第四十六話「鎮魂の歌」
古い橋は、月光の中で白く浮いていた。
板が何枚か腐りかけており、踏むと沈む。水の音が低く続いている。川幅はそれほどない。だが水の気が重く、底が深い場所の気配がした。何かが長い時間、この場所に留まっている——そういう淀みが、足元から伝わってきた。
真澄が橋の手前で足を止めた。
「います」と真澄が言った。それだけだった。
*
口無し女は、橋の中ほどにいた。
以前見た時と変わらない。白い狩衣に似た衣をまとい、髪が下りている。顔の下半分——口があるはずの場所——が、のっぺりと塞がれている。手が欄干に触れていた。触れているが、力を込めてはいない。ただ、そこに立っているだけだ。
真白が一歩、橋に踏み込んだ。
実俊が腕を出して、それを止めようとした。真白は実俊の腕を見た。実俊は少し間を置いてから、腕を引いた。
真白が進んだ。
我は真白の後を追った。
*
真白が口無し女の前で立ち止まったのは、橋の中ほどより少し手前だった。
二人の間に、三間ほどの距離がある。
口無し女の目は開いていた。だが焦点が定まっていない。真白を見ているのか、真白の向こうを見ているのか、分からない。体の周囲に気が淀んでいる。怨念というより——待っている、という気配だ。何かをずっと待っている。
我は真白の傍らに座り、口無し女を観察した。
水の理を薄く広げた。月光が川面に落ちて、水の気が増している。今夜は使いやすい。口無し女の気の中に、細い流れがある。怨みの層の下に、もっと古い何かが残っている。失われた前に、あったもの——その痕跡が、まだ消えていない。
真白が息を整えた。
*
真白が詠み始めたのは、声を張ってではなかった。
低く、ゆっくりと。川の音に溶けるような声だった。
——声あれば 届くものかと 問いかけて 夜の深みへ 落ちる言の葉
昨夜、文机の前で探していた歌だ。
我は自分の毛が動くのを感じた。45話と同じではない。今夜は月が高く、水の気が満ちている。真白の声が空気を定めると——我の体の奥で、何かが応えた。水の理が、声の形に引き寄せられるように動いた。
我は目を細め、その動きに任せた。
抗わなかった。引き留めなかった。月光から取り込んだ水の気が、真白の声の波に乗って、口無し女の方へ向かった。
それは我がやったのではない。真白の声が、我の中の水を引いたのだ。
*
口無し女の体が、微かに揺れた。
揺れた、というより——何かが緩んだ。長く握り締めていた手が、少し開いたような。
真白が続けた。今度は歌ではなく、ただの言葉だった。
「あなたの言葉を、聞かせてください」
静かな声だった。命令でも懇願でもなく、ただそういうことを伝えた。
口無し女の目が、真白に向いた。
焦点が定まった。初めて、真白を見た。
水の理が広がっていた。我はそこに残っている「古い何か」の輪郭を、ようやく掴んだ。彼女の失われた言葉ではない——失われる前に、あった声だ。誰かに向けて発しようとして、発せなかった声。名前を呼ぶ声。訴える声ではなく、ただ誰かに届けようとした、そういう声の残骸。
真白が、もう一度詠んだ。
——声あれば 届くものかと 問いかけて
途中で止まった。
口無し女の塞がれていた顔の下半分が、動いた。
動いた——と言っても、口が現れたのではない。ただ、その場所の気が、薄くなった。滑らかな面に、かすかな線が入った。
そこから音が出た。
声、とも言えない。息が形になった、というような。掠れた、低い音だった。
だが確かに、音だった。
*
真白の頬に、水が伝った。
泣いているのか、川の湿気か、我には判じられなかった。だが真白は目を開けたまま、口無し女を見続けていた。
口無し女が、もう一度声を出した。
今度は少し形があった。音節のようなものが、かすかに聞こえた。何の言葉かは分からない。名前かもしれなかった。誰かの名を呼んでいるのかもしれなかった。
水の理の中で、「古い何か」が動いた。
流れ出した、というより、解けた。長く凍っていたものが、ただ元の状態に戻った。怨みの層が消えたのではない——その下にあったものが、やっと浮かんできた。
口無し女の体から、気の淀みが薄くなった。
橋の上の空気が、変わった。
実俊がそれを感じたらしく、後方で息を呑む音がした。真澄は動かなかった。
*
長い時間が経ったような気がしたが、月の位置はそれほど変わっていなかった。
口無し女は、最後にもう一度真白を見た。
表情は読めなかった。顔の下半分はまだ定まっていない。だが目に、先ほどまでなかった何かがあった。怨みではなかった。
それから、彼女の体が薄くなった。
月光に溶けるように——という表現が正確かどうかは分からない。ただ、橋の上にあった気の重さが、すうと引いた。水の音だけが残った。
真白が立っていた。
動かなかった。しばらく、口無し女のいた場所を見ていた。
我は真白の足元に座り、同じ場所を見た。
*
「真白殿」と実俊が橋のたもとから言った。
真白が振り向いた。
「大丈夫です」と真白が言った。声は落ち着いていた。だが我には分かった——落ち着いているのではなく、まだ今起きたことの中にいる。整理する前の、静けさだ。
我は真白の足に、頭を押し付けた。
真白が我を見た。それから、かがんで我を抱き上げた。
腕の力が、いつもより少し強かった。
「行きましょう」と真白が言った。今度は実俊に向けてではなく、誰にともなく。
四人が橋を渡り、もと来た道を戻った。
月が中天を過ぎ始めていた。霜の地面に、四つの影が伸びた——一人と一匹と二人の影が。
我は真白の腕の中で、今夜起きたことを整理しようとした。
整理できなかった。
理として分解しようとすると、どこかで崩れた。あの瞬間、水の理が真白の声に引かれて動いた——それは我がやったことではなかった。あの女の残した声の痕跡を、真白の言葉が溶かした——それは我には、できないことだった。
力ではなかった。術ではなかった。
真白が、ただ声を届けようとした。それだけだった。
我にはまだ、その理が分からない。
分からないまま、真白の腕の温もりの中で、我は目を閉じた。
【妖怪図鑑】
■口無し女
【分類】怨霊(人霊系)
【危険度】★★★☆☆(中)
【レア度】★★★★☆(稀少)
【出現場所】橋の上、川辺、人の往来が絶えた夜道
【特徴】
生前に言葉を奪われた女性の怨念が霊となった存在。顔の下半分——口があるべき場所——がのっぺりと塞がれており、声を出せない。言葉を失った苦しみが怨念として凝り固まり、同じ場所に留まり続ける。積極的に人を傷つける力は持たないが、その気配は周囲の気を重く淀ませ、長く居合わせると気力を奪われる。
生前は権力者に言葉を封じられた女性であったとされる。訴えるべき声を持ちながら奪われた怨みが、死後も晴れず留まる原因となった。
【得意技】
・気の淀み:周囲に重い怨念の気配を漂わせる。長時間さらされると気力が薄れる
・同場所への固着:特定の場所に強く結びつき、離れない
【弱点】
・言霊:言葉そのものを届けようとする声に反応する。怨みではなく、声を「受け取る」行為が解放の鍵となる
・水の理との共鳴:月光の下、水の気が高まる夜は気の層が薄れやすい
【生態】
満月の前後に目撃が集中する。川や橋など、水の近くを好む。人を呼ぶわけでも襲うわけでもなく、ただ待っている——何かを待ち続けているような気配がある。
【玄丸の評価】
「怨念の層の下に、失われる前の声の残骸があった。あれは怨みではなかった。届かなかった言葉が、行き場をなくして留まっていただけだ。真白の声が、我の水の理を引いた——そう整理しているが、正直なところ、あの瞬間の理はまだ分からない。言葉というものが、我の知る理の外にある何かを動かした。それだけは確かだ」
【遭遇時の対処法】
刺激せず、立ち去るのが基本。怨念を持つ霊に対して怒鳴ったり、術で強引に封じようとすると逆効果になる場合がある。言霊の素質を持つ者が静かに声を届けることが最も有効とされるが、そのような人物は稀である。
【豆知識】
言葉を奪われた者の怨霊は、文献に散見される。「声なき訴え」が死後も続くという考えは平安の世に根強く、こうした霊の存在は権力による言論の封殺への民の恐れを反映しているとも言われる。口無し女が「満月の夜に歌を詠む者が近くにいると静まる」という記録が残っていたことが、今回の手がかりとなった。




