第六十七話「酔った公達」
朝の残り香というものがある。
酒の甘酸っぱさと、燃え尽きた松明の油煙と、宴席に散った花びらが渾然と混じり合ったあの匂いは、一夜の賑わいが過ぎ去った庭に、気まずい証拠として漂い続ける。
昨夜の花見はとうに終わっていた。
しかし宴はまだ、終わっていなかった。
廊下の柱にもたれて眠る若い公達が一人。
庭石に顎を預け、杯を抱いたまま動かない中年の官人が一人。
渡り廊下の真ん中で大の字になり、高らかな鼾を奏でる壮年の貴族が一人。
我は築地塀の上から、この惨状を見下ろしていた。
まこと、人間というものは酒が入ると理の歯車が外れる生き物である。昨夜あれほど優雅に管絃を奏でていた彼らが、今や礎石の染みとなって庭に転がっている。観測の結論として述べるならば、人の品格とは液体によって溶解する程度のものらしい。
尻尾の先を一度だけ、ゆっくりと振った。
庭の隅では、使用人の男が額に手を当てながら倒れた御仁を見渡している。どこから手をつければよいか判断しかねている顔つきだ。その横を葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が足音も立てずに通り過ぎ、倒れた順に要領よく別室へ運ぶよう指示を出していた。さすが藤原家を長年切り盛りしてきた男である。この程度の事態は想定内なのであろう。
「また転がっていますでござろう」
真澄がちらりと塀の上の我を見上げ、一言だけそう呟いた。
その口調はあくまで平静だったが、目は明らかに「お前もそろそろ降りてこい」と言っていた。
降りる義理はない。
我は毛繕いを再開しながら、庭の観察を続けることにした。
そのころ、屋敷の奥からばたばたとした足音が聞こえた。
「真澄様、大変でございます。桂中将様が池の縁でまだ歌を詠んでいらして、止めようとした童に杯を投げつけ——」
「わかっていますでござろう」
真澄は短く遮り、すでに池の方角へ歩き出していた。
我は塀の上を数歩進み、池が見える位置まで移動した。
いた。
四十がらみの貴族が、池の縁の岩に腰かけて両手を広げ、朝の空に向かって何事か叫んでいる。声を張り上げるたびに冠が傾き、衣の裾が乱れ、はたからみれば月を見上げて吠える野良犬と大差ない。
この男は確か昨夜、真白殿に「姫君のお顔は白玉よりも滑らかで」などと詠みかけていた御仁である。真白殿は上品に微笑んで聞き流していたが、我の耳には「白玉より硬い頭の持ち主が申すか」と聞こえた。
いずれにせよ、今の姿を昨夜の歌で補完すると、その落差が一種の喜劇として成立する。
「桂中将様。朝露が冷えてまいりましたでござろう。奥にて温かい湯と粥が用意してございますでござる」
真澄が静かに歩み寄り、淡々とそう告げた。
「おお真澄、真澄よ。我は今、無常の理を悟ったのだ。花が散るように、人の栄華も——」
「奥でも悟れますでござる」
「むっ。……そ、そうか」
どういうわけか、真澄の一言は妙に効く。哲学を語りかけた貴族が素直に立ち上がり、よろめきながら案内に従った。
我はその背を見送りながら、喉の奥で小さく息をついた。
真澄という男は、感情の波を立てずに人を動かす術を知っている。言葉を尽くさず、ただ必要なことを必要なだけ告げる。その在り方は、下手な弁舌よりずっと理に適っている。
ふと足元を見ると、花びらが一枚、塀の上に貼り付いていた。
昨夜の宴の残骸だ。風もないのに、薄紅の一枚がここまで飛んできていたらしい。
やがて真白殿の部屋の方向から、軽い足音と布の擦れる音がした。
障子が開き、真白殿が顔を出した。簡素な衣に整えただけの黒髪。昨夜の晴れ着ではなく、朝の気配をそのまま纏ったような姿だった。
庭を一巡りしてから、ひとつ息をつく。
それから塀の上の我に気がついて、目を細めた。
「また見張りをしているの」
我は瞬きを返した。
見張りなどではない。観測である。
もっとも、その区別は彼女には通じないだろうが。
「昨夜の方々、みんな大丈夫かしら」
廊下に折り重なっていた公達たちは、すでに真澄が別室に収めていた。真白殿の視界にはもう入るまい。
我は一度だけ、ゆっくりと目を伏せた。
「……そう。よかった」
何かを汲み取ったのか、真白殿は小さく頷いた。
それから池の縁に歩み寄り、散り残った桜の一枝を見上げた。
「もう少し咲いていてくれないかしら。桜って、散り際が一番綺麗だとは言うけれど——散ってしまったら、やっぱり寂しいもの」
我は塀の上から彼女の後ろ姿を見ていた。
春の朝の光の中で、白い衣の裾が揺れる。
昨夜の宴に集まった公達のどれほどが、この景色を正気で見ていたろうか。酒に濡れた眼では、目の前のものの半分も映るまい。
まこと、もったいない話である。
尻尾をゆっくりと一払いし、我は前脚を折り畳んで塀の上に丸くなった。
縁側の柱に体を預けたまま、実俊がしばらく後に現れた。昨夜の宴で遅くまで残っていたくせに、いつもより少し顔色が悪い。手には何か書付を持っているが、それは単なる言い訳の小道具に見えた。
「真白殿、昨夜はお疲れではありませんか」
「あら、実俊さんこそ。顔色がよくないわ」
「……少し、水を一杯いただければ」
「もう」
真白殿は苦笑いをしながら、実俊を屋内へ促した。
実俊は素直に従いながら、ちらりと塀の上の我を見た。
我は動かなかった。
実俊は少し目を細めてから、何も言わずに中へ入っていった。
朝の空は薄く霞んでいた。
庭に散り落ちた花びらが、風もないのに少しずつ動いていく。
掃除をする使用人が出てくるまでの、束の間の静けさだ。
昨夜の賑わいも、今朝の惨状も、やがて片付けられ、整えられ、何事もなかったように庭は戻るだろう。
そういうものだ、と我は思う。
宴というものは、始まった瞬間から終わりへ向かっている。
散ることを前提に咲く花と同じように、集まった人々はいずれ散る。
それでも真白殿は「散ってしまったら寂しい」と言った。
散り際が美しいと知っていても、そう言える。
我はそこに何か、単純な理では説明のつかない何かがあることを認めていた。ただし、それがいかなる名を持つものかについては、今は深く考えないことにした。
使用人が竹箒を持って庭に出てきた。
残された花びらが、掃き集められていく。
我はもう一度だけ全身を伸ばし、塀の内側へ飛び降りた。




