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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第三章:冬から春へ

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第六十二話「偽りの求婚者」

男が門の前に立ったのは、梅がほころびかけた、風の穏やかな昼下がりのことだった。


白い直衣のうしに萌黄色のあこめを重ねた姿は、どこかの中流貴族の子息といった風情である。整った面立ち、落ち着いた物腰、年の頃は二十二、三といったところか。屋敷の門に使いの者を呼び、真白への取次ぎを求めてきた。


我は塀の上から、その男を眺めていた。


黒い尻尾の先が、わずかに動いた。


おかしい。


表向きはどこまでも人間に見える。だが、空気が違う。雨上がりに砂が匂いを強めるように、この男が放つ気配は、人の気配というにはすこし滑らかすぎた。毛の先で感じる微細な気の揺れ——それは人でなく、獣の匂いに近い。


我は塀の上から降りるとも、騒ぐとも、何もしなかった。まず見る。これが我の流儀だ。


取次ぎを受けた葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が、男を表の間へ通した。真澄は何も言わなかった。ただ、扉を閉める前の一瞬、黒い瞳がこちらへ向いた。


——気づいている。


我も同様だ。


男は表の間で、端正に座して待った。やがて几帳きちょう越しに真白が現れた。


「御足労いただき、恐れ入ります。本日はいかなる御用向きでしょうか」


真白の声は、いつも通り静かだった。相手が何者かを測るともなく測る、あの柔らかな間合いの取り方。


男が名乗った。

橘の某とかいう、我には聞き覚えのない名だった。先日届けた懸想文が自分のものであること、あらためて顔を見て取次ぎを願いに来たこと、言葉の端々に礼儀があり、真白を急かすような素振りは微塵もなかった。


悪意はない。それは我にもわかった。


ゆえに、なお注意が要る。


その夜、我は火の理を使った。


喉の奥で熱を集め、目の中に光を点す——陽眼ようがんの準備だ。しかし実際には発動させなかった。必要なのは光ではなく、気の読み取りだった。我は意識の一部を薄く広げ、屋敷の外周に沿って這わせる。


翌朝、その男がまた訪ねてきた。


今度は庭先に回り、門番に頼んで外から庭を覗いていた。庭に出ていた真白を一目見ようとしたのか、あるいは屋敷の内をたしかめようとしたのか。どちらにせよ、挙措に害意は見えなかった。ただ、庭の梅に向けた目が——人のそれとは微妙に色が違った。


黄みがかった、澄んだ目。


狐だ、と我は判じた。


化けばけぎつねである。かなり力のある個体とみた。正式な稲荷の使いではなく、独立して都に暮らす類いの狐だろう。人化けの腕は確かで、気の乱れは我が感じ取るほどの細かさまで抑えられている。


問題は、これをどう扱うかだった。


退けるか。

それとも——。


我は金のことわりに意識を向けた。鈴声れいせい——喉を鳴らすことで放つ音の波動は、対象の奥に積み重なった記憶と感情を読み取る。その狐の方へ向けてごく薄く展開したとき、返ってきたものは、我の予想の外にあった。


長い時間の、孤独の残滓だった。


狐は、都の北の縁の林に何年も住んでいた。人の暮らしの気配を遠くに感じながら、ずっと一人だった。ある日市で真白を見かけた——帰り道、ざるを抱えた小女房と歩いていた真白を、ただ一度。その印象が、狐の中に石ころのように留まった。


恋と呼んでいいのかも、狐自身わかっていないだろう。


我は考えた。


この狐を真白に会わせるわけにはいかない。人の姿に化けた妖が真白に近づくことは、それ自体が真白を危うくする可能性を含む。しかし——この狐は真白を傷つけようとしていない。傷つける力を持ちながら、ひたすら礼儀を守っている。


奇妙なことに、その姿は我にとって見慣れたものに思えた。


人でも妖でもない立ち位置から、言葉にできない気持ちを抱えて、相手の日常の外側に留まっている。


……まこと、見慣れた構図だ。


三日目の昼、男が再び門前に現れたとき、我は庭先から塀の外へ出た。


男の脚の横に立ち、まっすぐ見上げた。


男が、我を見た。


一瞬だけ、目の奥の色が変わった。黄みがかった光が、動物のそれに戻りかけて、すぐに人の目の形に収まる。この男——この狐は、我が何かを知っていると察した。


我は尾を一度だけ、水平に払った。


お前の事情はわかった、という意味でも、帰れという意味でもない。ただの事実として、我がここにいることを示した。


狐は、しばらく我を見ていた。


それから、音もなく頭を下げた。人の動作として、深く、きちんと。まるで見えない誰かへの礼のように。


その日を境に、男は屋敷へ来なくなった。


月が改まった頃、北の林の方角から、夜明け前にひとつ狐の鳴き声が届いた。遠く細く、風に乗ってきたそれを、真白は夢の中で聞いたかもしれない。起きている我には、はっきりと届いた。


嘆きとも、何かへの礼とも取れる声だった。


我は縁側に座り、暗い空の方を向いた。


恋文というのは、届けた者だけが重さを知っている。受け取った者には、その重さの全部は見えない。

見えなくてもいい場合が、世の中にはある。


そういうことだ、とだけ、我は判じた。


狐が来なくなった頃合いに、真白は「どなたかが来なくなったのかしら」と小さく言っていた。困ったふうでも、寂しいふうでも——ただ、少し考えているふうだった。


我は真白の傍に座り、喉を鳴らした。


それ以上のことは、この黒い毛並みには、何もできなかった。

【妖怪図鑑】


■化けばけぎつね

【分類】獣妖怪・変化系

【危険度】★★★☆☆(中)

【レア度】★★★☆☆(やや稀)

【出現場所】都の郊外、稲荷社の周辺、林の縁、市の近く


【特徴】

狐が長年の修行と霊力の蓄積によって人に化ける能力を得た存在。稲荷の使いとしての化け狐は神使であり別格だが、独立して生きる化け狐も多い。人化けの精度は個体によって大きく異なり、熟練の個体は気の乱れをほぼ消して人間社会に溶け込める。基本的に知性が高く、礼儀を理解する。悪意のある個体は人を騙すが、感情豊かな個体は人間と同様の喜怒哀楽を持つ。


【得意技】

・人化け:長期間にわたって人の姿を維持できる。香の類いを利用して獣の気配を消す個体も

・気配消し:意識して霊的な気の波を抑え、人間には感知されにくくなる

狐火きつねび:精神を集中して青白い炎を灯す。照明や威嚇に使う


【弱点】

・感情が昂ると目の色に獣性が滲む

・水に濡れると化けが解けやすくなる個体がいる

・強い霊気や金の理の共鳴に晒されると、深層の気が表面に出る


【生態】

単独行動を好む。寿命は数百年に及ぶ場合があり、長命であるぶん孤独を抱えやすい。人間への関心は個体によって様々で、純粋な好奇心から人間社会に関わる者、特定の人物に慕情を持つ者、あるいは人間から離れて林の中で静かに生きる者もいる。鳴き声は感情に連動しており、熟練の陰陽師や一部の妖怪には感情の質まで読み取られることがある。


【玄丸の評価】

「稲荷の系統ではなく、独立した個体だ。人化けの腕は確かで、並の人間には見破れまい。しかし気の色が違う——獣の孤独は、どうしても滲む。悪意はなかった。それだけは断言できる。恋というものは、妖にも同様に降りかかるらしい。まこと、理は等しく万象に働く」


【遭遇時の対処法】

悪意のない個体に対して先に手を出すことは得策でない。狐の自尊心を損なうと敵意に転じる場合がある。相手の知性を認め、対等に接するのが最善。ただし人間と誤認して深く関わると、後の混乱の種になることもあるため注意が必要。


【豆知識】

「狐の嫁入り」と呼ばれる天気雨は、化け狐が縁談のために移動するときに起こるという言い伝えがある。都の北の林には、昔から一匹の狐が棲んでいるという噂が絶えない。林の近くを通ると、夜明け前に遠い鳴き声が聞こえることがあるという。

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