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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第三章:冬から春へ

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第六十一話「恋文騒動」

ふみというものは、不思議なほど独自の気配を持つ。


我は縁側の端でまどろんでいた。冬の名残をまだ含む日射しが、黒い毛並みに染みこんでくる。厚い雲が散り散りになり始め、都の空には久しぶりに青みが戻っていた。眠気とも覚醒ともつかぬ境界で、我の鼻先に微かな香りが届いた。


香木、それも上質の沈香じんこう。奥にもう一種、梅の香とも違う、やや甘く重い花の匂いが混じっている。


目を開ける気力もなく、耳だけを動かした。

廊下を踏む足音が一つ、ためらいがちに近づいてくる。


「姫君、お届けものにございます」


女房の声だった。いくぶん含み笑いを混ぜたような、高い声。我は片目だけを開いた。


簀子すのこの向こう、御簾みすを挟んだ内側に、藤原真白(ふじわら の ましろ)が座っている。手仕事の合間に聴いていたらしく、針と糸を傍らに置いたまま顔を上げた。


「届けもの、とは」

「左様にございます。男童わらわが一人、門まで持参いたしまして」


女房が差し出したのは、薄藤色の懸想文けそうぶみだった。端正に折り畳まれた料紙りょうしに、梅の小枝が一本添えてある。


我の目は一気に覚めた。


折り方は間違いなく恋文のそれ。相手を特定し、その者への想いを言葉に乗せて届ける、これ以上ないほど平安らしい行為である。

我の尾が、かすかに揺れた。


「……誰方どなたから」

「端にただ、『霞の向こうより』とだけ記されてございました」


差出人不明、か。


ふむ。これは手の込んだことをする。匿名の懸想文とは、都の若い貴族がよく用いる手口だ。相手の反応を見てから名乗るか否かを決める、一種の賭けのような性質を持つ。


真白は文を受け取り、すぐには開かず、しばらくその重さを手の中で確かめるように持っていた。紙の質を指先でたしかめているようにも見えた。我の目には、彼女の表情が静かであることの方が気になった。驚いた様子がない。驚きを外に出さない術を心得ているのか、それとも——。


を解き、広げる。


我は縁側から首を伸ばした。毛繕いをするふりをしながら、視線だけを御簾の奥へ向ける。文字を読み取ることはさすがに難しかったが、真白の目の動きで内容の分量はわかった。それほど長くない。歌が一首、二首か。


真白は膝の上に文を置き、しばらく何も言わなかった。


そのに、我は観察を続けた。困惑でも期待でもない、思慮深い者が複雑な荷物を前にして立ち止まるときの、そういう静けさだった。


「……どうなさいますか、姫君」


女房の問いに、真白は小さく首を横に振った。


「今は、何も」


それだけだった。文は丁寧に折り直され、塗箱ぬりばこの隅へしまわれた。


我は手を止め、空を見上げた。

この件、一人で抱えるには少し重かろう。


案の定、翌朝のことだった。



真名井実俊(まない の さねとし)が訪ねてきたのは、巳の刻(午前十時頃)を少し過ぎた頃合いである。陰陽寮おんみょうりょうの朝の務めを終えてきたらしく、狩衣かりぎぬの袖口をやや急ぎ折りにしたまま、門をくぐった。


我は庭石の上で日向ぼっこをしながら、その到着を眺めていた。


実俊は我を一瞥し、特に挨拶もなく廊下へ向かおうとした。その足が踏み込もうとした瞬間、止まった。


「……何だ、その匂いは」


立ち止まり、鼻を動かしている。陰陽師見習いの鼻は、いくらか霊気に敏感ではあるが、今嗅いでいるのはそれではない。我にも残り香でわかる、昨日の沈香と花の香りの混じり合いだ。塗箱の外にまで滲み出るほど、紙に練り込まれていたのだろう。


実俊の顎がわずかに上がった。

目の端が微妙に細くなった。


これは観察に値する変化である。


彼は庭に面した板縁に腰を落とし、いつもより丁寧な声で中へ呼びかけた。


「真白殿、少々よろしいでしょうか」


真白が現れ、二人の会話が始まった。最初のうちは陰陽寮の話、節分の鬼が残していった問題の後処理、実俊が持参した梅の練り物の話。


我は石の上で丸まり、聞くともなく聞いていた。


問題は、その練り物を差し出す実俊の手が微妙に空振りしたことだった。視線が真白の顔より文箱の方へ先に向かったせいで、差し出す動作のタイミングを誤ったのである。


「……あれは」


実俊の声は、普段の理詰め調とは違う色になった。

少し低く、抑えようとして抑えきれていない。


「この間から、ありますね。あの塗箱は」


真白がどう応じたかは、声が低かったため我には完全には聞こえなかった。「さほど大したことでは」という意味合いの言葉が含まれていたことは、語気の柔らかさからうかがえた。


実俊は黙った。

その無言は長かった。


我は目を閉じた。


なるほど。この男は陰陽のことわりに長けていても、感情の整理においては凡庸な人間と何も変わらぬ。理詰めで物事を考えすぎるぶん、かえって余計な鎖が絡まるのかもしれない。


やがて実俊はまた話し始めた。練り物の話に戻り、春の行事の話になり、真白も穏やかに相槌を打った。表面だけを見れば、何事もない訪問だ。


しかし帰り際、実俊は立ち上がりながら、どこか間の悪い角度で庭を眺めた。梅の木が、先ごろから白い花をちらちらとほころばせている。その花に向けた実俊の横顔は、陰陽師見習いというよりも、ただの若い男の顔をしていた。


我は石の上で爪を立てた。

冷たさが指先に伝わる。


文というものは、不思議なほど多くの波紋を呼ぶ。一枚の薄い紙が、これほどの乱れを周囲にもたらすとは。

送り主は知るまい。あるいは、それを狙っているか。


いずれにせよ、差出人が「霞の向こう」に隠れているうちは、何もわからぬ。


我は一つ、毛繕いをした。

爪先から順に、ていねいに。


真白は今頃、あの小箱の中を、もう一度眺めているだろうか。

実俊は帰りの道で、何を考えながら歩いているだろうか。


日射しが少し傾いた。庭の梅の影が、石畳の上に細く伸びる。


匂いだけがまだ、春めいた空気の中に漂っていた。

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