第四十八話「実俊の疑念」
実俊が来たのは、昼過ぎだった。
珍しくない。真白への用向きを口実に、この青年は週に二度は屋敷に現れる。ほぼ習慣と言ってよかった。だが今日は様子が違った。真白と少し話した後、縁側に出て我を見た。その目に、いつもの牽制や警戒と違うものが混じっていた。
分析している目だ、と我は判じた。
手元に文書を持っていた。折りたたんだ紙だ。何かを書いてきた——あるいは、書き写してきた。
我は日向ぼっこをしながら、その様子を観察した。
*
「よろしいですか」と実俊が言った。
真白が縁側に顔を出した。「なに?」
「この猫について、少し確認したいことがあります」
真白が我を見た。我は実俊を見た。
「玄丸が何か?」と真白が聞いた。
「先日の件で」と実俊が答えた。「記録を見直していました。あの夜、橋の上で何が起きたかを、もう一度整理したくて」
真白が縁側の端に腰をおろした。我は毛づくろいの手を止めずに、実俊の声を聞いた。
「あの猫が橋に出た時、水面の気が変わりました。気の流れの変化——陰陽師として記録しておくべきことなので、その夜の後に書き留めたのですが」
実俊が文書を開いた。
「水の理に属する気が、満月の光に沿って動いていました。これは自然現象としても起こりえます。川の近くでは、月の引力に従って水気が動く。それ自体は珍しくない。ただ——」
実俊が、我を見た。
「動きの方向が、一点に向かっていた。川から橋の上に向かって、収束するように。気というものは、普通そういう動き方をしません。何かが引いていなければ、気は収束しない」
*
我は毛づくろいを再開した。
実俊の観察は正確だった。あの夜、真白の声に引かれて水の理が動いたのは事実だ。それを実俊は陰陽師の目で読み取り、記録し、今こうして言語化している。
厄介な男だ、と以前から思っていた。
感情の制御は上手くないが、観察は細かい。真白への気持ちが表に出やすい分、理の分析に向かう時の冷静さが際立つ。こういう人間は、前の世界にもいた。弟子の中で一人か二人、こういう目を持つ者がいた。
「それだけで、特定の何かが引いたと断言はできません」と実俊は続けた。「ですが、他にも気になることがある」
実俊が文書をめくった。
「十八話——いや、以前式神の暴走を封じた時のことです。あの時も気の動きが不自然だった。猫の体から土の気が滲んでいた。獣が土の気を発することは、ないとは言えませんが、あの強さと精度は別物です」
「それから、市で盗人を追い払った日。あの時は——猫が人間を転ばせるような動きをしましたが、足元の土が微妙に持ち上がっていたという話を、その場にいた人から聞いています」
真白が黙っていた。
我も黙っていた。正確には、声を出せないので沈黙しかできないのだが。
*
「真白殿」と実俊が向き直った。「この猫は、普通の猫ではありません」
真白がゆっくり息を吐いた。
「そう思っているわ」と真白が言った。「前から」
実俊が少し驚いたような間を置いた。「知っていたのですか」
「知っている、というより——感じていた、に近いかしら。玄丸はいつも、必要な時に必要なことをする。偶然にしては、多すぎる」
「それを知って、怖くはなかったのですか」
真白が我を見た。我は真白の目を見返した。
「怖い?」と真白が繰り返した。「怖いって、なぜ」
「正体が分からない存在です。妖かもしれない。術を使う何かかもしれない。それを屋敷に置いておくことに、疑念を持つのは当然では」
「でもこの子は、一度も私を傷つけていない」
実俊が口を閉じた。
反論の言葉が出てこないのではなく——その反論が的外れであることに、実俊自身が気づいている。我にはそれが分かった。
「傷つけていない、という事実は認めます」実俊の声から、先ほどの鋭さが少し抜けた。「ただ——」
*
実俊が文書を折りたたんだ。
「この猫が何者かを、知りたいと思っています」
その言葉は、告発ではなかった。脅しでもなかった。ただ純粋に、陰陽師として、理解できないものを理解したいという声だった。
我は縁側から庭に降り、実俊の前で立ち止まった。
実俊が我を見下ろした。
我は実俊を見上げた。
何秒か、そのまま向き合った。実俊の目に、警戒と好奇が同じ割合で混じっていた。敵意はない——少なくとも今この瞬間は。
我は視線を外し、庭の梅の木の方へ歩いた。
梅の枝に、白い蕾がいくつか膨らみかけていた。まだ開いていない。もう少し先だ。
実俊が我の背を見ていた。
何かを読み取ろうとしている気配があった。我が何者かを、その動きから推測しようとしている。それで構わなかった。観察させておけばいい。正体を隠すつもりはないが、説明もできない。
「この猫は」と実俊が背後で言った。真白ではなく、独り言のように。「こちらの話を、理解していますね」
沈黙が答えになることは、実俊も分かっているはずだった。
梅の蕾が、白く固く、まだ閉じていた。
*
実俊が帰った後、真白が我を抱き上げた。
「実俊はね」と真白が言った。「心配するのが不器用なのよ。怖いって言いながら、本当は気にかけているから調べるの」
我は真白の腕の中で、今日の実俊の目を思い出していた。
分析する目。記録を持ってくる几帳面さ。それでいて、「傷つけていない」という事実の前で黙る誠実さ。
やはり厄介な男だ——と我は結論した。
だがその厄介さが、今後どこかで役に立つかもしれないとも、我は考えていた。理を積み重ねる人間は、いざという時に頼りになる。それは、前の世界で学んだことだった。




