第七十八話「道中の妖怪」
宇治への道は、都を出て南へ向かう官道を外れたところから、急に細くなる。
初夏の草が道の両端から張り出し、牛車の轅が草の露をこすって湿っていた。真名井実俊(まない の さねとし)は道の轍を確かめながら歩いていた。葛上真澄(かずらがみ の ますみ)は後方で荷を見ている。藤原真白(ふじわら の ましろ)は牛車の中で、膝の上に我を乗せたまま外を眺めていた。
我は揺れる車中で、前脚の置き場を時々調整しながら、車窓から道の両側を観察していた。
初夏の山裾は緑が濃い。光の量が多く、影が深い。その対比が鮮明で、目の焦点を合わせる距離感が平地とは違う。
それがほんの少し、面白かった。
面白い、とは正確な表現ではないかもしれない。我が「面白い」と認識するのは、理の観点から考察する余地があるときだ。光と影の境界が鮮明な場所では、気の流れも輪郭を持ちやすい。宇治に近づくにつれて、水の気が少しずつ増している。川が近い。
「玄丸、何か見えるの」
真白が問いかけた。
車窓の外を向いた我の耳が動いたのを、見ていたらしい。
我は向きを変えず、耳だけを真白の方に向けた。
道の先、小さな辻を過ぎたあたりに、何かいる。
大きくはない。人の形に近いが、人ではない。一点に留まって動かない。迷っている気配がした。
*
牛車が辻を曲がったところで、実俊が足を止めた。
道の真ん中に、何かが立っていた。
背丈は子供ほど。頭が大きく、その中央に目が一つだけある。額のやや上に座り、大きく丸い。着物は薄汚れていて、手に持った小さな包みがある。草履は片方だけ泥がついていた。
一つ目小僧だった。
実俊が一歩止まり、陰陽師として術の構えを取りかけた。
我は牛車から飛び降り、実俊の前に出た。
実俊が我を見て、構えを止めた。
一つ目小僧の方は、牛車と人間と猫が目の前に現れたことで、しばらく固まっていた。大きな一つ目が、順番に全員を見た。実俊、真澄、牛車の窓から顔を出した真白、そして我。
それからまた、全員をもう一度見た。
「……あの」
一つ目小僧が口を開いた。
声は思ったより普通だった。甲高くも低くもなく、少し鼻にかかった、ただの声だ。
「東は、どちらですか」
沈黙があった。
実俊が我を見た。我は一つ目小僧を見た。
「東、です」と実俊が繰り返した。「今、東を尋ねているのですか」
「はい」
「……あなたは今、東の方から来ましたが」
一つ目小僧が自分の来た方向を振り返り、また実俊を見た。
「そうですか」
「そうです」
「では、もしかして」
一つ目小僧が包みを胸に抱き直した。
「ずっと東へ向かっているつもりで、東から来ていた、ということですか」
「おそらくそうです」
一つ目小僧の目が、ゆっくりと一度、閉じた。それから開いた。
「やはり」
やはり、という言葉に、諦めと慣れが混ざっていた。初めてではない、という響きだ。
真白が牛車から降りてきた。真澄が無言で後に続く。
「迷っているの?」
真白が問いかけた。
一つ目小僧が真白を見た。その大きな目が、少し揺れた。人間の女性にこういう調子で話しかけられると戸惑う、という反応に見えた。
「はい。北へ行こうとしているのですが、どうも上手くいかなくて」
「北へはどちらへ行かれるのですか」
「都の北の山に、知り合いがいるので。会いに行こうとしているのですが」
実俊が書付を取り出した。道順を確かめながら、現在地と北の方角を確認している。陰陽師の習性だ。状況がどんな状況でも、まず地図と方角に当たる。
「今いる場所は都の南、宇治への街道です。北へ行くなら、来た道を戻って……」
「戻っても、また同じことになる気がして」
一つ目小僧が言った。
「いつも途中から方角が分からなくなるので」
実俊が書付から顔を上げた。
「なぜ目が一つなのに、方向感覚が」
「目の数と方向感覚は関係ありません」
一つ目小僧が答えた。答え方に、言い慣れた感じがあった。何度も同じことを言われてきたらしい。
我は一つ目小僧の足元を見た。
草履の泥の付き方が、左右で違う。右足の泥が多い。右足に重心をかけながら歩く癖があると、歩きながら右へ右へと曲がっていく。東へ向かうつもりで北へ向かうつもりで、気づけば真逆の方向から来た、というのは、その癖の話かもしれない。
我は実俊の袖の端を、前脚で二度叩いた。
実俊が我を見た。我は一つ目小僧の右足を見た。それから実俊を見た。
実俊が一つ目小僧の足元を見た。少し考えた。
「……歩くとき、右に傾く癖はありませんか」
一つ目小僧が目を開いた。
「あります。昔から言われています」
「右に曲がり続けると、出発点から見て反時計回りに進むことになります。長い距離を歩くと来た方向から来たように見える」
「なるほど」
一つ目小僧が頷いた。理解した顔だった。
「では、常に少し左寄りに意識して歩けばいい、ということですか」
「理論上は、そうなります」
「試してみます」
真白が笑った。声に出した笑いだった。一つ目小僧が真白を見た。
「笑われましたか」
「ごめんなさい。でも、解決したのが嬉しくて」
「解決したかどうかは、まだ分かりません。試してみないと」
一つ目小僧が言った。真面目な口調だったが、怒っていない。むしろ、自分でも同意しているような言い方だった。
*
真澄が口を開いたのは、ここまでの一部始終を黙って見ていた後だった。
「北へ向かうなら、まずこの道を戻って都の東の大路に出ることでございます。そこから北大路へ向かえば、山の麓まで道は一本でございます」
一つ目小僧が真澄を見た。
「ありがとうございます」
「目印になるものを覚えておくとよろしゅうございます。山の方向を見ながら歩くより、特定の建物や木を目指す方が、方角のずれが出にくい」
「なるほど。試してみます」
「それと」
真澄がわずかに間を置いた。
「右足に体重をかける前に、一度止まって左足を確かめる癖をつけると、徐々に改善しますでござろう」
一つ目小僧が大きな目で真澄を見た。
「細かく教えていただいて、ありがとうございます」
真澄は特に答えなかった。すでに道の続きの方を向いていた。
実俊が我に小声で言った。
「お前が足元を見たから気づいた」
我は実俊の顔を見た。実俊が視線を逸らした。この男は礼を言うのが不得手だ。小声でしか言えない。
*
一つ目小僧は来た道を引き返し始めた。
出発前に真白が「お気をつけて」と声をかけると、一つ目小僧が振り返った。
「あなた方は宇治へ行くのですか」
「はい」
「橋のそばには、気をつけてください」
一つ目小僧が言った。
「夜に橋を渡ると、足が重くなると聞きました。特に女の人は」
真白が頷いた。
「知っています。教えてくれてありがとう」
一つ目小僧が頷き、また歩き始めた。今度は少し左寄りを意識しているのか、歩幅が控えめだった。
我はその後ろ姿を見送った。
うまく行けるかどうかは分からない。しかし知り合いのいる山へ向かう理由があって、今日もそのために歩いている。目が一つで方角が狂っても、また誰かに聞いて、また歩く。
それ以上の話でも、それ以下の話でもなかった。
実俊が牛車の前に戻りながら言った。
「……妖怪と話したのは、これで何度目になりますか」
真白が笑った。
「数えていないわ」
「私もそろそろ、数えるのをやめるべきかもしれない」
実俊の声に苦笑が混じっていた。あきらめではなく、慣れてきたことへの照れだった。
真澄が先に牛車へ向かいながら、独り言のように言った。
「慣れることと、油断することは、別でござろう」
誰に向けた言葉かは、明確ではなかった。
真白が我を抱き上げた。車に乗り込む前に、空を一度見上げた。
初夏の空は高く、白い雲が速く流れていた。南の方向、宇治のある方角に、雲の影が一つ落ちていた。
牛車が再び動き始めた。
轅が草の露をこすり、湿った音を立てながら、道の続きへ進んでいく。
【妖怪図鑑】
■一つ目小僧
【分類】独眼妖怪
【危険度】★☆☆☆☆(低)
【レア度】★★☆☆☆(普通)
【出現場所】山道、辻、人里と山の境
【特徴】
額のやや上に大きな目を一つだけ持つ、子供ほどの背丈の妖怪。全国各地に伝承があり、地域によって性質が異なる。驚かせる類の妖怪とされることもあるが、概ね無害。知性は普通の人間と変わらない。目が一つのため奥行きの把握が難しいという説があるが、当人には「目の数と能力は無関係」との主張があり、実際には状況判断や言語理解に問題はない。
今回出会った個体は、生来の右足重心の歩き癖が原因で方向感覚が狂いやすいという特異な事情を抱えていた。都の北の山に知人がいるらしく、会いに行こうとしては迷うことを繰り返しているという。
【得意技】
・遠くが見える:一つの大きな目は通常の目より広い視野を持つ。ただし立体把握はやや苦手。
・直言:思ったことを直接言う。遠回しな表現が少ない。
【弱点】
・方向感覚:右足重心の歩き癖により、長距離を歩くと意図せず反時計回りにずれる。
・思い込み:一度「この方向が正しい」と決めると修正しにくい。
【生態】
山と人里の境を主な行動域とする。単独行動が多く、特定の縄張りは持たない。目の大きさのわりに表情が読みにくいが、感情の変化は声の抑揚に出やすい。知り合いや友人を訪ねる目的で移動することがあり、その際に迷子になる場合が多い。迷った場合は素直に道を尋ねる。プライドよりも目的を優先する、実用的な性格。
【玄丸の評価】
「理由のある迷子だった。足元を見れば分かることを、誰も見ていなかっただけだ。解決策は単純で、実俊が伝えた。我が示したのは足元への視線だけだ——それが礼に値するかどうかは、実俊が小声で言った時点で決まっていた」
【遭遇時の対処法】
道を尋ねてきた場合は、方角だけでなく具体的な目印を教えること。抽象的な方角説明は一つ目小僧には伝わりにくい。相手が怖そうに見えても、こちらから話しかければ普通に返答する。驚かせるつもりはないため、急に動いたり大声を出したりしなければ問題は起きない。
【豆知識】
一つ目小僧は関東地方を中心に多くの伝承が残る妖怪だが、出没の時期として「二月八日・十二月八日」の夜が多いとされる地域がある。この日に外出すると一つ目小僧に会うという言い伝えがあり、かごや籠に目を描いて門前に下げておくと厄除けになると言われた。一つ目の妖怪が「目の多いもの」を苦手とすることから、この習慣が生まれたという説がある。今回出会った個体が夏の昼間に現れたのは、単純に道に迷っていたからであり、季節も時刻も関係がなかったようだ。




