の陰から、くぐもった音が聞こえていた。


泣き声、だった。


赤子のように甲高く、しかし湿り気が違う。湿原の奥底から滲み出るような、じわりと空気に染み込む種類の嗚咽。人のものではない。


我は耳を前に向け、その方向の気の流れを読んだ。


邪なものではない。むしろ迷子の鳥が木の幹に頭をぶつけているときのような、どこにも向かわない途方に暮れた揺らぎだ。


我は先に歩き出した。


茂みの手前で立ち止まり、前脚を一度地に押しつける。そのまま意識を体の外へ滑らせる。虚歩こほは体を捨てる術ではなく、意の糸を延ばす術だ。地の気を踏み台にして、意識だけを一間いっけんほど前に投影する。霊体が茂みをすり抜け、落ち葉の下の気配に触れた瞬間、我は相手の輪郭を掴んだ。


老いた小さな男の姿。赤みを帯びた顔。腹が丸く、着物の裾は泥に汚れている。妖の気は薄い。しかし人間でもない。


体に戻り、茂みを避けながら迂回して、落ち葉の山の向こう側へ回り込んだ。


いた。


子泣きこなきじじいだった。


丸い石のような体を折り畳み、桜の根に背中をくっつけて座り込んでいる。その顔は確かに老人のそれだが、泣いている様子は迷子の幼子そのものだった。鼻をすすり、袖で目元を拭い、また鼻をすする。足元には枯れ枝が散らばっていた。何度も同じ場所を歩き回った跡だ。


真白殿が後ろから、足音を殺して回り込んできた。


一目見て、それが人間でないことに気づいた。しかし怖気づく様子はなく、少し首を傾けて、その小さな老人の様子を窺っている。


「迷子に、なったの?」


子泣き爺がびくりと顔を上げた。


その目が潤んでいる。返す言葉を探すように口をぱくぱくさせてから、ようやく絞り出した。


「まごを……探しとるんじゃ」


声は低く、しかし頼りない。しゃがれていて、それでいてどこか子供じみた抑揚がある。


うたげの人の群れに紛れてしもうて、はぐれてしもうた。あの子は色が白うて小さい。いつも泣き虫で……わしが鳴くと、あの子も鳴くんじゃ」


真白殿が膝を折って、老人の目の高さに合わせた。


「どのあたりで一緒にいたか、覚えていますか」


「大きな桜の木の下じゃった。人がたくさんおって、わしが人を押し退けて追いかけようとしたら……気づいたらここにおった」


話の筋を整理すれば、昨日から今日にかけての花見の宴の人波に紛れ込み、迷子になったということだろう。宴が解けたあとも出口がわからず、一晩ここにいたらしい。足元の枯れ枝の踏み跡が、その時間の長さを示していた。


我は周囲の気を再び確かめた。


孫という存在が近くにいるかどうか。妖の気は今の我では遠くまで届かないが、屋敷の敷地と外の路地あたりまでならば虚歩の意識を延ばせる。


もう一度、前脚を地に押しつける。


今度は長く。より丁寧に。


意の糸が地の理を伝って広がっていく。土の粒子ひとつひとつが小さな響板になり、我の意識の振動を遠くへ届ける。屋敷の築地塀を越え、外の土塀沿いの道へ。


あった。


東の路地の角の辺り。丸くて小さな気配。これも妖だが、こちらは不安定に揺れている。まだ幼い。一か所に留まって、泣いている。


我は体に戻り、庭の東端へ向かった。


真白殿が気づいて後に続く。「くろまろ、何か見つけたの」と小声で問いかけてきたが、我はただ歩き続けた。


塀際まで来てから、その場に座り、外の方角へ視線を向けた。


真白殿はしばらく我の様子を見て、それから塀の向こうへ耳を澄ませた。


泣き声が聞こえたのだろう。


「……いる」


彼女は立ち上がり、足早に門の方へ向かった。


我はそのまま塀の上に飛び乗り、外の路地を見下ろした。


土塀の根方に、小さな子泣き爺がうずくまっていた。まだ子供の体つきで、膝を抱え、ひっくひっくと嗚咽を上げている。祖父のものよりさらに甲高い声だった。


真白殿が門を出て、路地に膝をついた。


「ここにいたのね。大丈夫よ」


子の子泣き爺が顔を上げた。その目が真白殿の顔を映して、一瞬固まってから、また泣き始めた。


しばらくかかった。


真白殿がそのそばにいる間、我は塀の上から両者の様子を見ていた。やがて老いた子泣き爺が庭の奥から、真澄ますみに導かれてやってきた。門の外で孫を見つけた瞬間、老人はよたよたと駆け寄り、子の肩をその丸い手で掴んだ。


何も言わなかった。


ただ、その手がわずかに震えていた。


孫の方も泣き止まなかった。しかし声の調子が変わった。先ほどまでの迷子の泣き声ではなく、もっと別の種類の音になった。


真白殿は少し離れたところで、その様子を見ていた。


我は塀の上で前脚を折り畳み、顎を膝に乗せた。


やがて老いた子泣き爺が、ぐずぐずと鼻をすすりながら真白殿の方を向いた。


「……ありがとう、お嬢さん。それと、黒猫さんも」


真白殿が微笑んだ。


「また迷子になったら、ここに来ていいから。覚えておいてね」


老人はもう一度だけ鼻をすすり、孫の手を引いて路地の奥へ歩き始めた。その背中は丸く、小さく、孫の方がわずかに背が高かった。


二人の姿が角を曲がって見えなくなってから、真白殿が顔を上げた。


「よかった」


その言葉は我に向けたものではなく、夕方の空気に向かって零したものだった。


塀の上から飛び降り、真白殿の足元に落ち着いた。


春の夕暮れに混じって、どこかから桜の香りが流れてきた。花はもう散り始めている。それでも香りはまだ残っていた。まるで宴の賑わいを惜しむように、夕風の中に長く漂っていた。

【妖怪図鑑】


■子泣きこなきじじい

【分類】山野の妖怪

【危険度】★☆☆☆☆(低)

【レア度】★★★☆☆(やや珍しい)

【出現場所】山間の道、寂しい森の外れ、宴の人波の縁


【特徴】

赤ら顔に丸い腹、老人の顔と子供の声を持つ不思議な妖怪。泣き声で人を驚かせることで知られるが、その実態は愛情深く家族思いの存在である。家族や仲間とはぐれると途方に暮れて泣き続けるため、迷子のまま発見される例も多い。人間を傷つける意志は持たない。泣き声の高さと湿り気には独特の響きがあり、慣れた者には人の泣き声と区別がつく。


【得意技】

・子泣き(こなき):赤子のような甲高い泣き声で周囲を驚かせる。怖がって逃げる人間を追いかけてしまう習性があり、これが「怖い妖怪」という誤解を生む。

・しがみつき:抱き上げた相手にしがみつき、次第に重くなっていく。ただし本人は甘えているだけで悪意はない。


【弱点】

・方向感覚がほぼ皆無で、少し歩くとすぐに迷子になる

・泣き続けると体力を消耗し、その場に座り込んでしまう

・優しい言葉をかけられると素直に落ち着く


【生態】

孫や子供といった「守るべき小さな存在」を持つ個体が多く、家族単位で行動する。人の集まりに興味を持ち近づくことがあるが、人混みが苦手で迷子になりやすい。家族に見つけてもらうと安堵して泣き止み、その後は何事もなかったように去っていく。


【玄丸の評価】

「危険度という意味では問題外の相手だ。ただ、迷子の老人と迷子の孫が、互いを探して同じ場所をすれ違い続けるという状況は、理として見れば些か非効率すぎる。虚歩こほで探索する価値はあった。泣き声の音圧は予想外に高かったが」


【遭遇時の対処法】

驚かせず、落ち着いて話しかけるのが最善。迷子の場合は家族を探す手助けをすると、感謝して去っていく。泣き声に怖気づいて逃げると追いかけてくるため、むしろ立ち止まる方が良い。


【豆知識】

子泣き爺の泣き声には個体差があり、家族内では声の調子で互いを識別できるという。宴や祭りの賑わいに引き寄せられる習性を持つため、花見の季節に人里近くで目撃される例が増える。祖父と孫が連れ立っている姿が多く見られることから、「三代続く長命の妖怪」という伝承もある。

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