第四十七話「海坊主の昔話」
波の音が、都では聞いたことのない種類のものだった。
真白が、珍しく遠出をした。
母の旧知という貴族の屋敷への使いで、港に近い浜辺の町まで出ることになったのだ。往復で半日ほど。真澄が護衛につき、我も自然に同行した。真白の用向きは午前のうちに済み、帰途につく前に少しだけ、浜を歩くことになった。
我にとって、海は初めてだった。
猫の肉体としても、アゼルとしても——記憶の底を探ると、異世界の海の気配が薄くある。あちらの海は塩が濃く、水の色が緑に近かった。ここの海は、どちらかといえば灰がかった青だ。風が違う。潮の匂いも、似ているが同じではない。
真白が浜辺に立ち、遠くを眺めていた。
「広いわ」と真白が言った。それだけだった。
我は真白の足元に座り、同じ方向を眺めた。
*
入江の岩場の辺りに、それはいた。
真澄が先に気づいて立ち止まった。我も感じていた。水の気が、岩の近くで急に重くなっている。大きい——波の音の中に、何か別のものが混じっている。低い、息のような音だ。
岩の陰から、黒い影が覗いていた。
大きかった。岩二つ分ほどの丸い頭が、水の上に出ている。顔らしいものはない——ただの黒い塊だが、こちらを向いている気配がある。
海坊主だ。
悪意の気配はない。ただ、そこにいる。長い間そこにいた、という古さが滲んでいる。岩に積もった苔のような時間の重さが、その体から伝わってきた。
真白が足を止め、岩場の方を見た。
「あそこ、何かいるの?」と真白が真澄に問いた。
「おりまする」と真澄が答えた。「古い海の主かと。害はないかと存じますが」
「挨拶してもいいかしら」
真澄が少し間を置いてから、「姫君がお望みならば」と言った。
*
真白が岩場の縁まで近づいた。我は真白の後について行った。
黒い影が、少し動いた。逃げなかった。
真白が座り込み、我を膝に乗せた。海坊主と目線を合わせるような高さになった。
しばらく、誰も何も言わなかった。波が来て、引いた。また来て、引いた。
やがて、海坊主が音を出した。
低い、響く声だった。言葉になっているかどうか、分からない。だが何かを伝えようとしている。その長さから、話を始めた——というような気配がした。
真白が耳を傾けていた。
我も聞いた。
正確には聞き取れなかった。ただ、水の気を通して、輪郭だけが伝わってきた。海のことを語っている——ずっと昔の海のことを。人がまだ船を持たなかった頃の海。岸に誰もいなかった頃の海。水と空と、それだけがあった頃の話だ。
*
長い話だった。
途中で真白がどこかへ消えた——いや、消えたのではない。我が話に引き込まれている間に、岩に腰をおろして海を眺め始めていた。話を聞きながら、ただ海を見ていた。
海坊主の声は続いた。
内容を解析しようとすると、うまくいかない。言葉の構造になっていない部分が多い。海の古い記憶が、音の形になって流れているだけだ。それでも、何かは伝わってきた。
長く生きている、ということ。
それだけが、はっきりと伝わった。
人間が数えるような時間ではない。この入江が入江になる前から、この海坊主は海にいた。海が形を変えるのを見ていた。岸が削られ、島が生まれ、船が来て、漁師の声が聞こえるようになった。全部を、水の上から眺めていた。
我は毛づくろいをしながら、それを聞いていた。
旅人同士、という言い方が浮かんだ。
この世界に来てからまだ日が浅い我と、この海にいる時間が人の歴史より長いこの存在——共通点など何もないはずだった。だが、どこかに似た気配があった。
どちらも、ここにいる理由を自分では選ばなかった。
海坊主は海に生まれ、ただそこにいる。我は猫に転生し、ただそこにいる。選んで来たのではなく、気がついたらここにいた——そういう在り方が、海坊主と我の間にある気配の正体だった。
*
話が終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
終わった、というより途切れた。話の区切りのようなものが来て、海坊主の声が止まった。
真白が岩の方を見て、小さく頭を下げた。
海坊主は動かなかった。ただそこにいた。
我は立ち上がり、一度だけ岩場の方を見た。それから前を向いた。
帰り道で、真白がぽつりと言った。
「聞こえた気がしたわ。何を言っているか分からなかったけど」
我は真白の隣を歩きながら、耳を動かした。
「波みたいな声だったわ」と真白が続けた。「波って、何か言っているのかしら。ずっとくり返しているから、何かを言おうとしているのかもしれない、って昔から思ってたの」
我は何も返せなかった。
ただ、真白の言った「ずっとくり返している」という部分が、なぜか頭の中に残った。
海坊主の話も、波も、ずっとくり返している。伝わるかどうかに関係なく。誰かが聞くかどうかに関係なく。それでも届けようとして、くり返している。
あの口無し女が、言葉を探して橋に立ち続けていたことと——どこかで同じ構造を持っていると、我は思った。
分からないことが、また一つ増えた。
*
帰路、真澄が我の隣を歩く時間があった。
人目のない道の曲がり角で、真澄が短く言った。「海坊主と話ができる猫は、珍しゅうございますな」
我は真澄を見た。
真澄は前を向いたまま歩いていた。表情は読めなかった。
それ以上は何も言わなかった。
だが、その一言の重さは、しばらく体の中に残った。
【妖怪図鑑】
■海坊主
【分類】海洋妖怪(古霊系)
【危険度】★★☆☆☆(低〜中)
【レア度】★★★★☆(稀少)
【出現場所】入江、沖合、霧の深い海面
【特徴】
古来より海に伝わる巨大な黒い影の妖怪。丸い頭部だけが水面に現れることが多く、顔の造形は記録によって異なる。恐ろしい存在として語られることが多いが、その本性は「長く海を見てきた古い存在」であり、積極的に人を傷つけることは稀とされる。海が荒れる前に現れるとも言われ、警告の存在として解釈される地域もある。
【得意技】
・古い記憶の保持:人の歴史より長い時間を海で過ごしており、古の海の様子を記憶している
・水の気の操作:周囲の潮流や気圧をわずかに変える
【弱点】
・ひしゃくを求める習性があり、船に乗った人間にひしゃくを求めてくることがある。底のないひしゃくを渡すと去るとされる
・陸の気に馴染まず、浜辺より沖の方を好む
【生態】
単独行動が基本で、群れない。縄張りという概念が薄く、同じ海域に長くいるが特定の場所に縛られてもいない。話しかけることはあるが、人間の言葉に慣れていないため意思疎通は困難なことが多い。
【玄丸の評価】
「波の音と区別がつきにくい声だったが、伝わってくるものはあった。長く生きているということが、あれほど体に染みついた存在は見たことがない。我も長く生きたつもりだったが、あの存在の前では新参者もいいところだ。旅人同士という気配があったのは、気のせいではないと思う」
【遭遇時の対処法】
刺激しなければ害はないとされる。沖合で遭遇した場合、船を止めず静かに進むのが定石。底なしのひしゃくを用意しておくのが船乗りの習慣となっている地域もある。話しかけてくる場合は、静かに聞く姿勢を見せると良い。
【豆知識】
海坊主の目撃記録は古く、文献によっては「海の坊主」すなわち剃髪した僧侶の姿と結びつけて語られる。海で亡くなった者の魂が集まった存在という説もあり、人間の歴史と海の歴史を同時に抱えた存在として捉えられることもある。




