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【本編完結】平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第三章:冬から春へ

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第五十五話「新年の祝い」

鐘の音で目が覚めた。


遠く、どこかの寺から低く長い音が来て、空気の中に溶けていった。また来た。また来た。それが続くうちに、屋敷の中が少しずつ動き出した。廊下を歩く足音、水を使う音、誰かが小さな声で何かを言っている。


年が明けた。


我は丸まったまま、その音の変化を聞いていた。鐘が百八つ鳴り終わる前に眠りに落ちたらしく、気づいたら夜が白んでいた。真白の部屋の紙障子が、外の光をうっすら通している。


やがて障子が開いた。


「玄丸、明けましたよ」


真白は正装に近い格好だった。いつもより丁寧に衣を整え、髪も改まって結い上げている。顔の表情は普段と変わらないが、全体から「今日は特別な日」という意識が漂っていた。


我は身を起こして、あくびをした。


「……おめでとうは言えないのよね」と真白が笑った。「でも、分かってくれているでしょう」


分かっている。


     *


屋敷では、朝のうちに主から使用人たちへ年始の挨拶が行われた。


真白が順番に声をかけ、使用人たちが頭を下げる。長く仕えている老いた女房にょうぼうが、目を赤くして「また良い年を迎えられました」と言った。真白がその手を両手で包んだ。


我は廊下の端から見ていた。


これが続くということは、去年も一昨年も同じことがあったはずだ。我がいなかっただけで。使用人たちの中に、玄丸が来る前から変わらず仕えている者がいる。その人たちにとって、正月の挨拶はもう何度も繰り返してきた場面だ。


繰り返されることで、積み重なるものがある。


そういうことを、この屋敷は知っている。


    *


昼前、真白が「初詣に行きましょう」と言い、我を抱き上げた。


稲荷いなりの社が近くにある。真澄ますみが供として付いてきた。道は朝より人が増えていて、正月の挨拶を交わしながら歩く人々で賑やかだった。


真白に抱かれたまま外を歩くのは、我にとって珍しいことではない。だが正月の道は普段より人の顔が明るく、歩く速さが違う。気が張っている、というより——解けている。年が改まったことで、人々の中の何かがゆるんでいる。そういう空気だった。


「黒猫は縁起が良いと言う人と、悪いと言う人がいるのよね」と真白が歩きながら言った。「どちらだと思う?」


我には答える手段がない。それを承知で問いかけてくる。これも真白の癖だ。


「私は良いと思っているの。だって、あなたが来てから悪いことは何もなかったから」


そうとも言えないが、反論する方法もない。


     *


社は小さかった。


石畳の参道の両側に松が立ち、赤い鳥居とりいが二つ連なっている。参拝客が列を作っていて、真白もその列に並んだ。真澄が少し離れた位置で立って待つ。


我は真白の腕の中から、社の様子を見た。


参拝する人々の顔は、皆それぞれだった。何か切実なものを抱えて来た顔。とりあえず来た、という軽い顔。子供の手を引いてきた親の顔。老人が杖を突きながらゆっくり近づいてくる。


人間が神に向かう時の顔は、普段の顔と少し違う。余計なものを一度脱いだような——正直になった顔、とでも言うべきか。


真白の番が来た。


二礼二拍手。手を合わせた時、真白は目を閉じた。


何を祈っているか、我には見えない。口元が少し動いたが、声は出さなかった。祈りは心の中で完結している。


ただ、その横顔を我は見ていた。


目を閉じた真白の表情に、力みがなかった。何かを強く求めているというより——差し出している、という形だった。言葉を手のひらに乗せて、そっと前に向けているような。


真白が目を開けた。


少しだけ、表情が柔らかくなっていた。祈りを終えた後の顔だ。


     *


帰り道、真白が甘酒あまざけを買った。


参道の端に出ている店で、湯気の立つ椀を受け取って、歩きながら飲んだ。我の鼻先に近づけてきたが、猫には甘酒はよくない。顔をそむけると、真白が「そうよね」と笑った。


真澄が少し離れた位置を歩きながら、前方の道を確認している。その背中を見ながら、我は今日一日のことを整理した。


穏やかな正月だった。


屋敷の挨拶、参道の人々、真白の祈る横顔。どれも、何か大きなことが起きたわけではない。それでいて、一つ一つが確かにあった時間だ。


くだんの言葉を、我は腹の底に持ち続けている。春の先に影がある。それは変わらない事実として、そこにある。


だが今日この日、真白が社で手を合わせた。使用人の老女房が目を赤くした。真澄が黙って供をした。


これらもまた、変わらない事実だ。


影が来る前に、光がある。守るべきものが、ここにある。


それだけ分かれば十分だ、と——我は思った。思ったが、正確には「思う」という言葉では追いつかない何かだった。腹の底の件の言葉の隣に、今日のことを置いた。そうすると、少し重さが変わった。


     *


夕刻、屋敷に戻った真白は縁側に座って、実俊さねとしから届いた年始の文を読んだ。


読み終えて、少し微笑んだ。


返事を書くつもりらしく、すずりを引き寄せた。我は真白の隣に座って、筆を持つ手を見ていた。


正月の一日が、静かに終わろうとしていた。

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