第五十七話「猫又の先輩」
梅の木の枝に、何かがいた。
正月の賑わいが去って、屋敷の周りが普段の静けさに戻り始めた頃のことだ。我は朝の散策で屋敷の外へ出て、道沿いの古い梅の木の前を通りかかった。
気配があった。
妖怪のものだが、敵意はない。それより——古い、という感じがした。年数が重なった存在だけが持つ、落ち着いた密度のある気配だ。我は立ち止まって上を見た。
枝の上に猫がいた。
白と灰の毛並みが混ざった、年取った猫。だが、普通の猫ではない。尾を見れば分かる。根元から二股に分かれて、それぞれが長く垂れていた。
猫又だ。
「珍しいものが歩いておる」
声が降ってきた。しわがれているが、静かな声だった。女の声だ。
「黒猫の形をしているが、中身は猫ではなかろう」
我は正面から見上げた。猫又の目が細くなった。ただの挨拶ではなく、見定めている目だ。
「そなたも、同じく」
我がそう返すつもりで視線を送ると、猫又が小さく笑った。
「猫の中身が猫でないのは、私も似たようなものかもしれぬな」
*
後から考えれば、この対話がどうして成立したのか、少し不思議な気がする。
我は猫の体を持ち、声は出ない。仕草と気配でしか意を示せない——それが常の制約だ。だが猫又は、我の思念を読んでいたようだった。
気を読む、というのがこの世界にある技法だと我は知っている。陰陽師が使うそれより、猫又のものは粗削りだが深い。百三十年かけて研ぎ澄まされた、気の揺らぎを感じ取る力だ。
我の魔力は封じられているとはいえ、完全ではない。強く思念した言葉は、微かな気の乱れとして体の外へ滲む。人間には届かない、ほんの薄い揺らぎだ。だがこの猫又には、それで十分だったらしい。
彼女が我の言葉を「読んだ」というより——我の問いかけや反発が、気配として伝わった、と言うべきかもしれない。言葉の形ではなく、意志の形で。
そういうことが起きていた、と我はのちに整理した。その時はただ、会話が成り立っていることを受け入れていた。
*
猫又が枝から飛び下りて、我の横に並んだ。
背は我より一回り大きく、動きはゆっくりだが確実だ。年を経て、力が内側に凝縮されている感じがする。我の魔力をどこまで読んでいるか、まだ分からなかった。
「何年になるか」と猫又が問うた。
何が、と我は内心で問い返した。
「猫として生きているのが」
我は少し考えた。この世界に来てから、ちょうど一年と少しが経つ。
一年余りだ、と心が答えた。
「ほう、若いな」と猫又が言った。「私は百三十年になる。都が今とは違う形をしていた頃から、ここにおる」
百三十年。前の世界の尺度で言えば、取るに足らない年月だ。だが猫の体で生きる時間として言えば——それは膨大だ。どれだけのものを見てきたか、計算する必要もなかった。
「お前は、猫として生まれたことをどう思っている」
唐突な問いだった。
器に過ぎない、と我は思った。仮の姿だ。我の本質は別のところにある。
猫又は何も言わなかった。その沈黙が何かを含んでいる気がして、我は続けた——内心で。
魔導の力も、ここでは大部分が封じられている。猫の肉体は制約だ。本来の我ではない。
「そうか」と猫又が言った。「では、この体で何かを感じたことはあるか」
*
問いの意味を、我はすぐに把握しようとした。
感じたこと。この体で感じたこと——雪の冷たさは足の裏に残っている。真白に抱き上げられた時の温もりは、前の世界では知らなかった種類のものだ。梅の匂いは鼻腔の記憶にある。餅の熱気が予想より熱かったことも。昨日より今日の空気の変化を、この鼻は正確に読む。
それらは全て、猫の体があったから届いたものだ。
……感じたことはある、と我は認めた。
「それは、以前の世界で知っていたことか」
いや、と心が返した。
「では、この体がなければ知らなかったことだ」
猫又の言い方は穏やかだったが、論理は手を抜いていなかった。我は黙った。反論の糸口を探したが、見当たらなかった。
「器に過ぎないと言うが」と猫又が続けた。「器が変われば、入るものが変わる。入るものが変われば、お前が変わる。お前が変わったなら——それはもう、器がお前になっておる」
我は梅の幹を見た。蕾がいくつか膨らみかけていた。
「猫として生きることは、器に入ることではない。器が、お前になることだ」
*
反論の言葉を、我は三つほど用意した。
一つ目——器が我になるのではなく、我が器に適応しているだけだ。だが言おうとして止まった。適応と変化の違いを今ここで論じることに意味があるか、怪しかった。
二つ目——前の世界の我の方が本質に近い。これも口に出しかけて引っ込めた。本質とは何だ、という問いに我は明確な答えを持っていない。魔導王であったことが本質なのか、それとも——
三つ目は、作りかけて崩れた。
猫又がその様子を見ていた。急かさなかった。枝一本分ほど離れた位置で、ただ待っていた。
……難しい問いだ、と我は思った。それが気配として漏れたらしい。
「難しい問いほど、大事な問いだ」と猫又が続けた。「答えが出なくてよい。ただ、持ち続けることだ。猫として生きている間に、何かが分かるかもしれぬし、分からぬかもしれぬ。それでいい」
いつ分かったのか、そなたは——と我は問いたかった。その揺らぎも届いたらしい。
「まだ分からぬよ」
猫又が答えた。
百三十年生きてまだ分からぬ、と言った。嘘をついている様子はなかった。
*
少し後、猫又は「寒いな」と言って立ち上がった。
もう行くのか、という気配が我から漏れたのだろう。
「陽が高くなると、眠たくなる」と猫又が返した。「それも猫の理というものだ。せっかくだからよく眠ることにする」
それだけか、と我は問い返したかった。
「それだけだ」と猫又は言った。「大事なことは、だいたいそれだけだ。よく食べ、よく眠り、誰かの傍に座っている。猫として生きるということは、そういうことだと思っておる。——あくまで、私の考えだが」
踵を返して、猫又は道の奥へ歩き出した。二股の尾が左右にゆっくり揺れるのが見えた。角を曲がって、消えた。
*
梅の木の下に、一人で残った。
器が、お前になる。
その言葉を、我は腹の中で繰り返した。反論の形を探すのはやめた。代わりに——この一年余りで起きたことを、一つずつ手繰ってみた。
雪に足跡をつけた朝。真白に抱き上げられた夜。実俊が膝を折って我を見た時の表情。橋の上で、口無し女の怨霊が言葉を取り戻す瞬間。
全てこの体で経験した。理として知っていたことではなく、体として経験したことだ。
我は、それらを持っている。
「玄丸」
真白の声が遠くから聞こえた。屋敷の方向だ。
我は体を起こした。考える前に体が動いた——真白の声がした方へ。
それが理の選択かどうかは分からない。だがこの体が動いたことは確かで、体が動いたのなら、それが今の我の答えだ、と——そう考えながら、我は屋敷へ向かって歩いた。
梅の蕾が、一つ開いていた。
【妖怪図鑑】
■猫又
【分類】変化妖怪(獣妖・上位種)
【危険度】★★★☆☆(能力は高いが性質による)
【レア度】★★★★☆(長命のため数は少ない)
【出現場所】人里近くの古木、寺社の境内、長く住まれた家屋の軒
【特徴】
年を経た猫が妖力を帯び、尾が二股に分かれた姿となった存在。人の言葉を話し、長い年月の間に積み重ねた経験と知恵を持つ。若い猫又は気性が荒い場合もあるが、百年を超えるものは概ね落ち着いており、人を脅かすことは少ない。変化の術を持ち、人の姿を取ることもできる。猫又の気配は古くて重く、並みの妖怪とは密度が違う。
【得意技】
・変化:人や他の動物の姿に変わることができる
・気読み:周囲の存在の気配・性質を正確に読む
・長命:通常の猫の数十倍の寿命を持ち、その間に積んだ経験が力の源となる
【弱点】
・特定の弱点はないが、年老いた猫又は長時間の活動を好まない
・過去への執着が強く、かつてを懐かしむあまり動けなくなることがある
【生態】
単独で行動することが多く、群れを作らない。同種の猫又と出会っても縄張り争いよりも情報交換を好む。人の言葉を話せるが、積極的に人間と交わろうとはしない。ただし、興味を持った相手には自ら声をかけることがある。長命ゆえに多くの「別れ」を経験しており、物事の見方が独特に深い。
【玄丸の評価】
「百三十年を経た猫又だ。魔力の質が違う——力の量ではなく、密度というべきか。問いの立て方が鋭い。答えを押し付けず、こちらに考えさせる。師の資質を持つ存在とは、ああいうものを言うのかもしれない」
【遭遇時の対処法】
敵意がなければそのまま接すればよい。老いた猫又は基本的に争いを好まない。ただし若い猫又は感情が不安定な場合があり、不用意に近づくのは避けること。猫又が語りかけてきた場合は、聞く価値がある。長命の存在の言葉には、短命な者には見えないものが含まれていることが多い。
【豆知識】
猫が化けるまでには、「年月」と「人への愛着あるいは怨念」が必要とも言われる。善意の猫又は人に馴染んで長生きした猫が多く、怨念を持つ猫又は捨てられたり虐げられたりした末に生まれることが多い。同じ猫又でも、その来歴によって性質はまるで異なる。今回出会った猫又は前者の典型だった。




