第五十四話「件の予言」
年が変わる前の夕暮れは、妙に遠くまで見通せる。
空気が乾いているせいか、あるいは人が早めに家へ引き上げるせいか——いつもより道が広く感じられた。屋敷の周囲を一回りしてから、我は近くの辻の端に座った。西の空が、赤から鈍い橙へと色を変えていく。
気配があったのは、その時だ。
獣のものだが、知っている種類ではない。大きく、重い。だが敵意はない。それより、何か——急いでいる、という感じがした。急いでいるのに、足が重くしか動かない、そういう気配だった。
辻の向こうから、それは現れた。
牛ほどの大きさで、確かに牛の体をしていた。だが頭が違った。人の顔だった。老いた男の顔で、目が深く落ち窪み、皮膚が薄く張り詰めていた。足取りは重く、歩くたびに体が揺れた。
我は動かなかった。逃げる必要はなかった。これは——件だ。
*
件については、この世界に来てから収集した妖怪の知識の中に含まれていた。
人の顔を持つ牛の姿をした予言獣。生まれてより数日のうちに言葉を発し、その後は消える。告げた言葉は必ず現実になる。人の声で語るが、その言葉が届くかどうかは、聞く者の側によるらしい。
つまり——今、真白がここにいたとしても、おそらく何も聞こえなかっただろう。
件は我の前で足を止めた。二つの目が、我をまっすぐに見た。
「猫よ」
声は低く、乾いていた。人の声だが、人が出す音ではなかった。空気が直接振動するような、そういう響きだ。
「お前には届く。聞け」
我は尾を巻いて、正面から見返した。
*
件が語ったのは、長い話ではなかった。
春の先に影がある。暖かくなるにつれて、それは濃くなる。この地の人間には見えない。妖のほとんども気づかない。だが確かに、何かが境を薄くしている。水が器を侵すように、少しずつ、少しずつ。
それだけだった。
止める方法は言わなかった。誰がやっているかも言わなかった。ただ「ある」と告げた。
「それだけか」
我は内心で問うたが、声には出なかった。件はもう動き始めていた。来た方向とは別の道へ、ゆっくりと、しかし確実に。
「待て」
呼び止めたかったが、止める言葉を我は持っていなかった。件は振り返らなかった。橙色の光の中に入り、その輪郭が薄れ、やがて辻の向こうに消えた。
夕暮れだけが残った。
*
しばらく、我はその場に座っていた。
件の予言が正しいかどうか——それを疑う気にはなれなかった。前の世界でも、こういう類いの警告がいくつかあった。世界の理が乱れる前、様々な存在がその兆しを感じ取り、そして誰も聞かなかった。
我も聞かなかった。
聞いたところで、あの時の我には止める方法があったかもしれない。だが実際には止めなかった。それが一つの答えだ。
今回は違う。
この世界には、今のところ兆しがある程度で、まだ何も起きていない。春の先に影がある——春はまだ来ていない。冬が終わり、梅が咲き、草が萌えるまで、いくらか時がある。
その間に、我が知っておくべきことは何か。備えられることは何か。
考えながら立ち上がった時、西の空はすでに暗くなっていた。最後の赤みが、遠い山の稜線に細く残っているだけだった。
*
屋敷に戻ると、真白が廊下に立っていた。
「遅かったわね。寒かったでしょう」
我の背に手を当てて、体温を確かめるようにした。冷えている、と判断したのか、そのまま部屋に連れて行って火鉢の前に下ろした。
真白には何も言えない。
言葉がないという意味でなく——今ここで告げても、真白が対処できることは何もない。予言獣の言葉を伝える手段も持っていない。それより、今夜は温かい部屋にいて、年の明けを穏やかに迎えた方がいい。
真白が火鉢の炭を整えながら、何気ない口調で言った。
「今年もあとわずかね。来年も、よろしくね、玄丸」
我は火鉢の前で前足を揃えた。
来年のことを、真白はまだ軽やかに口にできる。それは今夜の我には、少しだけ重く聞こえた。軽やかなまま届けておきたい言葉が、耳の奥で止まった。
来年も、当然あると思っている。
それを守る側が何かを知っていても——知らない側の軽やかさは、そのままでいい。
我は火鉢の温もりに目を細めた。件の言葉は、腹の底に収めた。春になるまで、ここに置いておく。
*
年が変わった。
真白が「おめでとう」と言い、使用人たちが忙しそうにした。真澄が朝早くから庭の確認をした。実俊からは年始の文が届いた。
我は縁側から庭を見た。雪が薄く残っていた。梅の蕾は、まだ固い。
春は、もう少し先だ。
【妖怪図鑑】
■件
【分類】予言獣(霊獣系)
【危険度】★☆☆☆☆(無害)
【レア度】★★★★★(極めて稀)
【出現場所】辻、人里の境、年の変わり目の夕暮れ
【特徴】
人の顔を持つ牛の姿をした予言獣。生まれてよりほどなく言葉を発し、その後この世から消える。告げる言葉は必ず現実になるとされ、吉凶どちらの予言もする。声は人のものだが、その言葉が「届く」かどうかは聞く者の側の性質による。妖気を感じ取れない者には存在そのものが見えない場合が多く、人間に目撃された記録は極めて少ない。悪意はなく、ただ知っていることを告げる。それが件の使命であり、全てである。
【得意技】
・予言:来るべき事象を言葉で告げる。詳細は語らず、概要のみを示す
・不可視:霊気に鈍い者の目には映らない
・無音の移動:存在の気配を消して近づくことができる
【弱点】
・特になし。ただし件自身が何かを変える力は持たない
・予言の内容を選ぶことができない(知っていることを告げるのみ)
【生態】
年の変わり目や季節の境に現れやすい。一体ごとに異なる予言を持ち、同じ件が二度現れることはない。告げ終えると消える。件を探して予言を聞こうとする者もいるが、件の方から現れない限り出会うことはできない。件が現れた時、その場に「聞くべき者」がいたということを意味する。
【玄丸の評価】
「予言の内容に誤りはないと判断した。問題は内容の曖昧さではなく、対処の手がかりが何も示されないことだ。ただ来ると告げる。それが件の性質であり、限界でもある。——だが、知らなかった場合より、知っていた場合の方が備えは立てやすい」
【遭遇時の対処法】
件が現れた場合、静かに聞くこと。遮ると予言が途切れる場合がある。予言の内容を書き留めておくことを推奨するが、件の言葉が届かない者には記録の仕様もない。件の言葉を「信じるかどうか」より「どう活かすか」を先に考えることが肝要。
【豆知識】
「件の如し(くだんのごとし)」という言い回しは、件の予言が必ず的中することに由来するとも言われる。確かなことを強調する際に使う表現だが、元来は予言獣への畏敬を含んでいた。件に出会った者は、その予言を他者に語っても信じてもらえないことが多い。予言が現実になって初めて、あの時の言葉だったと分かる——そういう性質のものらしい。




