第五十三話「年の瀬」
朝から屋敷が騒がしかった。
人が動く。箒を引きずる音、何か重いものを運ぶ足音、厨から響く包丁の音。普段より声が多く、動きも大きい。我は縁側の隅に陣取り、その賑やかさを一通り観察してから判断した。
煤払い(すすはらい)の日だ。
年の瀬が来るたびに屋敷中の煤を払い、新しい年を迎える準備をする——そういう習わしだと、昨年も見た。二度目ともなれば先読みができる。今日は長い竹竿が何本も出てきて、先に束ねた草をつけて、天井や梁をばたばたと叩いて回る。
それが動く。
我は縁側から立ち上がった。
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問題は、竹竿が思ったより速く動くことだった。
使用人の一人が廊下を歩きながら竿を振ると、先端の草束が弧を描いて床を掃く。その動きが床の上を走る。我は三歩追いかけて止まった。追いかけた。止まった。
使用人が足を止めて我を見下ろした。
「黒猫様、邪魔でございます」
我は邪魔をしているわけではない。観察していただけだ。
視線を逸らして毛繕いを始めたが、竿がまた動いた。
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真白が廊下に出てきたのは、我が三人目の使用人の前足を止めてから少し後だった。
「玄丸」と真白が呼んだ。苦笑いが混じっている。「お部屋にいなさい。今日は皆、忙しいの」
我は部屋に戻ることを検討した。だが廊下の向こうでまた竿が動いた。
「……聞いていないわね」と真白が言った。半ば諦めた口調だった。
我は廊下の端に移動して、通路を塞がない位置に座った。これで邪魔ではない。観察に適した場所だ。真白が小さく笑った。
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昼前になると、真澄が庭の松に注連縄を巻き始めた。
縄を手際よく木に沿わせ、適切な位置で結ぶ。動作に無駄がない。我は縁側から眺めながら、真澄がこういう作業をする姿を初めて見たことに気づいた。普段は屋敷の管理や取り次ぎをしているが、こういう年末の準備にも加わるらしい。
真澄が手を止めて、縄の具合を確かめた。少し角度を変えて、また固定する。
どの仕事にも同じ精度を出す人間だ、と我は思った。いや、人間ではないが。
庭の松が、注連縄を巻かれてわずかに背を正したような形になった。
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夕刻、真白が文机の前に座って筆を執った。
年の終わりに書き送る文らしい。この一年に世話になった人への挨拶を認める、とかつて真白が話していた。我はその傍らで丸くなり、筆が動くのを見ていた。
真白の筆先は迷わない。言葉を選ぶ時間が短い。書きたいことが先にあって、それを手が追う形だ。
書き終えた文を乾かしながら、真白が独り言のように言った。
「今年は色々あったわね」
我は耳を動かした。
「玄丸が来てから、もうすぐ一年になるのかしら。あの日のことは覚えているの? 雨が降っていて、道の端に小さな黒い塊が——」
知っている。覚えている。
だが返事はできない。我は尾を一度だけ揺らした。
「あなたが来てから、屋敷が変わった気がする」と真白が言った。文を畳みながら。「賑やかになったというか、何かが動いている感じ。うまく言えないけれど」
我にはうまく言える。真白が言霊感応の素質を持つがゆえに、我の魔力の残滓が屋敷の気の流れを微妙に変えている。それが真白には「動いている感じ」として届く。理として説明すれば三行で済む話だ。
しかしその三行は、今ここで必要ではない。
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夜、屋敷が静かになった。
使用人たちは疲れて早めに眠った。煤払いの竿は片付けられ、廊下には煤を払った跡が薄く残っている。庭の松の注連縄が、冬の夜気の中でわずかに光を反射していた。
我は縁側に出て、空を見た。
星が多い。冬の空は星が多い——これは前の世界でも変わらないことだ。ただし星の位置は少し違う。この世界の夜空には、前の世界で観測した星座のうちいくつかが欠けていて、見慣れない光点がいくつか余分にある。
最初の頃は、その差異が我を不安にさせた。
今は、そうではない。
この世界の星を見ている。それだけだ。
*
去年の年の瀬に、我はこの屋敷で初めての冬を迎えた。
何もかもが初めてで、猫という器に収まりきれない自分を持て余していた。真白の声は聞こえていたが、その意味の全てを受け取れていたかどうか怪しい。食うことと眠ることと、この世界の理を読むことで手一杯だった。
今は、竹竿の先端が動く方向を先読みしながら、待ち構える余裕がある。
これを「慣れた」と呼ぶのか「馴染んだ」と呼ぶのかは分からない。前の世界では、何かに馴染むという経験をほとんどしなかった。世界の方が我に従っていたから。
縁側の奥に真白の気配がした。灯りが消えて、眠ったらしい。
屋敷が、深く息をしている。
一年が終わろうとしている。次の年も、また煤払いが来る。注連縄が巻かれる。真白が文を書く。使用人たちが走り回る。我が竹竿の先を追って、邪魔だと言われる。
同じことが繰り返される。
それが、ひどく——まともなことに、思えた。




