第四十九話「問い詰め」
庭の梅が、二輪だけ開いていた。
昨日まで固く閉じていた蕾が、夜のうちに開いたらしい。白い花びらが、朝の光を受けてそっと広がっている。まだ香りは薄い。あと数日すれば、庭全体に広がるだろう。
我は縁側から、その二輪を眺めた。
実俊が今日来る気配があった。
気配というより確信だ。あの男は、昨日「整理したいことがある」と言い残して帰った。整理がついたら、また来る。それがあの男の習性だ。一度問いを立てたら、答えが出るまで諦めない。それは、陰陽師として誠実な性格の表れだと、我には分かっていた。
喜ばしいことかどうかは、別として。
*
実俊が来たのは、巳の刻を少し過ぎた頃だった。
真白は奥の間で手習いをしていた。真澄は屋敷の東側で何かを確認していた。我は縁側にいた。
実俊は門を入ってから、真白を呼ぶ前に我を見た。それだけで、今日の用向きが真白への挨拶ではないと分かった。我を目的として来た——そういう目だった。
「少しいいですか」と実俊が我に向かって言った。
我はその場から動かなかった。
実俊が縁側の前に立った。懐から文書を出さなかった。今日は記録を持ってきていない。素手で話す気らしい。
「先日の話の続きです」実俊の声は、落ち着いていた。「あなたが何者か、を」
*
実俊の言葉は、最初から順を追っていた。
屋敷に来て以来の出来事を、時系列に沿って並べた。式神を封じた夜。市での盗人の件。鎮魂の夜の水の気の動き。それだけではなく——実俊は我が思っていたより、細かく観察していた。
真白が不安を感じている夜、我が縁側に陣取る場所と向きが変わること。
来客の気配を、人より先に察して体の向きを変えること。
陰陽師が使う札の気を、避けるように動くこと。
ひとつひとつは小さい。猫の習性の範囲内で説明できるものも、あるにはある。だが積み重なると、別の形に見えてくる。実俊はそれを、淡々と並べた。感情を乗せずに。
我は聞きながら、内心で認めていた。
正しい。観察は正確だ。実俊は間違っていない。
だから余計に、答えられなかった。
「あなたが、ただの猫ではないことは確かです」実俊が我を見据えた。「では何者か。妖か、術者の使い魔か、あるいは——」
「実俊」
真白の声がした。
*
いつの間に来ていたのか、真白が縁側の引き戸のところに立っていた。
手習いの筆を、まだ持っていた。墨が乾いていない。呼ばれたのではなく、声が聞こえて来た——そういう立ち方だった。
「聞こえていたの」真白の声が、縁側の向こうから届いた。実俊に向けて。
実俊が真白を見た。「真白殿、これは——」
「聞こえていたわ」
真白が縁側に出た。筆を縁側の端に置き、我の傍らに座った。
実俊と真白が向き合った。我はその間、二人の足元に挟まれるような位置にいた。
「実俊が気になるのは分かる」真白の声は穏やかだった。だが穏やかさの質が、いつもと違った。雨の日の川のように、表面は凪いでいるが底に流れがある。「でも聞いていて、一つだけ言わなくてはならないことがある」
「何ですか」実俊の眉が、わずかに寄った。
「この子は私の家族よ」
*
短い言葉だった。
装飾のない、まっすぐな言葉だった。
我は真白の横顔を見た。真白は実俊を見ていた。視線を逸らさなかった。怒っているわけではなかった。ただ、言うべきことを言った——そういう顔をしていた。
実俊が、少し黙った。
「家族、というのは——」
「一緒に生きている、ということ」と真白が続けた。「私が困っている時にそこにいて、私が知らないところで守ってくれているかもしれなくて、私がこの子を好きで、この子も——たぶん——私を嫌いではない。それで十分よ」
「正体が分からなくても?」
「分からなくても」と真白が答えた。間を置かずに。「あなたのことだって、全部は分からないでしょう。実俊が何を考えているか、どこまでが本当で、どこからが陰陽師として言っているのか。全部分かって信頼しているわけじゃない。それでも実俊のことを大切に思っている」
実俊が黙った。
今度は、長く黙った。
*
我は毛繕いを始めた。
耳の後ろを前足で拭いながら、今の真白の言葉を頭の中で繰り返した。
家族、という言葉を、この世界の人間がどういう意味で使うかは知っていた。血のつながり、屋根の共有、食事の共有——そういう実体的なものを指す言葉だ。我は血のつながりもなく、屋根は共有しているが、食事は別で、会話も成立しない。
それでも真白は「家族」と言った。
前の世界では、そういう言葉の使い方を知らなかった。力と知識で世界を治めていた頃、我の周囲にいた人間は臣下だった。弟子だった。あるいは敵だった。「家族」という関係を、我は持ったことがなかった。
だから今、その言葉の重さを測れずにいる。
どう扱えばいいか分からない言葉が、体の中に残った。
*
真澄が縁側の端に現れたのは、その頃だった。
いつ来たのか分からなかった。気配を出さずに動く、あの男の習性だ。実俊もまで気づいていなかったようで、ほんの少し体が緊張した。
「真澄殿」実俊の声に、警戒がひとすじ混じった。
「お邪魔でござろうか」と真澄が言った。邪魔だとは思っていない声音だった。「少しばかり、聞こえておりましたので」
「聞いていたのですか」
「屋敷の内で起きることは、概ね」と真澄が淡々と言った。「真名井殿のご懸念は、ごもっともかと存じます」
実俊が少し驚いたような間を置いた。「同意してくれるのですか」
「懸念はごもっとも、と申しました」と真澄が続けた。「この猫が普通の猫でないことは、私も承知しております。おそらく真白様も、薄々はご存知かと」
真白が黙って頷いた。
「では——」と実俊が言いかけた。
「ただ」真澄が、一言で実俊の言葉を断った。「この屋敷において、その猫は一度も害をなしておりません。姫君を護り、怨霊の鎮魂を助け、屋敷の理をここまで保ってきた。私が家令として申し上げられるのは、その事実のみでござる」
実俊が黙った。
「正体を暴くことと、その者が何者であるかを知ることは、別のことかと存じますが」と真澄が言った。「真名井殿は、どちらをお求めでございますか」
*
しばらく、誰も何も言わなかった。
梅の花の香りが、わずかに届いた。まだ薄い。だが確かにある。
実俊が、我を見た。
我は実俊を見返した。
実俊の目に、昨日の分析する眼とは違うものが混じっていた。困惑、だった。整然と並べてきた理屈が、真白の一言と真澄の問いによって、どこかで足場を失っている——そういう顔だった。
「……正体を暴くことが目的ではありません」と実俊がゆっくり言った。「ただ、真白殿の傍にいる存在が、何者か分からないまま、というのが——」
「不安なのね」真白が、実俊の顔を真っすぐ見た。
実俊が少し詰まった。「……そうです」
「それは」真白の声から、先ほどの鋭さが少し抜けた。「私のことを心配してくれているから?」
実俊がすぐには答えなかった。答えが出るより先に、耳が赤くなっていた。
真白がそれを見て、少し笑った。
「ありがとう」真白が、ほんの少し眉を和らげた。「でも、この子は大丈夫よ。私が保証する」
*
実俊が帰った後、縁側には我と真白だけが残った。
真澄はいつの間にか消えていた。
真白が我を膝に乗せ、梅の木を眺めた。我は真白の膝の上で、今日起きたことを整理しようとしていた。
整理できなかった。
「保証、って言っちゃったけれど」と真白がぽつりと言った。「あなたが何者か、私も本当は知らないのよね」
我は真白の顔を見た。
「でも」と真白が続けた。「知らなくていい気がしている。知ったからといって、今と何かが変わるとは、あまり思えない」
我は真白の膝の上で、尾を一度だけゆっくり揺らした。
真白がそれを見て、また少し笑った。
「変に思う?」
我は目を細めた。
変とは、思わなかった。
ただ、真白のものの見方が——前の世界では出会ったことのない種類のものだと、改めて、そう感じていた。




