第五十一話「冬の訪れ」
夜のうちに、空気が変わった。
目が覚めた時、まず鼻先に触れるものが違った。冷たいのではなく、乾いた冷気とでも言うべき何か——湿気が抜けて、代わりに澄んだ重さが満ちている。前の世界では計測によって気象の変化を読んだが、今は鼻が先に知らせてくる。猫の体とはつくづく優秀な観測装置だ。
我は真白の部屋の隅から縁側の方を見た。
障子の向こうが、白かった。
*
障子を押し開けて外へ出た瞬間、前足の裏に鋭い冷たさが走った。
庭の土は、すでに白く覆われていた。昨夜の雪だろう。音もなく降り積もり、梅の木の枝に、薄縁の敷物のように載っている。まだ降り続いている。細かい雪粒が、音もなく空から落ちてくる。
我は一歩踏み出して、また止まった。
足の裏が、冷たい。
正確に言えば、冷たいという感覚だけではなかった。柔らかく、わずかに沈む——土の上を歩く感触とも、石の上を歩く感触とも違う。踏むたびに形が変わり、体温が移って少しずつ溶ける。そして溶けた部分が、毛の間に入り込んでくる。
不快とも言えない。不快とも言えない、だが確かに異質な感触だった。
前の世界にも雪はあった。アルメラ帝国の北方は冬に深く雪が積もり、我はその気象データを参照しながら魔力の波動域を調整していた。雪そのものに触れたことは、一度もなかった。
今、足の裏の下にある。
*
しばらく庭の真ん中に立ち、雪の上を歩いてみた。
四歩ほど進んで、止まる。足の跡が残る。黒い足跡が四つ、白い庭に点々と並ぶ。振り返って眺めると、まこと間抜けな模様だ。魔導王の歩跡がこれとは、なんとも情けない。
しかし情けないながらも、足跡というものは面白かった。
押しつけた形がそのまま残る。消えない。踏んだという事実が、その場に刻まれている。これは水の上でも土の上でも起きないことだ。雪の上だけに生じる現象だと気づいた時、我は尻尾をわずかに動かした——面白いと思う時の、我の習性らしい。
次の一歩を踏み出したところで、足が滑った。
凍った場所があったらしい。前足が外に開き、腹が雪面すれすれまで落ちた。慌てて体勢を立て直したが、毛の腹側に雪がついた。芯まで冷える。腹の毛に雪が染みこんでくる感触は、予想以上に不快だった。
魔導王として千年に渡り世界を治めた者が、雪に足を取られるとは。
誰にも見られていないことを確認してから、毛繕いを始めた。
*
「まあ」
背後から声がした。
振り返ると、縁側に真白が立っていた。いつから見ていたのか分からないが、その顔には隠しきれない笑みがあった。
我は毛繕いの手を止め、真白をまっすぐ見た。見られていた。
「雪、初めてなの?」
返事はできない。だが問いの意味は分かった。我は視線を庭の方に戻し、知らぬ顔を決め込んだ。
真白が縁側から庭に下りた。薄い沓を履いている。雪の上を歩いて、我の傍らに来た。真白の足跡は我のものより大きく、深く沈んでいた。
「冷たいでしょう」と真白が言った。我の足跡をのぞき込みながら。「でも、きれいね。小さい足跡がたくさん」
我の足跡が「きれい」かどうかは議論の余地があったが、真白がそう言うなら、そういうことにしておく。
*
真白は庭の中を少し歩き回った。
雪の庭に立って、上を向いた。細かい雪粒が顔に当たる。真白は目を細めて、それを受けていた。冷たいはずなのに、嫌そうではなかった。むしろ、どこか懐かしそうな顔をしていた。
「子供の頃は」と真白がぽつりと言った。「雪が降ると、庭に出てずっと雪を集めていたの。雪でお団子を作って、並べて」
我は真白の顔を見上げながら、その光景を想像した。幼い真白が庭で雪を丸める様子は、想像の中でも十分に愚かしくかわいらしかった。
「寒くて、母に叱られて、でもやめられなくて」真白が笑った。「雪って、なくなるのに一生懸命集めてしまうのよね。変でしょう」
変ではない。
なくなるからこそ集めたくなる——それは、理として至極まっとうだ。消えるものが持つ引力を、我は前の世界では数値として処理していた。今、雪の庭に立って、それが数値ではなく感覚として分かった気がした。
*
真白が、空を向いたまましばらく黙っていた。
それから、口の中で何かを呟いた。声は小さかったが、音は澄んでいた。
「降り積む白に 足跡ひとつ 消えぬうちに 誰かに見せたい」
即興の歌だった。
声が空気に溶けた瞬間、我の毛がわずかに逆立った。魔力ではない。だが、理に似た何かが揺れた——真白の声が空気を動かし、雪の結晶が一瞬だけ違う落ち方をした気がした。
我は空を見上げた。雪は変わらず降っていた。
気のせいかもしれない。あるいは、気のせいではないかもしれない。この女の言葉は時々、理の境目に触れることがある。意図せず、ごく自然に。
我は再び足元の雪を見た。
我の足跡は、まだそこにあった。降り続ける雪に、少しずつ埋もれながら。
*
「中に入りましょう」と真白が言った。「玄丸も冷えたでしょう」
我は自分の足先を見た。冷たかった。確かに冷たかったが、まだ外にいてもよかった。
だが真白が屈んで、我を抱き上げた。温かい腕だった。濡れた毛に関わらず、抱え込むように持ち上げた。我の冷えた体が、真白の体温に包まれた。
「冷たい」と真白が小さく言った。「足が氷みたい」
氷ではない。雪を踏んでいただけだ。多少誇張がある。
だが、温かかった。
屋敷の中に入ると、囲炉裏の煙の匂いがした。座敷童子が厨の方でがたごとと何か動かしていた。縁側の外では、雪がまだ降り続けていた。
真白が我を膝に乗せ、縁側から庭を眺めた。
我の足跡は、もうほとんど見えなかった。新しい雪に覆われて、庭はまた一様に白くなっていた。
足跡を消したのは、我ではない。ただ雪が降り続けただけだ。
消えても、踏んだことは変わらない。感触は足の裏に残っている。それで十分だ、と——どういうわけか——そういう気がした。




