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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第三章:冬から春へ

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第六十六話「桜の宴」

花というのは、咲く前から場の空気を変える。


藤原家の庭に植わる桜の古木が、数日のうちに七分咲きになった。昨日まで蕾の固かった枝が今朝には一斉に開き、白と淡紅のあいだを揺れる花びらが、屋敷の白砂の上に落ちては溶けるように消えていく。風が吹くたびに香りが変わる。土の匂いと混ざって、甘いとも苦いともつかない、あの特有の気配が庭全体を満たしている。


我は築地塀ついじべいの上に身を落ち着けた。


見晴らしがよい。


庭には茣蓙ござが広げられ、その上に几帳きちょう屏風びょうぶが立てられていた。藤原家の親族と縁者が十数人、庭の要所に散らばって、膳の前に座っている。衣の色が赤・青・緑・白と重なり合って、桜の木の下でやたら賑やかな彩りをなしていた。


うたげとは要するに、人間が集まって飲み食いしながら声を張り上げる行事だ、と我は定義している。


今日もその定義から外れていない。


「まことに今年の桜は格別でございますね」と誰かが言い、「左様、昨年よりも花の付きがよろしゅうございます」と別の誰かが返す。その会話が三往復ほど続き、やがてさかずきが回り、笛が鳴り始める。笛の音は上手くも下手くもなく、ただただ春の空気の中に溶けていった。


人間の宴とはこういうものだ、と我はアルメラ魔導帝国まどうていこくの記憶と照らし合わせた。


かの帝国でも、要人の集まりには必ず宴席が伴った。ただし目的は情報交換と勢力確認であり、酒と笑いはそのための手段だった。ここ平安の都の宴も、形はみやびだが本質は同じだ。誰が誰に近づき、誰が誰を遠ざけ、誰の声が一番大きく聞こえるか。そういうことを、皆、花を眺めながら測っている。


くだらぬ、とは言わない。


理の一形態だ。


真白ましろが、庭の中ほどに座っていた。


薄紅の重ね着が、桜の色と同じ系統にある。意図したものかどうかは知らないが、結果として真白は庭の風景の一部になっていた。花びらが一枚、真白の肩に落ちた。真白は気づかずにいる。


我は尾を揺らした。


塀の上から見ると、真白の横顔は宴の騒ぎに溶け込みながらも、どこか遠くを向いているように見えた。会話には応じている。笑顔も絶えない。しかし時おり、誰かの声が途切れたわずかな間に、視線が庭の奥へ、桜のこずえへと向く。


何を見ているのか、という問いは立てても意味がない。


令嬢が花見の宴で梢を眺めるのは、それ自体が答えだ。


真名井実俊(まない の さねとし)の姿も、庭の一角に見えた。藤原家の縁者として呼ばれたのか、陰陽師おんようじの立場での参加なのかは判然としないが、いずれにしろ今日は束帯そくたい姿で、膳の前に座っている。その目は、時おり真白のいる方向へ向く。気づかれないように、という配慮が、かえって遠くからでも分かる。


ふむ。


先日も見た構図だ。


実俊が真白の横顔を見る。真白は梢を見る。我は塀の上から全員を見る。


この宴の眺望は、なかなかに複雑な層構造をしている。


葛上真澄(かずらがみ の ますみ)は宴席の端、人の輪から一歩引いたところに立っていた。家令かれいとしての立場から宴には関わるが、座に加わらず、庭全体に目を配っている。その佇まいは垣根の一部のようで、気を抜くと視界から外れる。


我と目が合った。


真澄は何も言わなかった。こちらも何も言えない。ただ、互いに似た場所から宴を眺めているということだけが、短い視線の中に確認された。


笛の音が一区切りついた。


誰かが和歌わかを詠み始めた。桜と春と、消えゆく花びらに世の無常を重ねた一首で、その場にいた何人かが相槌を打った。確かに整った歌ではあった。ただ、内容は平安の都で春ごとに繰り返されているものと大差ない。桜は毎年咲き、毎年散り、毎年誰かが無常を詠む。


我はこの循環を否定しない。


人間が季節に言葉を与えることで、季節は記憶になる。記憶は次の春へ渡される。それもまた、理の一環だ。


「玄丸」


真白の声がした。


我が塀の上にいることに気づいたらしく、真白がこちらを見上げていた。宴の座から少し離れた場所、桜の根方ねかたの近くだった。いつの間にか移動していたようだ。


真白が手招きをした。


我は塀から飛び降り、庭石を踏んで真白のそばへ向かった。真白がその場にしゃがみ込んで、我を腕に受けた。立ち上がると、花びらが一枚、今度は我の背中に落ちてきた。


「塀の上から何を見ていたの」


答える術を我は持っていない。ただ、耳を一度動かした。


「全部、ね」


真白がそう言って、くすりと笑った。


我の背中から花びらを払う手が、ゆっくりと動いた。桜の根方から見上げると、枝の隙間に青い空が見えた。花びらが絶えず舞って、空との境界を曖昧にしている。


「きれいね」


真白が言った。我に向かってではなく、空に向かって。


きれい、という言葉は、正確な意味では我には使えない語彙だ。美を判断する回路は、魔導王時代には理の整合性に近いところにあった。均衡が取れているものを美しいとする基準だ。しかし桜の散り際には、均衡よりも崩壊に近い何かがある。崩れることが前提の美しさだ。


それでも。


塀の上から見ていた時とは、景色の見え方が違う。


真白に抱かれてここから見ると、花びらの動きが別の速さで見える。同じ物理の法則に従っているはずが、なぜか違う。


これがじょうの理というものか、と我はおよそ理論的でない結論を、しかし確信を持って導き出した。


宴の方から、笛の音がまた始まった。今度は先ほどより少し速い調子だった。誰かが手を叩き、それに合わせて話し声が高くなった。春の午後の空気が、少し暖かくなった。


真白が宴席の方へ目を向けた。


実俊がこちらを見ていた。一瞬だけ、すぐに視線を戻した。


「そろそろ戻らないと」


真白が言って、我を抱いたまま宴席へ向かい始めた。


花びらが、また一枚、白砂の上に落ちた。


踏まれることも流されることもなく、ただその場に留まっている。散ったばかりの花びらには、まだ色がある。


もう少しすれば、色は抜ける。


それまでの間だけ、今日のこの景色がある。


宴の笛の音が、桜の香りの中に混ざって、どちらがどちらか分からなくなっていった。

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