第六十四話「実俊の嫉妬」
縁側の柱に背を預け、眼を細めていると、庭の梅の香が鼻先をかすめた。
いまだ蕾の多い枝が、春めく風に揺れている。暦の上では早春とはいえ、日差しの角度がここ数日で確かに変わった。午後の光が庭石の表面を白く照らし、冬の間には届かなかった場所まで届くようになっている。この屋敷に来てひと巡りに近い時が経ったが、季節の変わり目というものは、人でもなく猫でもある我には、いつも異様なほど鮮明に感知される。
土の匂いが変わる。光の色が変わる。そうして何かが動き出す。
ふむ。
別に何かが起きる予感があるわけではない。ただ春とはそういうものだ、と、毛並みを整えながら我は考えていた。
縁側の端で尾を揺らしていると、庭に面した襖の向こうから声がした。
「では、先日お持ちした梅の香の文についてですが――」
真名井実俊(まない の さねとし)の声だった。
いつもより、わずかに硬い。
我は尾を止め、耳を立てた。
室内では、藤原真白(ふじわら の ましろ)が几帳の傍らに座り、手元の草紙に目を落としていた。実俊は彼女の正面に、ひどく行儀よく膝を揃えて座っている。陰陽師見習いとしての折り目正しい姿勢は、こういう場面にはいっそ滑稽なほど似合わない。
「どうぞ、実俊さま」
真白が顔を上げた。その表情は穏やかで、何の警戒も含んでいない。
「先日の件……いえ、文の件ですが。わたくしのほうでは、心当たりのある方はやはり」
「真白殿」
実俊が遮った。
珍しいことだ、と我は耳を後ろへ折りかけた。あの男が人の言葉を遮ることは、ほとんどない。理屈を重んじる気性の男が相手の発言途中に口を挟むとは、何か焦っている証拠である。
「その……このたびの懸想文の件は、真白殿が軽く考えておいでなのが少々、その、気になりまして」
「気になる、とは?」
「危ないではないですか」
実俊の声が、一段、低くなった。
「素性の知れぬ者から文を受け取り、しかも未だ差出人が判明していない。これは護符の観点から申しましても、霊的な媒介物が紛れ込む可能性を排除できず、その……つまり」
言葉が途切れた。
続けよ、と我は心の内で促した。
「つまり、真白殿は少し危機感を持っていただかないと」
「でも、実俊さまが調べてくださっているでしょう」
「それはそうですが」
「では安心でございますね」
それで丸く収めようとする真白の微笑を、実俊は正面から受け取れないようだった。うつむいて、束帯の膝のあたりを見つめている。
我は縁側から静かに室内へ踏み込み、二人の間を横切った。
実俊の視線が我に向く。
「……玄丸。お前は今、なぜそこを歩いている」
我が実俊と真白の間を一直線に横断したことを、この男は把握している。理屈で動く人間だけあって、こちらの行動の意図を常に読もうとする。それが時に煩わしく、時に愉快だ。
真白は「あら」と手を伸ばした。
我の背中に、柔らかな手のひらが触れる。
「玄丸、来てくれたの」
真白が我を膝に引き寄せる。
その瞬間の実俊の顔を、我は横目で観察した。
なるほど。
実俊は何かを堪えているようだった。こめかみのあたりが、かすかに動いた。口は閉じたまま。目線は我と真白の組み合わせを捉えたまま、どこか行き場を探している。
こういうことか、と我は得心した。
この男、要するに、我が真白に触れるのを快く思っておらぬわけだ。
論理的に整理すると、実俊は真白に何かを伝えようとしていた。それが懸想文の件を口実にした、別の感情の発露であることは、この短い観察で十分に推測できる。そして我が場に割り込み、しかも真白の膝に収まってしまったため、その計画が完全に狂った。
まことに、人間の感情というものは単純にして複雑だ。
単純なのは構造である。複雑なのは、それを本人が認められないという点だ。
「実俊さま、梅が咲き始めましたね」
真白が窓の外に目をやった。
「ああ、はい……そうですね」
実俊の返答は、心ここにあらずの響きだった。
「春になると、母上が少し楽になると言っておりまして。早く暖かくなるといいのですが」
「……左様ですね。御母堂のご容体、我々もお気にかけております」
「ありがとうございます」
真白は我の耳の付け根を、慣れた手つきで撫でた。
我は喉を鳴らさぬように気をつけた。いや、別に鳴らしても問題はないが、実俊の目の前でそれをやると、あの男の気が乱れる。乱れる様子を観察するのは面白いが、いまはそれが目的ではない。
「そういえば、実俊さま」
真白が少し首を傾けた。
「今日はいつもより早くおいでになりましたね。何か急いでいらしたのかしら」
実俊がわずかに口を開き、また閉じた。
「……いえ」
「そう」
「そういうわけでは、ないのですが」
「ないのですが?」
「…………いえ、何でもありません」
我は尾を左右に小さく振った。
言えぬか。
理屈と秩序を重んじるこの男が、言葉にならない感情の前では、あれほど見事に詰まる。陰陽の理を学び、星辰の配置から吉凶を読む者が、一人の令嬢の前では語彙を失う。これは笑えないのかもしれないが、我には笑える気がしてならない。
笑う顔を猫には持ち合わせていないのが残念だが。
真白が我の喉元に手を添えた。
「玄丸、機嫌がいいの? 尾が揺れているわ」
違う、と言ってやりたかった。これは我の中で算段が楽しい時に尾が勝手に動く、猫の身体の癖というやつだ。こちらにはいかんともしがたい。
ともあれ。
実俊は今日、文の件を名目にやってきたが、伝えたかったことは別にあったのだろう。懸想文への危機感を口実に、真白との時間を作ろうとした、あるいは何かを確かめようとした。それが我の乱入によって霧散した。
気の毒とは思う。
思うが、我が場を譲る理由もない。
実俊はしばらく真白の話に相槌を打っていたが、やがて「では今日は陰陽寮に戻らねばなりません」と腰を上げた。その顔に浮かんでいたのは、諦めとも何ともつかない、複雑な表情だった。
「また参ります」
「お待ちしております」
真白が微笑む。
実俊が去り際、我をちらりと見下ろした。
その眼差しは敵意ではなかった。ただ、何かを言いかけて、結局言わないまま、視線をそらした。
人が立ち去っていく後ろ姿というのは、どこか語る。
あの男が今日ここに来た理由も、言えなかった言葉も、我には全て見えていた。だが、それを代わりに語る方法を、我は持っていない。声を持たない身とはそういうものだ。
まあよい。
春というものは、人の気を浮かせる。実俊とて例外ではない。浮いた気が落ち着く前に何かしようとして、しかし肝心なところで言葉が詰まる。それはそれで、あの男らしい。
真白が我を抱いたまま、窓の外の梅を見ていた。
その横顔は、穏やかで、何も気づいていないようだった。
我の尾が、ゆるやかに、また揺れた。




