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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第三章:冬から春へ

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第六十五話「河童の恩返し」

「猫どの、猫どの」


声がした。


水の匂いがした。


川の底に溜まった泥と、春先の苔と、魚の脂が混じり合った、あの独特の匂いだ。我は縁側から顔を上げ、庭の外れに目をやった。


築地塀ついじべいの陰から、青みがかった丸い頭が、おそるおそる覗いていた。


さらがある。


頭の頂に、水を湛えた平たい皿。周囲には藻がわずかに張り付き、腕は短く、指の間に薄い水かきがある。甲羅は背中でひっそりと光を弾いている。


河童かっぱだ。


しかも成体せいたいではない。背丈からして、まだ若い個体。それも、どこかで見た顔だ。


記憶の棚を繰ると、すぐに出てきた。


去年の秋、川で溺れかけていた子河童。我が木の理で流れを緩め、岸へ押し上げた一件がある。あの時の子が、こうして成長したか、とまではいかないが、ひと冬越えて少し大きくなったらしい。


「猫どの、おるか?」


塀の陰から、また呼ぶ声がした。


我は尾をゆらりと揺らして立ち上がり、庭石を踏んで外れへ向かった。


塀の手前で止まると、子河童が顔を出した。


両手で何か抱えている。魚だ。川魚が三匹、わらで束ねてある。鱗が日差しを受けてぬめりと光っている。


「もってきた」


子河童が言った。声は甲高く、水の中で石が転がるような響きがある。


「父ちゃんが、ちゃんと礼をせいと言うた。去年、助けてもろうたから」


我は子河童の目を見た。


真っ黒な、丸い目だ。光の量を測るような、人の目とは少し違う構造をしている。それでも、その目の奥にある何かは、確かに礼を伝えようとしている。


ふむ。


義理堅いものだ、河童というのは。


我は鼻を魚に近づけた。新鮮だった。川から上げてそう時間が経っていない。これは真白の厨房くりやに届ければ、夕餉ゆうげの一品になる。


子河童が、もじもじと足を動かした。


「……猫どの、また来てもよいか」


我は子河童を見上げた。


なぜそんなことを聞く、という表情を作ったつもりだが、猫の顔でそれが伝わったかは定かでない。


「父ちゃんが、しつこくするなと言うた。でもは、もう少しここにおりたい」


やはり、子供だ。


礼を言うためだけに来たのではなかった。この子河童には何か別の目的がある。いや、目的というほど大袈裟なものではない。ただ、ここが気に入った。あるいは、我のそばが居心地よかった、というだけかもしれない。


生き物の理というのは、妖怪も大差ない。居場所を求め、安心できる相手を求める。


我は、塀の内側へ向かって歩き始めた。


振り返ると、子河童が戸惑った顔で立っていた。


入ってくるがよい、という意思を、尾の動きと視線で伝えた。


しばらく間があって、子河童が塀の崩れた一角から身をすべり込ませた。甲羅が石に当たってこつんと音を立てた。


庭に踏み込んだ子河童は、きょろきょろと辺りを見回した。白砂と庭木と縁側が目に入ったのか、口を半開きにしている。水辺とは全く違う景色に、戸惑っているらしい。


「広いのう」


誰にでもなく、つぶやいた。


そこへ、真白ましろが縁側に現れた。


「玄丸、どこへ……」


真白は庭の子河童を見て、言葉を止めた。


子河童も真白を見て、固まった。


どちらも動かないまま、しばらく間があった。


真白が先に動いた。驚きを顔に残しながら、ゆっくりと庭へ降りる。


「こんにちは」


真白が言った。


子河童がびくりと体を揺らした。皿の水がわずかに揺れた。


「……ちは」


か細い声が返ってきた。


真白は子河童の持っている魚束に気づいた。


「持ってきてくれたの?」


「猫どのへの礼、じゃ。去年、助けてもろうた」


真白は我を見た。その顔には問いかけが混じっていたが、細かな事情を今ここで説明する手段が我にはない。我は軽く尾を動かした。それで十分、という合図だ。


真白は頷いて、子河童へ視線を戻した。


「ありがとう。大切にいただくわ」


子河童が、照れたような動きをした。顔色が緑から少し赤みがかった色に変わった。河童が恥ずかしがると色が変わるらしい。これは初めて観察した。


真白が魚束を受け取ると、子河童は少し身軽になった様子で庭を見回し始めた。


「ここ、ええとこじゃな」


「気に入ってくれた?」


「水はないが、土がよい。川の底の土に少し似とる」


「そうかしら」


「うん」


子河童はしゃがみこんで、白砂に指先で触れた。ぎゅっと握って、また開く。砂が指の水かきの間からこぼれた。


我は縁側に戻って、その一部始終を眺めた。


真白と子河童の距離が、少しずつ縮まっていく。


真白がしゃがんで子河童の目線に合わせた。子河童が自分の皿のことを説明しはじめた。「乾いたら力が出なくなる」「父ちゃんに毎朝水を補てもらう」「自分でも川に入って補充する」。どうもこの子河童は、話し相手ができると途端に饒舌じょうぜつになる性質らしい。


やがて子河童が我の方を向いた。


「猫どの、また来てもよいか」


先ほどと同じ問いだが、今度は真白にも聞こえている。


真白が笑って、我を見た。


「玄丸が嫌と言ったら来てはいけないけれど、玄丸は来てほしいと言っていると思うわ」


子河童が我を見た。


我は瞬きをした。


それが「否」でないことを、子河童なりに受け取ったのか、ぱっと表情が明るくなった。


「では来る。魚も、また持ってくる」


「ありがとう。名前を聞いてもいい?」


子河童は少し考えた。


「……九助きゅうすけ


「九助。よい名ね」


「父ちゃんがつけた」


真白が九助に向かって微笑んだ。


我は庭の、真白と九助の二つの影を眺めた。白砂の上に伸びる影は、春の日差しが作ったものにしては少し長く、ゆらゆらと揺れていた。


人間の令嬢と、川に住む幼い水棲すいせいの妖。


どちらも「ここに来てよいか」という問いを持っている。一方はとうの昔にその問いが解決されており、もう一方は今日初めて踏み込んだばかりだ。


それでも二人は、今この庭に並んで座っている。


世界の理というものは、時として我の予測を超えた配置を取る。


ふむ。


悪くない。


九助がそのまま帰りがたそうにしているのを見て、真白が「少し庭で休んでいく?」と声をかけた。九助が頷いて、白砂の上にちょこんと座った。


やがて真白が「お茶を持ってくるわ」と席を外した。


九助が一人になると、我のそばへやってきた。


ちょこんと座る。


甲羅が日に当たって、乾いた音を立てた。九助が慌てて皿の水を手で押さえた。


乾燥を気にしているのか、と我は観察した。川から離れると皿の水が蒸発しやすいのかもしれない。この季節はまだ風が冷たいが、日差しが強い日は気をつけた方がよかろう。


九助が我を横目でちらりと見た。


「……猫どの、川に来たことはあるか」


来たことはある、という意思を、軽い動作で伝えた。


「また来てほしい。おととが、猫どのに会いたがっとる」


弟がいるのか。


九助より更に小さい個体が川にいる、ということだ。


我は耳をかすかに動かした。


九助が続けた。


「弟は、今年の春に生まれたばかりじゃ。父ちゃんも母ちゃんも、川から遠くに行くなと言う。でも弟は、猫どののことを父ちゃんから聞いて、ずっと会いたがっとる」


春に生まれたばかりの子河童。


それがまだ川を離れられないとすると、いずれは向こうから訪ねてくるかもしれない。あるいは我が川辺まで出向くことになるか。


どちらでも構わない。


真白が茶を持って戻ってきた。九助が「猫どのに弟を会わせたい」という話を伝えると、真白は「春が深まったら川に遊びに行きましょう」と返した。


九助の目が光った。


水が入ったばかりの皿のように、澄んだ光だった。


我は庭石の上に腰を落ち着けて、白砂に落ちる三つの影を眺めた。


九助は帰り際、もう一度振り返って我を見た。何かを伝えようとして、うまく言葉が出ないらしく、かわりに深く頭を下げた。皿の水が揺れて、縁からわずかにこぼれた。


塀の割れ目から消えていく甲羅を見送って、我は思った。


義理堅さとは、要するに記憶の誠実さだ。助けられたことを忘れない。礼を果たしに来る。それだけのことだが、人の世ではそれが難しい場合もある。


この子河童の方が、よほど理に適っておる。


「また来てくれるといいわね」


真白が言った。


我は答えなかった。答える声を持っていないからだが、来るだろう、という確信は十分にあった。


九助は必ず戻ってくる。


そして次は弟を連れてくるかもしれない。


春の川というのは、どこへでも続いている。


庭に残った茶の香りが、風に乗って薄くなっていった。

【妖怪図鑑】


河童かっぱ

【分類】水棲妖怪

【危険度】★★☆☆☆(低〜中)

【レア度】★★☆☆☆(やや珍しい)

【出現場所】川・池・沼・水辺全般。都の近郊では鴨川や桂川あたりに生息している。


【特徴】

頭頂に水を湛えた丸い皿を持ち、背中に甲羅を背負う水棲の妖怪。体色は青みがかった緑で、手足には薄い水かきがある。皿の水が乾くと著しく力が落ち、最終的には動けなくなる。水を補充すれば回復する。年齢を重ねるごとに体格が増し、皿も大きくなる。


【性格】

基本的に友好的だが、約束や礼儀を重んじる義理堅い一面を持つ。人間と交わした約束を守り、受けた恩義を忘れない。一方で子供の頃は好奇心旺盛で、水辺で人間に悪戯をすることもある。相撲が好きで、力比べを申し込んでくることがある。


【得意技】

・水流操作:川の流れをある程度コントロールできる

・潜水:長時間水中に留まれる

力業ちからわざ:体格に比して膂力りょりょくが強い


【弱点】

・頭の皿が乾くと急激に弱る

・礼儀を尽くされると断れない

・頭を下げられると皿の水がこぼれる(これを利用して無力化する方法が伝わっている)


【生態】

川底の穴や岸の茂みに巣を作る。魚・貝・河床の藻を食べる。一定の縄張りを持ち、よそ者の河童が入ると軽い諍いになることもある。家族単位で生活し、子育てには父母ともに参加する。


【玄丸の評価】

「意外と義理堅い。助けた翌年に礼を持って来るとは、人間でもなかなかできぬことだ。子供の頃から約束を重んじる習性があるなら、成体になった時には相当に信の厚い妖怪になる。川辺に足を運ぶ折には、邪険にせぬことだ。損はない」


【遭遇時の対処法】

無闇に驚かせず、こちらから攻撃しなければ危害を加えてくることはほぼない。相撲を申し込まれた場合、断ると傷つく場合があるので、軽く受けてあげると関係が良好になる。頭を下げる礼を尽くすと皿の水がこぼれるため、深く頭を下げ返すことで優位に立てる。ただしこれをやり過ぎると相手が倒れるので加減が必要。


【豆知識】

河童が持ってくる魚は川で最も新鮮なものを選ぶ習性があり、贈り物の質は相手への信頼度の高さを示す。今回のように脂の乗った川魚三匹を持参した場合、相手を相当に重んじているということになる。また、河童の子供が「また来てよいか」と許可を求める行動は、縄張り外の場所への入域を礼儀正しく申し出る習性によるもの。「来てよい」と許されると、その場所を自分の安全圏あんぜんけんとして認識する。

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