第四十五話「満月の儀式」
月が出るのを、我は縁側で待った。
日が落ちてから刻半ほどが経ち、空の端がようやく白んできた。雲は少ない。今夜は良い月になる。そう判じた時、庭木の影が薄く伸び始め、白砂の地に細い線を描いた。
我は目を細めた。
月光が皮膚——毛並みの奥——に届くのは、説明のつかない感覚だ。あたたかいともいえず、冷たいともいえない。ただ、体の中の何かが、ゆっくりと動き始める。水が低いところへ流れるような、そういう自然な移ろいだ。
今夜は満月だ。
*
屋敷の中で、真白が支度をしていた。
我が座敷へ戻ると、真白は文机の前に座り、紙に何かを書いていた。書き直した跡がいくつかある。一度書いて、消して、また書く。そういう作業を、しばらく繰り返している。
我は傍らに座り、その横顔を眺めた。
真白は書いている時、唇がわずかに動く。声には出さないが、言葉の形を口の中で確かめている。詩を選ぶ時の癖だ。いつもは和歌を詠む時だけそうなる。だが今夜の唇の動きは少し違う——選んでいるのではなく、探している。まだ言葉が定まっていない。
我は耳をわずかに動かした。
探している言葉が何なのか、我には分からない。ただ、その探し方が、あの口無し女の「返してあれな」という下の句と、どこか同じ性質を持っているような気がした。失われたものへ向かって、言葉が手を伸ばしている。
しばらくして、真白が筆を置いた。
紙に書かれた歌を、我は横から眺めた。読めた。
——声あれば 届くものかと 問いかけて 夜の深みへ 落ちる言の葉
真白が我を見た。
「変かしら」
我は尻尾の先を一度、揺らした。
真白が小さく笑った。「変じゃない、と取っておくわ」
*
実俊が来たのは、月が中天に差し掛かる少し前だった。
真澄も一緒だった。珍しい組み合わせだ。二人が揃って来るのは、あまりない。真澄は普段、実俊と並ぶことを避けるような気配がある。それが今夜は、玄関先で肩を並べていた。
実俊が懐から紙を出した。目撃者の証言をまとめたものだ。我も一度見た、あの月齢の傍線が引かれた紙だ。
「今夜の月の出の刻から、子の刻の間が最も目撃が集中しています。場所は東の市の外れ、古い橋の近く」
真白が頷いた。
真澄が縁側の方を見た。月を確かめるように。
「気の乱れは、我も感じております」と真澄が言った。「昨日よりも強い。今夜は何かが起きる」
我はその言葉を聞きながら、自分の体の中の動きを改めて確かめた。月光が蓄積するほど、体の奥の何かが揺れる。揺れる——という表現が正確かどうか分からないが、平静ではない。普段は眠っている何かが、目を覚ましかけている。
この感覚は初めてではない。だが今夜は、これまでとは質が違う。
*
出る前に、真白が我を抱き上げた。
準備を終えて、四人——一人と一匹と二人——が玄関に集まった時だ。真白が自然な動きで我を腕に抱えた。我を抱く時の角度が、いつもと同じだ。急いでいる時でも、この角度だけは変わらない。
真白が小さく息を吸った。
そして、先ほど書いていた歌を、声に出して詠んだ。
大きな声ではなかった。ほとんど独り言に近い、低い声だった。
——声あれば 届くものかと 問いかけて 夜の深みへ 落ちる言の葉
我は、自分の毛が逆立つのを感じた。
逆立つ、というのは正確ではない。恐怖ではない。毛の一本一本が、音の波に反応した——そういう感覚だ。真白の声が、空気の中に何かを定めた。形のない何かが、一瞬だけ輪郭を持った。
それは消えた。ほんの一瞬で。
だが確かに、あった。
我は真白の腕の中で、体をわずかに固くした。真白はそれを感じたらしく、少し腕の力を強めた。
「行きましょう」と真白が言った。
実俊が先に立った。真澄が後ろについた。
我は真白の腕の中で月を見上げた。
丸く、白く、今夜はいつもより近い気がした。
*
東の市の外れへ向かう道は、夜更けの静けさの中にあった。
人通りはない。遠くで犬が鳴き、すぐに黙った。霜の残る地面が、足音を小さく吸った。真澄だけが音を立てない——あの男の歩き方は、昼も夜も変わらない。
我は真白の腕の中から、行く手を見ていた。
月光が地面に降りて、白い道を作っていた。その先に、橋がある。古い木の橋だ。昼間に一度、我は単独で下見をしていた。水の気が淀んでいた。何かが、その場所に引き寄せられている。
体の奥の、目を覚ましかけている何かが、また揺れた。
今夜、ここで何かが動く。
それだけは、分かった。




